列車の窓の外の風景が飛ぶように変わっていく。
今高町ヴィヴィオはミッドから少し離れた管理世界である『トースギル』に向かう列車に乗っている。
ヴィヴィオは無限書庫の司書資格を持ち、ストライクアーツを学び、そのどちらの予定もない日には自ら勉強に勤しむぐらいには多忙である。
本来は今日も無限書庫に赴いて司書の仕事を手伝うか、何か調べ物をしようと思っていた。
ならばなぜそんなヴィヴィオが、『トースギル』へと向かう列車に揺られているのか、その答えは一つにつきた。
ヴィヴィオがちらりと自分の隣の座席でぼんやりと外を見ている街中でばったり出会った年上の友人に目を向けた。
「ねえ、後どれくらいで着くか知ってる?」
「さあ?」
「待ち合わせ時間とかは?」
「さあ?」
「…………今日何月何日」
「さあ?」
「今ここで私が大声をあげたらお縄になるかな?」
「さあ?」
ヴィヴィオがあからさまにむっとした顔をして、隣の人物の耳を思いっきり引っ張った。
「エーデールー! 聞いてないでしょ!」
「あいたたた、自分が一体何をした」
「さっきから話しかけてるのに私の話聞いてないよね? 仮にも女の子にひどいと思わないの?」
「だってヴィヴィオは友人であろう?」
「だからって適当に答えていい事にはならないよ」
「む、確かにそうか。すまんな」
隣の人物──エデルが乱雑に伸ばした赤毛を軽くかいて、ヴィヴィオに頭を下げた。その表情はあからさまに気まずそうで、いつもの狂犬のような雰囲気がなかった。
ヴィヴィオが細めていた赤と緑のオッドアイズを緩めて、ゆるりと笑みを見せた。
「緊張してるの?」
「さあな」
「強がらなくてもいいんだよ?」
「何せ随分と久しぶりだ。自分でもよく分からぬ部分もある」
エデルがそしてまた窓の外へと目を向ける。ヴィヴィオにはその赤い瞳がなんだかいつもよりも寂しげに、不安に揺れているような気がした。
にひ、とヴィヴィオが悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「エーデル」
「今度はなん────」
「えい」
エデルが呼びかけられた声に再び向き直ろうとすると、その直前で肩口あたりを強く引っ張られた。すかさず体幹の力を使ってバランスを保とうとするが、抵抗むなしくそのまま横向きに倒れ、頭がやわっこいものの上に陣取った。
いわゆる、膝枕、というやつだった。
「ヴィヴィオ、何してる」
「ひざまくらだよ」
「いやそれは見れば、否、感じてわかるのだがなぜそんな事をする?」
「安心するでしょ。私もママたちにやってもらうのはお気に入りなんだ〜」
ほわわんと言い返すヴィヴィオにエデルが小さく息を吐いて、上体を起こそうとする。しかし、それを察知したヴィヴィオが空いた両手で素早くエデルの肘の一部を極めた。
「大人しく、ね?」
「……其方、地味に極め技上手くなったな」
「ちょーっと良くないお手本が近くにいるからなぁ」
くすくすとヴィヴィオが笑う。そして、そのヴィヴィオ曰く『ちょーっと良くないお手本』は、大きいため息をついた。
「寝る。着きそうになったら起こしてくれ」
いうや否やヴィヴィオの返答も聞く事なく目を閉じ、五分もしないうちに規則正しい寝息を立て始めた。
「エデルでも、緊張とかするんだなぁ」
ヴィヴィオが優しくエデルの赤毛を指ですき始める。女子のように特に手入れされていない髪は変な癖がそこらかしこについていて、やたらと固くてごわごわしていた。
管理世界の一つ、『トースギル』。今回のヴィヴィオとエデルの旅の目的地、有名な観光都市で、今の時期は盛んに夏祭りがあっている場所でもある。
そして何より──
ヴィヴィオがエデルの髪を梳きながら、外の景色へと目を向けた。
「エデルのご両親、かぁ……」
曰く、『夕刻、祭りにて待つ』、と。
ほえー、ふえー、と自分の隣でヴィヴィオが感心の声を上げていた。
時刻は既に夕刻、静かに沈む兆しを見せ始めている太陽は、祭りのために華々しく飾り立てられた『トースギル』を紅く、幻想的に染めていた。
駅から降りたすぐから続く立ち並ぶ出店たちは、それぞれが変えがたい魅力を持ち、人々を誘蛾灯に引き寄せられる虫のごとく、引き寄せて話していなかった。それが軽く視界いっぱい続いているのだから大したものである。
観光都市として発展した理由を垣間見たような気がする景色だった。
乱雑に切りそろえた髪をガリガリとかいた。
「……まあ一先ず親父を探さなければな。なあヴィヴィオどこ辺りにいると思う?」
「…………りんごあめ、わたがし、お好み焼き」
「……なあ、どう思う?」
「たこ焼き、ベビーカステラ、クレープ……」
「あー、ヴィヴィオ?」
自分が隣の小さな友人に声をかけると、彼女はその二色の瞳をきらきらと輝かせながらこちらを見上げてきた。
「お祭りってすごいねエデル! 学園祭とかとは比べ物にならないよ〜!」
「そ、そうか。良かったな」
「うん! 連れてきてくれてありがと!」
「目的は忘れてくれるなよ……」
「任せといて!」
微塵たりとも信頼できなかった。
まあわざわざここまでついてきてくれたのだ、出店の食事くらいたらふく食べさせてやろう。自分も伊達にバイトをしていない。
ポケットの中に手を入れて財布を確認すると、がやがやと祭りの熱狂で騒がしい人混みへと二人で足を踏み入れた。
そして、速攻でヴィヴィオが炸裂し始めた。正に、楽しさと興味爆発、と言った感じである。
「ね、エデル見て! りんごあめ! りんごあめだよ! りんごあめ!」
「そんな韻を踏まなくても見ればわかるよ」
「ほらあっちにはわたあめ! すごいよふわふわだよ!」
「まあわたあめは得てして柔らかな見た目だろうな」
「ねえさっきからいろんな人が着てるのって『ユカタ』ってやつだよね! なのはママが似たの持ってたんだよ! いいなー、私もあらかじめわかってたら用意したのになー」
「そうかヴィヴィオは物知りだな」
ヴィヴィオが楽しそうに自分に報告してくるのを苦笑いで受け答えする。この様子ではもはや当初の『自分の両親を探す』という目的を忘れていそうだった。
まあ、自分が覚えていればいいか、とぼんやり思う。
がやがやとやかましい人混みの中二人で歩みを進める。
「ヴィヴィオ、手」
「え?」
「逸れるといけないからな」
「ん!」
「うむ」
ヴィヴィオは一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、すぐに満面の笑みを浮かべて自分の手を握った。前握った時と同じ、日々の鍛錬の後を感じる少し硬い掌だった。
えへへ、とヴィヴィオが嬉しそうに自分の手を握ってそのままにぎにぎと自分の手を揉んだ。
「男の手なんぞ触っても面白くないであろう?」
「そーでもないよ? 私パパとかいなかったから男の手を握ったりするの、結構新鮮」
「ザフィーラとか仲よかったのであろう?」
「え? ザフィーラ犬じゃん?」
こてん、とヴィヴィオが首を傾けた。
哀れ、オレの生涯の好敵手……。
二人で手を繋いで暫く歩く。歩幅がかなり違うのでヴィヴィオに合わせることになるために、その速さは遅々としたものだが、お祭りで早く歩いても良いことなどない。
雰囲気を楽しむならこれでも良いだろう。
「ねえ、エデル」
「如何した?」
「エデルのパパとママってどんな人?」
思わずヴィヴィオの顔を見つめて立ち止まってしまう。
「其方、覚えていたのか? 目的」
「あーひどーい! 私だってそれくらい覚えてます〜」
「いや、すまぬ。でも、なぜそんな事を?」
「だって今から会うんだし、どんな人かはなんとなく知っておきたいなー、と」
「…………自分の両親、か」
脳裏に巌のような巨漢と、ぽわぽわした空気をまとった女性が浮かんでくる。
ちら、と横へと目を向ければ、ヴィヴィオはその紅玉と翡翠をキラキラと輝かせて自分を見ていた。
はあ、とため息をつく。
「母さんは普通の人だよ、割と。お菓子とか、古文書とか好きだ」
「だいぶバラエティに富んだ感じで好きなもの紹介された……。じゃあ、パパの方は?」
「親父殿は、なんというか、『最強』だな」
「さいきょう?」
自分の言葉を繰り返すヴィヴィオに、うむ、と頷いてみせる。
「親父殿はな、オレの家系唯一の『破門者』なのだ」
「八極拳を、破門ってこと?」
「うむ。そして、八極拳をベースに自分の体に合うように拳法を
「ほえー、そんなこと、できちゃうの?」
「できないよ、普通は」
オレ、つまり
しかし、それに背いたのが自分の親父なのである。
この技は威力が足りないな、ならば違う武術の技術を応用して、こう改良しよう、といった風に
故に、特異。故に、異端。故に、落伍者。
そう、オレの家系から切り離されたのが親父殿なのだ。
「まあ、見た目は傷だらけのゴリラだと思えばいい。ちなみに自分の面構えは親父殿の遺伝だ」
「へへぇー、なんかすごく目立ちそうだね」
そういうと、ヴィヴィオがきょろきょろと辺りを見回して、遠くの方を指差した。
「あんな人?」
ヴィヴィオが指差した方を自分も見てみる。がやがやとやたらと人が集まった屋台の中で、190を超える大丈夫がじゃんじゃかと焼きそばを作っているのが見えた。
その髪の色は、赤。
果てしなく見覚えがあった。
その隣を見てみる。
アホのようにでかい麦わら帽子を被った女性が、水色の髪を揺らしながら客からお釣りを受け取っていた。
泣きたくなるほど見覚えがあった。
「……よく見つけたな、ヴィヴィオ」
思わず小さく息をついた。
あの人たちはいつから焼きそばの出店を経営するようになったのであろうか。
思わず自分の手は先程の大丈夫とよく似た、赤い髪を乱雑にかいていた。
隣で白い煙が立ち上った。
「吸うぜ」
「もう吸ってるという指摘は呑み込んでおこう」
「物分かりのいい息子で何より」
出店から少し離れた草はらで、自分と隣り合って座りながら煙草を一本取り出した。
因みにヴィヴィオは、にんまりと笑った母さんに有無を言わせず何処かに拉致されていった。
「エデル〜」と困惑したような彼女に手を振ったのは記憶に新しい。
隣を見る。
赤髪の190を越えようかという背丈の巨漢。その瞳は自分のように猛禽を思わせる鋭さで、頰には一際大きな傷跡が一筋走っていた。
オレの家系唯一の破門者。そして、自己流に八極拳を別物に組み替えて、戦闘技能だけならば次元世界でも指折りの実力者。
自分の、親父、であった。
ゆっくりと、ふかすようにして親父が紫煙を吐き出す。
「久しいなァ、二年ぶりくらいか?」
「そんなところであろう」
「そうかァもうそんなになるか。今年で17だっけ、お前」
「ん、確かそんなとこであろう」
「適当だな、我が息子ながら」
「親父の息子だからな」
るせい、と親父が自分の脇腹を小突いて、ニヤリと笑う。凄い極悪人の面構えになっていた。
そうか自分も笑うとこんな感じなのだろうな、とぼんやりと頭の端で思った。
「親父達は今までどこで何してたのだ? 今日は焼きそばを作っていたみたいだが……」
「いろんな世界をふらふらと、な。今日のは友人の手伝いだ。小遣い稼ぎにもなるし、アイセアがああいうの好きだしな」
「母さん、昔から物売るの好きだったもんな」
「作るのは専ら俺だけどな」
「料理の腕は死んでるからなあの人」
「格闘技能に全て売り払っちまったのがアイセアだからな……」
アイセア、というのは自分の母さんの名前だ。フルネームは、『アイセア・アーセリア』。音がアばっかりで言いにくい、とは本人の弁だ。
ふふ、と親父との間に乾いた笑いが交わされる。
母さんの舌は馬鹿じゃないのだが、栄養と薬効を重視するから薬膳料理みたいになってしまうのが欠点だった。自分も親父も実験台になった数は空の星に届かんとする勢いだ。
舌に苦いものを思い出していると、隣からの強い視線を感じる。
「何だ?」
「いいや、でっかくなったなぁと思ってよ」
「190を超える大男に言われてもな」
「カカカカ、僻むな僻むな」
親父は根元近くまで吸い終えた煙草の吸殻を魔力を込めた手のひらで握りしめて、跡形もなく消しとばすとごろんと寝転がった。
「なあ、息子よ。今日一緒に来ていた嬢ちゃんはお前の女か」
「は?!」
思わず凄い勢いで寝そべる親父へと目を向ける。
「だってお前が連れて来るのってそんくらいしか考えれねえし」
「いやもっと他にも色々あるだろうが!」
「え、なにペットとか?」
「人間だろうが! ヴィヴィオは!」
「じゃあ幼女趣味だったのかお前? それならそうと早く言えよな、俺にも心の準備が……」
「お、おま、お前! 親父といえど流石に怒るぞ!」
と、そこまで噛み付くようにして話したとこらで、親父がにんまりと笑みを浮かべた。
からかわれたようだった。
思わず自分の未熟さと親父の意地の悪さに腹が立ち、頭をガシガシと乱雑にかいた。
そんな自分を見て親父が豪快に笑い声をあげる。とても、楽しそうに。
「で、本当にお前の女なのか?」
「……友達だよ、普通の」
「へへえー」
「何だその目は」
「友達ねぇ」
「言いたいことがあるなら言葉にするべきだ、親父」
「言っていいのかよ?」
「ああ。言葉次第では相打ち覚悟の无二打を打ち込むが」
「ならやめとくわ。負けねえけどめんどくせえし」
そこまで話してぷつりと会話が途切れた。
なんとなく、自分も親父に従って芝生の上に寝転がる。足の短い人工芝が服を通して素肌をちくちくとさし、柔らかく頰を撫ぜる。
まあそんな感覚も悪くない。
ぼんやりと空を見上げて、光る星に手を伸ばす。
かつてオレが見た、漆黒の美しい夜空をつかむように。
そんな事をしていたから唐突な親父の言葉への返しが遅れてしまった。
「お前随分人間らしくなったなァ」
ぽつり、と呟くような言葉。
それに対して、自分は何も言わない。何も、言えない。
「……今日自分を呼び出したのは何故だ? そろそろ理由を教えてほしいものなのだが」
だから、あからさまに話を変える。正しいかはわからないが、今はそれしかできないから。
親父は自分が返答しなかったことには特に何も反応は見せず、ただゆるりと表情を緩めただけだった。
そして、体を起こすと、親父は自分と同じ赤い瞳で自分を見据えた。
「……通り魔事件、
「
自分が聞きなれない言葉に眉を寄せる。そんな様子に頓着せずに、親父が言葉を続けた。
「████だよ」
「
静かに、日常が崩れる音がどこからか聞こえた。
ヴィヴィオは、エデルの母に連れ去られるように連れてこられた衣装室に連れてこられていた。
辺りには数多くの浴衣。おそらく祭りのためのレンタルショップも兼ねているのだろう。
「あ、あのー、なんで私はここに……?」
ヴィヴィオは大きな麦わら帽子を被ったまま、鼻歌を歌って浴衣を物色するエデルの母に声をかける。
すると、問いかけられた当人はくすくすととても楽しそうに笑った。
「だって、お祭りに浴衣なしは寂しいわ。せっかくの美人さんなんだから着飾ったほうがいいじゃない」
「あ、ありがとうございます……?」
「いえいえ〜」
そしてまたふんふんと楽しそうに鼻歌を歌いながら、浴衣の物色を始める。そんな無邪気な様子を見て、ヴィヴィオはエデルとはあんまり似てないな、と思う。
そして直ぐに、でも少し強引なところは似てるかも?と思い直す。
「ねー、ヴィヴィオちゃーん、こっち来てこっちっ!」
「は、はいっ」
ヴィヴィオがとてとてと呼ばれた方にかけていく。
「私的には、これかこれがヴィヴィオちゃんに似合うと思うんだけど……、ヴィヴィオちゃんの体のサイズってどのくらい?」
「ええと……」
少し考えて、ヴィヴィオが学年はじめの身体測定の結果を教えると、浴衣二着をもったエデルの母の眉が寄せられた。
「うーん、それじゃあこれはちょっとちっちゃいかもなァ。かといってちっちゃいサイズかぁ……」
ぴこん、とヴィヴィオの頭に一つのアイデアが浮かんだ。
「あ、あのそれってどのくらいの大きさならピッタリですか」
「ん? うーん、そうだねえ160くらいあれば十分じゃないかな」
「なら大丈夫ですっ」
「ほほう〜?」
ぐっとガッツポーズを見せると、麦わら帽子の女性の目が楽しそうな色を浮かべた。
ヴィヴィオは、部屋の隅に置いているバックから自らのデバイスである、白い兎を取り出した。
「クリス、お願い」
デバイス、セイクリッドハートが呼びかけに応じてヴィヴィオの体をいつもの戦闘用の体よりも少し幼く、15歳ほどまで成長させる。
「これなら大丈夫でしょうか?」
「ええ、ええ! とってもいいわ! ヴィヴィオちゃんとっても器用なのねっ」
「えへへ、そんなに難しいことじゃないですよ」
照れたように笑うヴィヴィオにエデルの母が嬉しそうに浴衣を着付けていく。されるがままになりながら、ヴィヴィオは少し自分の胸が弾んでいるのを感じた。
女の子は、いつだっておしゃれが好きなものなのだ。
「よし、でーきた。今度は髪しちゃうからここのとこに座って〜」
「わかりました〜」
「ん〜、ヴィヴィオちゃんって髪が綺麗ね〜」
「そ、そうですか? ありがとうございますっ」
「
後ろの女性は、まるで自らの娘にするかのように、丁寧にかつ慣れた手つきでヴィヴィオの髪を梳いていく。
その優しい触れ方にこそばゆさを感じながら、ヴィヴィオは姿見の鏡越しに自分の背後の女性、『アイセア・アーセリア』へと目を向けた。
大きな麦わら帽子に押し込められた水色の髪。それと同色の、夏空を思わせるような瞳。そして、見たものの心を癒すような、柔らかな表情を浮かべた顔。
とても、見覚えがあるものだった。
「あ、あのっ、アイセアさん」
「ん? なあに?」
「あの、アイセアさんってもしかして
『アイセア・アーセリア』。
その名と特徴は、ヴィヴィオの知る一人の人物によく似ていた。
元DSAA三年連続世界王者、『月光』アイセア・アーセリア。若干15歳で世界一に輝いたカウンターパンチャー。
ヴィヴィオも師匠であるノーヴェから何度か試合を見せてもらったことのある、超のつく有名人だった人だ。
アイセアはさも面白そうに笑った。
「ふふ、たぶんそのアイセアであってるわ〜。私もそこそこ顔が売れてるのね」
「有名なんですものじゃないですよ〜。三年連続チャンピオンなんて、今でも破られてないですし」
「あらあら〜、なんだか嬉しいわ」
アイセアの三年連続世界王者という記録は、十数年だった今でも破られていない記録だ。故に彼女のDSAAでの活躍は、一種の伝説であった。
アイセアがヴィヴィオの長い金髪を結いながら、尚も楽しそうに笑った。
「私途中で
「それも一種の語り草になってるみたいですよ」
「あらそうなの〜」
アイセアが伝説的な扱いをされていることにはもう一つ理由があった。それは、彼女が四年目の世界大会の目前で
本当に、ふらりと居なくなったのだ。世話になって居た所属ジムに書き置き一つ残さず、ふらりと。
「あのー、アイセアさん、失礼でなければ一つ聞いてもいいでしょうか?」
「なんで失踪しちゃったかってこと?」
けろりと言ってみせたアイセアに、少しヴィヴィオがずっこけそうになる。ヴィヴィオとしてはなかなかに繊細な問題で、答えたくないと言われても当然なものだと思っていたのだが、当の本人はそんなこともなかったらしい。
「んー、さっくりいうと私はね、恋をしたの。奪われるみたいに、焼き焦がすようにね〜」
「こ、恋?」
「そ〜よ、恋。ラブよ〜ラブ〜」
「その相手っていうのはもしかして」
「そーよ、今の旦那さん。あの極悪人の顔したゴリラよ〜」
「ご、ゴリラ……」
仮にも自分の恋した旦那に物凄いことを言うアイセア。
「いや〜、あの人変な人だったのよ〜」
「と、いうと?」
「私とはね、トレーニング中の森の中で偶然あったのよ。そしたら突然『お前かなり強いだろ? 殴り合おうぜ』って。変でしょ〜犯罪者スレスレよ〜」
「そ、そうですね……」
なんだか黒髪のチャンピオンからも聞いたことのある流れだった。ヴィヴィオも、「貴方の息子も似たようなことしたらしいですよ」とは流石に言えずに曖昧な笑みで流しておく。
アイセアはそんなヴィヴィオの態度に気づいた様子もなく、遠い目をして居た。おそらく当時のことを思い出しているのだろう、その頰は僅かな朱が彩って居た。
「でも綺麗だったの、あの人の瞳が。見惚れたの、あの人の雰囲気を。ついていきたいと思ったの、あの人の────
ヴィヴィオの髪を編み込みながらアイセアの表情に優しいものが宿った。その言葉は非常に情熱的で、未だ初等部のヴィヴィオにはそれだけで顔が赤くなってしまうような内容だったが、それでも一つ聞き逃せない言葉があった。
「エデルってどういう事、ですか?」
「ん? あの子から何も聞いてないの?」
「ええと、はい?」
なんとなく何を聞かれているか釈然とせず、語尾が疑問形になってしまった。
ヴィヴィオの記憶が正しければ『エデル』とは、アイセアとその夫──よく考えればいい名を知らない──の息子、つまりヴィヴィオの友人の名のはずだ。
しかし今のアイセアの発言は、どう聞いても夫の名を呼ぶ流れだった。
アイセアが目を丸くすると、虚空に目を向けて少し考えるようなそぶりを見せて、まあいいかと呟いた。
「ヴィヴィオちゃんって、私の息子自己紹介した?」
「ええと、一応しました」
「じゃ、あの子の事だから『自分はエデル。唯のエデルだ』とかそんな感じの自己紹介されたんじゃない?」
「そ、そうですっ! なんでわかったんですかっ?」
「ふふふ、これでも母だからね〜」
アイセアが自慢げに胸を張ってみせたが、すぐに元に戻っておどける様に舌をちろりと出す。
「ま、『エデル』ってみんなそう名乗るみたいなのよね〜。私の旦那さんもそうだったし〜」
そういうと、アイセアの麦わら帽子の向こう側の水色の瞳が、すこし色の濃さを増した様にヴィヴィオには見えた。
「『エデル』って名前ね、引き継ぐものらしいの」
「え?」
「簡単に言っちゃうと、世襲制、ってこと」
世襲制。確か芸名や、技術などをついでいくことを指す言葉だと、以前何かの本で読んだのを思い出す。
つまり、『エデル』というのは、名前や家名などではなく、称号の様なものだということなのか、とヴィヴィオの中で解釈が行われる。
「私の旦那さんも、お義父さんも、そのまたお父さんも、何世代も前もずーっと、『エデル』。もちろん、あの子も」
「なんでそんな事を……?」
「わかんないわ。たぶん、『エデル』にしかわからない事。何となく、呪いみたいなものかなァ、って感じがするけど」
ヴィヴィオがその言葉に黙り込んでしまう。
(本当に、
あの言葉は、今まで沢山いた『エデル』、その一人にしか過ぎない、そういう意味だったのではないかと感じた。
そして、おそらくそのヴィヴィオの予想は、間違っていなかった。
アイセアが困った様な笑みを浮かべた。だが、ゆっくりと、その瞳の色が淡くなっていき、夏空を思わせる色合いへと戻る。
そして、最初の様な優しい笑みを浮かべるとヴィヴィオの髪を優しく撫でた。
「でーきた。ヴィヴィオちゃん、立ってみて〜」
「あ、はいっ」
ヴィヴィオがアイセアの言葉に慌てて立ち上がった。しゅり、と小さく浴衣の生地が擦れる音が聞こえた。
立ち上がったヴィヴィオの肩にアイセアが手を添えて、鏡越しのヴィヴィオに声をかける。
「どーお、ヴィヴィオちゃん」
ヴィヴィオの目が、姿見に映し出された自分を見つめる。
「ほわぁ……」
身を包むのは、淡い色合いの桃色の浴衣。そして、無数の大きなナデシコの花が華々しく彩っており、ヴィヴィオの明るい雰囲気を引き立てている。
そして、いつものツーサイドアップの金髪は、アイセアの手によって結い上げられ、うなじから首筋にかけてを惜しげもなく晒しており、大人っぽい魅力を見せていた。
「綺麗……」
ヴィヴィオが自分の姿を見て、言葉がこぼれた。
そして、花が咲いた様な笑みを浮かべてアイセアの方へ向き直った。
「ありがとうございますアイセアさん! すっごく綺麗です〜!」
「ん。い〜のよ〜、ヴィヴィオちゃん〜」
アイセアとヴィヴィオが手を握り合ってきゃいきゃいとはしゃぐ。
ヴィヴィオはすこし憧れていた浴衣を着せてもらえて、こんなに綺麗にしてもらったことが嬉しく、アイセアは今までできなかった女の子の髪を結ってあげる、という経験ができて非常に満足だった。
見た目は大人ながらも、年相応にきゃー、とはしゃぐヴィヴィオを見て、アイセアが一層優しげな笑みを浮かべた。
「ねえ、ヴィヴィオちゃんにとってあの子は、エデルはどんな存在なの」
「エデル、ですか……」
「うん、あなたの思ってる事を教えて欲しいの」
ヴィヴィオが、エデルとの出会いと、関係を思い出す。
初めて会ったのは、無限書庫、ファビアとの一件でだった。
ルーテシアとともに現れて、ファビアと喧嘩をして、ヴィヴィオを睨んだこともあった。その時に怖い人かも、と思っても何でか本当に怖い人とは思わなかった。
次は、アインハルトとの模擬戦の時。遠巻きにこちらを伺っていたのには気づいていた。
そして、関係が大きく変わったのは、いろいろあって二人で食事をして、いろいろお話をしてから。
そして、その関係に名を付けたのだ。二人で、ヴィヴィオと、エデルで。
ヴィヴィオがじぶんをみつめるアイセアに向き直って、しっかりと目と目を合わせた。
「エデルは、私の大事な友達です」
アイセアがとても満足げな笑みを浮かべて、ヴィヴィオに抱きついた。これには流石のヴィヴィオも慌てた。
「あ、アイセアさんっ?!」
ヴィヴィオは呼びかけるが、アイセアは特に気にした様子もなく、抱きつく力を強めて、手の中の少女の耳へと口を寄せた。
「ほんとはダメなの。でも、ヴィヴィオちゃんだから、あの子のために一つ教えておくわ」
アイセアか自分の年の半分もない少女を、自分の息子を友達だと言う少女を、優しく抱きしめる。
「『エデル』にはね、『エデル』の他に、名前があるの。たいせつな、たいせつな、その人だけの名前が」
「名前……?」
「ええ。自分が大切だと思った人にしか教えない、大事な名前。私の旦那さんなんかは『真名』ってよぶわ」
『真名』。ヴィヴィオが、口の中で何度も、同じ言葉を繰り返す。
「きっとあの子はそれを誰にも教えてない。それは、あの子がどうしようもなく『エデル』だから」
ヴィヴィオは、何も言わない。何を言うべきかも、わからない。
「でも、いつかあの子が真名を言う日が来たら、ちゃんと受け入れてあげて欲しいの。我儘なお願いだとは思うわ。けど、けどね……」
アイセアがゆっくりとヴィヴィオから離れて、今までの優しげに笑みを浮かべた。
ヴィヴィオにとって、その笑顔はなんだか自分の母を思わせるものだった。
「私、あの子のお母さんだから」
ヴィヴィオは、迷うことなく、アイセアに向けて精一杯の笑顔を返した。
「もちろんです。だって、エデルは私の友達ですから!」
その答えだけは、きっとヴィヴィオはずっと変わらないと、そう思っていた。
パーカー姿のエデルと魔法ですこし成長したヴィヴィオが祭りの中を連れ立って歩く。
ちらりとヴィヴィオが隣を伺う。しかし、隣はぼんやりと出店を見るだけで気づく様子はない。
少しムッとしたヴィヴィオが、何も言わずに近くをぶらぶらしていた手をひっつかんでぐいと自分の方へと寄せた。
ヴィヴィオの魔法による成長とともに大きく育った胸部が、むんにゅりとあたり形を変える。
「おいヴィヴィオ」
「つーん」
エデルがそこでようやくヴィヴィオの方を見て、驚いたような、慌てたような、照れたようなそんな混ぜこぜになった反応をした。
その様子にヴィヴィオの溜飲がわずかばかり下がる。
「ねえ、エデル。まだ私この服の感想もらってないんだけどナー」
「そうだったか?」
「あー、せっかく着せてもらったのになー」
「いやそれ母さんが無理矢理……」
「なーーーー!」
「……大変よくお似合いです、陛下」
「ふふ、よろしい」
腕を組んだまま、ヴィヴィオが満足げな笑みを浮かべた。エデルもそれを見て楽しそうに笑ったが、ヴィヴィオはその表情が少しだけ硬いのを見逃さない。
「……ねえ、エデル」
「ん? どうした」
エデルが問いかけると、ヴィヴィオは腕を解いて少し前までかけて、振り返った。
紅玉と翡翠の二つの宝石が、エデルの瞳をきらきらとてらした。
「私、待ってるね」
そして、太陽のように眩しく笑みを浮かべた。
エデルにその言葉の意味は分からなかった。それでも、心が暖かく、優しさに包まれるのを感じた。
────でも、それももうすぐ終わらなきゃ。
チリッ、と額の奥に、
────其は、忘れ得ぬ
よければ、感想評価お願いします。元気出るので。