【天草】〔西暦1642年秋〕
天草藩の領主は幕府の改革に追い付けない古い思考の持ち主であった。
彼は周囲の藩が発展していくのを見て取り残された藩主で結託し、農民に重税を課していた。
数年間は農民達に幕府から持たされた米によって石高は上がったため良かったが、米価が下落すると藩は困窮し始め、家臣の不満が日に日に高まっていった。
藩主はストレスの捌け口として嫌っていたキリシタンを粛清という名の虐殺を開始した。
「・・・ブチ。」
これにキリシタンでない農民達も巻き込まれ、あれよあれよと武器がどこからともなく(旧豊臣だったり没落した豪族だったり)集まり原城に立て籠った。
その数4万・・・総大将は天草四郎・・・でその側にはなぜか五和の姿があった。
(信長様・・・キリシタンの術を盗んでこいって言うからここに来たら術の先生が総大将になってヒャッハー始めるし・・・あれなの?神の試練的なことなの?)
錯乱しているが幹部扱いである。(女性だが総大将の弟子ということで)
(うわぁ・・・いっぱい来たし。)
幕府軍の軍勢は約25000名くらいで殆どが火縄銃を持っていた。
対してこちらは火縄銃は少数であり、弓や石が武器となる。
(兵糧も乏しい・・・本気でどうしようこれ。)
本気で悩んでいるのは私だけで残りはゼウスに祈りを捧げるだけで信じる者は救われるという思考らしい。
【江戸城】
「島原と天草の一部で大規模な一揆・・・か。しかも中身がキリシタン。・・・面倒な。」
家光は一揆なんかしている暇があるなら改革を頑張れと言いたくなるが、藩主が改革活動が鈍く、この一揆が発生したことは知っていたため両成敗というのは決定していた。
(威張るだけで使えない譜代、旗本、御家人を押し付けるか。それで死んだらそれまで、活躍すれば信用してやる。)
ただ、家光は少しずつ体調が悪くなっていたのでこの案件を片付け次第、長男の家綱に将軍の地位を譲ろうと考えた。
「ただ、あいつは少し過激だからな・・・参勤交代の義務化は絶対にするだろう・・・保科正之を後見人にしてストッパーになってもらわなければ・・・。」
保科正之は家光の弟だか母親の地位が低かったため養子にされ、徳川を名乗れなかった者であった。
徳川家で家綱を止められるのは徳川忠吉、保科正之、斎藤龍興、斎藤道元のみで残りは歳が近かったり、地位の関係で止められなかった。
「ホーホホホ、行きますよ正之さん、中根さん。」
過激革新派徳川家綱。