ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー   作:オーバードライヴ/ドクタークレフ

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苦悩のみが答えを有する

「お待たせしましたー! 晴風カレーでーす!」

 

 伊良子美甘が喫食用の巨大なカートを押してくる。香辛料のいい香りが食堂に立ち込めた。

 

「カレー!」

 

 真っ先にカートに駆け寄ったのは砲術長の立石志摩である。いつになく瞳がキラキラしているのを見て美甘はどこか嬉しそうだ。やはり自分の料理が喜ばれているのがうれしいのである。

 

「カレーは逃げないから大丈夫だよ」

「タマちゃんの前世はほぼ間違いなく猫な気がするね」

 

 カレーをすべて奪いかねない状況に、西崎芽依はカレーが詰まった給養缶から志摩を引き剥がす。効果音をあえてつけるならば『べりっ』である。

 

「カレー……!」

「最初に用意しますから少し待っててね」

 

 美甘がエプロンを改めて締め直し、杵埼姉妹にテキパキと指示を出していく。この世の終わりのような表情で引っ張られていく志摩を見てましろが溜息をついた。

 

「まったく、食事が楽しみなのはわかるがちゃんと落ち着きをもってだなぁ……っ!?」

 

 言葉が止まり、……その合間に音が響いた。

 

「今の……副長?」

「副長もおなか空いているんですね」

 

 静まり返った空間を芽依や幸子の言葉が埋めていく。視線がどんどん下がっていく副長。

 

「い、いいじゃないか! 晩御飯前なんだ!」

 

 顔を真っ赤にしてそっぽを向くましろに大きく頷いて同意を示すのは機関助手の黒木洋美である。

 

「そうですわ! 生理的欲求なんですから仕方ありません! ほら、そのあたり笑わない! 麻侖もなんで笑ってるの!」

「クロちゃんがそこまで庇うとくりゃぁ、同意しなきゃなんねぇなぁと……」

 

 機関長の柳原麻侖がニマニマ笑ってそう言う。麻侖と洋美が幼なじみであることは知れ渡っているので、こんなやり取りも微笑ましい。からかい甲斐のありそうな対象を見つけた芽依がにしし、と笑みを浮かべる。

 

「あれー、麻侖ちゃんも嫉妬ー? しろちゃんにクロちゃん取られてモノクロコンビになりそうだもんねぇ」

「だぁれが嫉妬しとると言ったんじゃぁああああいっ!」

 

 勢いだけが乗る言い合いが始まり、周囲もなんだかんだいってそれを黙認する。ましろですら溜息をつくだけだった。単にノリと勢いで起こっているもので、皆本気で言ってないことはわかっている。それぐらいは必要だろう。

 とりあえずだが、状況が好転したことがあり、緊張が解けたのだ。戦術リンクは回復し、上手く逃げ切ったのだ。お尋ね者という状況にはならなかった。そして何より、戦艦という格上相手に航洋艦で競り勝ったのだ。それが皆の気を大きくしている。そこまでひどい喧嘩は起こるまい。

 それをどこか微笑ましく見ながら、杵埼姉妹の妹の方、杵埼あかねがカレーを盛り付けていく。その様子を看てましろが口を開く。

 

「あれ、いつものトレーじゃないのか」

「カレーだし、みんなお疲れ様でちょっとゴージャスにしてみました」

「洗い物増えそうだけど大丈夫なのか?」

「付け置き洗いするし大丈夫。はい、宗谷さん」

「ならいいんだが……ありがとう」

 

 金属のお盆を受け取って席につく。まだ出港してあまり時間が経っていないので生野菜のサラダがあるのがうれしい。料理というのは偉大だ。ある程度のトラブルを抱えていても、おいしいご飯を前にすれば、些細なものに思えるのだ。実際配食が始まると、芽依も麻侖もおとなしく料理を受け取っている。皆のトレーの上にあるカレーが本当においしそうに見える。白いきれいな陶器のお皿がそれを引き立てるようだ。ましろの前の席に座った幸子が周りを見回す。

 

「そう言えばミケちゃんは?」

「艦長なら、医務室に来て、私と交代してくれた」

 

 白衣を脱いでいるせいでどこか印象が変わって気がつかなかった鏑木美波が答える。

 

「そうなのか……」

「副長は気になる?」

「一応の上官だからだ。どうしているか気になっただけだ。緊急事態なのにみんな悠長に晩御飯してましたとかは洒落にならないからだ」

 

 その答えに幸子がクスリと笑う。

 

「何がおかしい?」

「私は何で気にしてるのかとかは聞いてませんよー」

「なっ……!?」

「すごく一生懸命で、危なっかしいけど、私が支えてあげないと。とか?」

「だから彼女が上官だからと言ってるだろう!」

 

 そうでした、とぺろっと舌を出す幸子に納得できないように鼻を鳴らすましろ。

 

「副長、もう限界だ! お預け喰らってるタマちゃんがどんどん猫科にクラスチェンジしてる!」

 

 既にスプーンを握って即応体制を整えた志摩を抑え込みながら芽依が叫んだ。

 

「はぁ……。みんなにカレーはいき渡ったな?」

「はぁーい!」

 

 全員の声が揃う。それを聞いて生真面目に号令をかける。

 

「いただきます」

「いただきます!」

 

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

 

 夜の少人数シフトに移ったタイミング、岬明乃はごろりと寝返りをうった。眠れなかった。どうも今日のことがずっと頭の中を回っている。寝間着替わりのジャージはどこかしっとりと濡れているように思う。十分に外は涼しく、汗をかくような気温じゃないはずなのに汗をかいていた。

 少し気持ち悪いがシャワー等が使える時間は過ぎた。船の上は水が貴重だ回数にも時間にも制限がある。艦長たる自分が破っていい規則ではなかろう。体でも拭いたら気分が変わるだろうか。

 ウェットシートを荷物のロッカーから取り出す。艦長というのはここでも厚遇されている。艦長だけは個室が与えられるのだ。おかげで寝ている人などを気にせずに起き出して、荷物を漁ることができる。他のクルーは二人以上の相部屋だからこうもいかない。

 

 

 どうして、私が。

 

 

 その思いが加速して止まらない。それを振り切るようにジャージを脱ぎ捨て、ウェットシートで汗を拭きとっていく。昼過ぎに一度シャワーを浴びていることもあり、そこまで汚れないが、やはり気持ちがいい。メントールのような匂いが清潔にしたような気持ちにさせてくれる。寝る前だとその匂いが眠気ごとふき取ってしまうが、べたべたを気にするよりはマシだろう。

 一通り拭き終わって、ため息を一つ。やはり眠れる気がしない。体は本当に疲れているのだ。だるくて仕方がない。それでも気が立っている。

 

 どうしてと考えるまでもない。今日の昼間の光景が浮かぶ。気絶した知床鈴航海長、耳を押さえて痛みに耐える山下秀子航海員。海に落ちたまだ名前もわからない、意識不明のドイツの女の子。

 

 心拍が上がっているのを感じる。頭を振って、考えを追い払おうとしても離れてくれない。今休んで明日に備えるのが艦長としての務めと思っても、黙ってはくれない。すり替えたことは自分が一番知っている。すり替えられた感情はきっと忘れても目をそらしてもいけないものだから、黙ってなどくれないのだ。

 

 ずっと悶々としているのは性に合わないのは自分でもわかっている。時間を過ぎているが、少し見回りをしてみようか。

 制服に手早く着替える。首元のスカーフなどもつけっぱなしだから楽でいい。髪もいつもみたいにアップに纏めようかと思ったが、どうせ一回りしたら下ろすのだ。このままでもいいかと思い直し、そのまま廊下に出た。ドアの立て付けが悪かったのか、思ったより音が鳴るが、咎める人はいないようだ。

 

 廊下は常夜灯の赤い光に満ちている。夜の視力を守ることに繋がる赤だが、その色はどこか哀しい。人の気配がないからだろうか。

 ラッタルを昇る。この階層なら外に出ることが可能だ。月でも見れば気分は変わるだろうか。

 

「あれ……?」

 

 廊下に細く白い光が漏れているのが見えて首を傾げた。この階層に基本的に居室はない。あるとすれば――――

 

「教官執務室……。柳教官、起きてるんだ……」

 

 気づかないうちにそこに足を向けていた。勝手に部屋を抜け出したことを怒られるだろうか、と思ったが、怒ってもらえるならそれでもいいかと思っている自分がいる。驚いた。怒られるのはいやなのにそんなことを思った自分に驚いた。

 

 部屋の前に立って、少し迷う。そしてそっと扉に振れる。消え入るような音がした。

 

「誰だ?」

「すいません。岬です」

 

 それでもすぐ答えが帰ってくる。名乗るとすぐに中で音がしてドアがゆっくりと内側に開いた。

 

「どうした、何かあったか?」

 

 そう言われ初めて気が付く。ノックする理由を考えていなかった。どうしよう。

 

「あの……その……」

「眠れなかった、ってところか?」

 

 御見通しなのかと思うと少しバツが悪い。とっさに言い訳を考えていた自分が少し恥ずかしかった。

 

「まともな飲み物もなにもないが、少し話すか?」

 

 そう言ってドアを少し大きく開ける柳に、明乃はゆっくりと頷いた。

 

「おじゃまします」

「男くさい部屋で悪いがね」

 

 そう言って柳は肩を竦める。どこか甘いような煙たいような匂い。明乃にとっては初めて嗅ぐ匂いだ。

 

「柳教官って煙草を吸われるんですか?」

「……部屋では吸わないようにしてるんだが。気になるなら河岸変えるよ」

「い、いえ! でも。嫌な香りじゃないなって……どこか落ち着くような気がします」

「高校生は吸うなよ。二十歳超えたら文句は言わんが、吸わないほうが健康的だ」

 

 後ろ手にドアを閉めてそう言った柳に明乃は頷く。そうして部屋の様子を改めて見まわした。

 明乃の部屋と同じつくりの部屋だが、明乃の部屋よりも棚や書類が多い。そのせいか、明乃の使っている艦長室よりも狭く感じる。部屋は赤い常夜灯に照らされていて、漏れていた白い光は光が拡散しないようにシェードが掛けられたデスクライトのものらしい。机に置かれた書類やタブレットに反射したのが漏れていたのだろう。デスクトップ型のパソコンは今も起動していて、スクリーンセーバーに横須賀女子海洋学校の校章が回っている。

 

「ごめんなさい、仕事中でしたか?」

「私は書類整理が苦手でね、締め切り直前の駆け込み残業だったのさ。もう全部出したけどさ」

「こ、こんな遅くまでですか……?」

「戦術リンクを切ってる間にたまったんだよ。本校にも先生いるんだから私のサイン必須のもの以外処理してくれれば嬉しかったんだけどね。まぁ、しゃあない」

 

 柳は笑って棚をあけるとカップを二つとりだした。足元の引き戸を開けるとミニ冷蔵庫が姿を現す。

 

「椅子がなくて悪いが、ベッドにでも腰掛けてくれ。あと、なんか飲むかい? と言ってもインスタントのコーヒーか紙パックの紅茶か牛乳無しでココアぐらいしか選択肢ないけど」

「そんな、悪いですよ」

「気にしなくていい。私も温いものを飲もうと思っていたところだ」

 

 そう言うと電気ケトルを振った。たぽたぽと音がするところを見るに、既に水が入っているらしい。

 

「なら……ココアいただけますか?」

「ん、了解少し待ってね」

 

 柳は電気ケトルのスイッチを入れると、カップにココアパウダーと砂糖を突っ込み、ミニ冷蔵庫から出した水を使って練っていく。

 

「……教官室って、いろいろあるんですね」

「まぁな、だから他のみんなにはナイショにしてくれよ? 入り浸られると私が飲む分のコーヒーがなくなる」

 

 その言い分に少し笑う。電気ケトルのスイッチがカチンと音を立てて切れる。恐ろしく沸くのが早いので、飲もうとしていたというのは嘘ではないらしい。

 

「はい、お待ちどうさん」

「ありがとうございます」

 

 柳が自分のマグをとってデスクの前の椅子に座った明乃はゆっくりとココアを口に含んだ。甘味よりも苦味が先に出るのは牛乳を使ってないからだろうか。味わえば砂糖の甘味も感じるのだが、まろやかさがない。それでもなぜか、身体に沁みた。

 

「……おいしいです」

「口に合って何より」

 

 軽く笑って柳も口をつける。船が穏やかに体を揺らす。外洋にしては珍しく波は穏やかだ。

 

「晴風って料理おいしいですよね。和風の料理も、今日のカレーも、おいしくてびっくりしちゃいました」

「伊良子さんとかに感謝だな。ここは本当にだれが艦に来るかによって変わるんだ。前に乗っていた磯風は本当にヤバかった」

「磯風って……ブルマーの船、ですか?」

「海上安全整備局管轄船という意味ではあってるけど、正確には違うよ。ホワイトドルフィンの乗員もいたからね。炊烹員がなんというか……そう、イギリス仕込みっていうのかな。とりあえず食中毒は絶対に出ない火の通し方でね。何が入っているのかわからないぐらい煮込まれたスープとか、こんがり真っ黒になるまで揚げて何が入っているのかわからない揚げ物とか、魚のうまみが香ばしさに全て変換された焼き魚とか。病気は出ないけど不満が出る食卓事情だったよ」

「えっと……そう考えると私達恵まれてます?」

「間違いなくな」

 

 苦笑いでそう問うた明乃に即答で返してココアを口に含んだ。

 

「それにしても今日のカレーおいしかったな。ちゃんと辛いの苦手な人のことも考えて甘口にしてたし」

「ブルーベリージャム入れてコクを出してるって聞いてびっくりしました。そんなやり方もあるんだーって」

「カレーのレシピを工夫するのは伝統っちゃあ伝統だ。早速おいしいメニューを考えられたのは、伊良子さんや杵埼さんたちのセンスが良かったんだろう」

「あはは、そうなんでしょうね……。私、実は今日あんまり食べられてなくて、あんまり味わかんなかったんですけど……」

 

 そう言うと一瞬柳の表情が曇った。その表情はまたすぐに戻る。

 

「悩みがあるなら、相談ぐらいは乗れるよ」

 

 その言葉に何かが決壊しそうになる。明乃はゆっくりと言葉を選んだ。

 

「分かんないんです。なんで私が艦長なのか」

 

 そう言うと明乃はカップに視線を落とした。常夜灯の明度の低い灯りで自分の顔は黒く濁って見える。

 それで言葉を切った。しばらく沈黙が落ちる。柳も何も言わなかった。

 

「……柳教官は、艦長の経験がありますか?」

「無いよ。男だしね。搭載艇の艇長が海上職では一番上だ」

「教官の知っている艦長は、どんな方でしたか?」

 

 明乃が目線を上げないままそう言った。

 

「何人もいたが……そうだなぁ。一言で言えば、バカだったな」

「……え?」

 

 驚いた顔が面白かったのか、笑みを見せる柳がマグを振った。

 

「すごいのがいたんだ。夏に整備の関係で帰港しててな。艦長がいきなり『流しそうめんしよう!』って言いだしたんだよ。竹もそうめんもないのにどうするんだって突っ込んだ結果どうなったと思う? 艦の屋根の雨どいの予備を洗浄殺菌して、そこにスパゲッティ流しやがった。流れてる間にスパゲッティは固まって食べにくいし、冷えてるからおいしくないし、艦長は確信犯だったのか一切食べないし。もう散々だったね」

「えっと……その方、女性……ですよね?」

「当然。見た目も含めて男より男らしいからホワイトドルフィンの中では性別詐欺って言われてたな。ちなみにそいつ、北条(ほうじょう)沙苗(さなえ)って言うんだが、それは今、武蔵の教育担当として武蔵に座上しているはずだ」

「武蔵に……?」

 

 どこか思うところがあるのか瞳に感情が過る。

 

「武蔵に知り合いがいるの?」

「幼なじみの親友が艦長として……」

「武蔵の艦長というと……知名もえかさん、だったかな?」

「知ってるんですか?」

「名前だけね。各艦での呼び出しの可能性があるから、教官は他のクラスでも艦長ぐらいは把握してるよ」

 

 そういって笑みを深めた。

 

「でも、知名さんも今頃苦労してるだろうなぁ。武蔵の北条教官は結構ハチャメチャだから」

「あはは……」

 

 リアクションは苦笑いにとどめる明乃。なんだかんだで上手くやれそうな幼なじみではあるのだが、困り顔が目に浮かぶ。

 

「でもまぁ艦長として、北条教官は優秀だったと思う。型破りだったけど。誰よりも人を気遣えて、決断も早い。規則で縛り上げなくても、チームとして機能させる指揮は目を見張るものがあった」

「……なんだか、そういうの憧れちゃいます。私にはとても……」

「そんなことないよ」

 

 すぐに明乃の言葉を否定する柳だが、明乃の顔は晴れない。

 

「そんなことあります。きっとしろちゃんの……宗谷さんの方がしっかりしてるし、テキパキ判断するし、いろんなこと知ってるし……」

 

 そう言って猶更視線を下げる。

 

「きっと、宗谷さんなら、しゅうちゃんを、山下さんを傷つけずに済んだんです……」

 

 カップを握る明乃の手に力がこもる。中に入ったココアに雫が落ち、波紋が現れ、消えた。

 

「私が最初から船体射撃を認めてたら、接近しての蒸気パイプの狙撃なんてしなくてもよかったんです……! きっともっと早く離脱できたんです!」

 

 言葉が止まらない。ぶつける相手は柳ではないことはわかっている。彼にとってはきっとただの八つ当たりだ。誰にも当ててはならないはずなのだ。それでももう、止まってくれない。

 

「猿島の時だってきっともっとうまくできたはずなんです! 猿島も沈めずにもっとうまくやれるかもしれなかった! あの時沈めてなければ、こんなことにはなってなかった!」

 

 柳はただ黙ってその言葉を聞いているらしい。一度堰が切れた感情は留まることろを知らない。

 

「怪我した仲間がいるのに、家族がいるのに、あんな時こそ艦長がしっかりしなきゃいけないのに、私が指示を出さなきゃいけないのに……私は……私は……艦橋から、艦長から逃げたんですっ!」

 

 ただ、怖かったのだ。自分の指示で誰かが怪我をすることが、自分の指示で誰かを傷つけることが。だから、ドイツの子が海に落ちた時、人助けという大義名分を得た時、艦長であることをやめた。

 

 

 

「私は……私はなんで艦長に選ばれたんですか? どうして私だったんですか……? なんで、宗谷さんじゃないんですか……?」

 

 

 

 

 入学式直後、機関科の黒木洋美だって言っていたじゃないか、きっと手違いだと。宗谷さんが艦長じゃないのはおかしいと言っていたじゃないか。

 顔を覆って泣きたかった。たった一杯のココアが本当に重く感じる。

 

「岬さん」

 

 ゆっくりと言い聞かせるような言葉が聞こえる。ゆっくりと視線を上げれば、柳が明乃の前で膝をつき、視線を合わせていた。

 

「私は君の答えを持ち合わせない。これが答えじゃないことはわかってほしい、いいかい?」

 

 ゆっくりと頷けば、いつになく真面目な顔で口を開いた。

 

「君が艦長に選ばれたのは、きっとそうやって悩めるからだと考えている。本気で悩んで、考えて、答えを捜していけるからだと考えている」

 

 そう言った目はどこか深い色に沈んでいて、明乃は目を話せなくなる。

 

「岬さんはなんで海上安全整備局所属の艦艇は無人艦艇に置き換わらないんだと思う?」

 

 そう問われてしばらく考える。首を横に振った。

 

「それは、機械じゃ人は救えないからだ、守れないからだ」

「救え、ない……?」

「もしこの世に完全な艦長がいたとして、その人と同じ思考ルーチンを仕込んだロボット艦長がいたとしよう。それでも絶対に救えないんだ。誰一人救えないかもしれない。なぜなら救うと決めることも守ると決めることも、切り捨てると決めることもできないからだ」

 

 そう言われ、明乃はなんと言っていいのかわからず、黙り込んだ。

 

「この世界に何一つ同じ状況というのは存在しない。だからこそ、その場での判断が重要になる。それはどれだけ優秀なロボットでもできない。似ているパターンの参照はできても、それを選び取ることができないからだ。とくに、人間の生死が関わるような厳しい状況に何度も直面する海上安全整備局所属艦艇では、その度に判断して、常に最良の結果を掴み取らねばならない。それを可能にするのは、選び取るのは、必ず人間なんだ。絶対に機械じゃない」

 

 暗い部屋で彼の瞳だけが光る。波の音がゆっくりと合間を埋めていく。

 

「岬さんは猿島の砲撃を受けた時、しっかりと選び取った。シュぺーの砲撃を受けた時、しっかりと選び取った。ドイツの子が海に落ちた時、しっかりと選び取った」

「でも……」

 

 違う、と言いかけたが、言葉が止まってしまう。それを見た柳がどこか嬉しそうに笑った。

 

「そこで『でも』という言葉が出てくることは素晴らしいことだ。自分の選び取った結果を考えている。悩んでいる。それに向き合おうとしている。それができることは本当にすごいことだよ」

 

 そう言って笑みを浮かべたまま続ける柳。

 

「私はね、岬さん。艦長に一番必要なことは本気で悩んで考え抜いて、それでもなお前を向けることだと思っている。自分の判断で誰かが死ぬかもしれない、殺すかもしれない。本当にそうなるかは後になってからでしかわからない。それでも、その場で選択できること、選び取れること。それが必要なことだと思う。それは本当に恐ろしくて、どこにも正解なんてないものだ。それに悩んで、悔やんで、足掻いて、それでもなお前を向ける人物であることが、優秀な艦長になれる条件だと考えている。もしそれを悩まずに選び取れる人物がいたのなら、とっくに世界は救われている!」

 

 語気を強めて言いきった柳は、そこで一息置いた。

 

「そうやって悩むことは決してかっこいいことじゃない。効率の良いことでもない。それをあざ笑う人だっているだろう。無駄だという人だっているだろう。それでも、そこで悩めない人には海上安全整備局所属艦艇の長は絶対に務まらない。――――君はここにいて、こうして悩んでいる。それに答えを見つけようと足掻いている。だから岬明乃には航洋艦『晴風』の艦長たる資格があると、私は考える」

 

 だから、と柳が続けた。

 

「悩みなさい。足掻きなさい。君にはそれができる。それを成す資格がある。そしてその背中を必ず誰かが押してくれる。必ず誰かが守ってくれる」

 

 そう言われ、明乃の瞼の裏側に親友の姿が浮かんだ。

 

 そうだ。いつだって励ましてくれたじゃないか。認めてくれていたじゃないか。背中を押してくれていたじゃないか。

 

「難しいし大変な道だと思うけど、きっと誰かが助けてくれる。それを信じて悩みなさい。少なくとも、私が指導教官である間は、私が君を助けてあげられる」

「はい……! ありがとう……ございます」

 

 そう言うと柳は満足げに頷いた。

 

「どういたしまして。……もう遅い時間だ。ココアを飲んだら少し横になるといい。飲みやすい温度に下がったはずだ」

 

 それにゆっくりと頷いて、ココアに口をつける。温くなったココアは先ほどよりも甘く感じた。

 

「……柳教官」

「どうした?」

「教官は……どうしてブルーマーメイド……じゃなかった、ホワイトドルフィンになろうと思ったんですか?」

「……そうだな」

 

 柳は机に寄り掛かってココアを啜った。

 

「正義の味方になりたかったから、かな?」

 

 そう言われて明乃はココアを吹き出しかけた。

 

「おいおい、笑うなよ」

「だって……正義の味方っぽくないんですもん」

「ひでぇ言いぐさだな。海上安全整備局は海上法を守る法執行機関だぞ。正義の味方でなくて何と呼ぶ?」

「でも中途半端なお髭とぼさぼさ髪だと、なんというか……」

「おっさんに無理いうなよ。あと朝には髭も剃って髪も梳かして行ってるからな」

 

 そう嘆いた彼に明乃は飲み干したカップを手渡す。

 

「教官はなれました? 正義の味方」

「……なりたいと思ってるよ、今でも」

 

 明乃はどこか嬉しそうに笑った。

 

「……もう大丈夫か?」

「夜中遅くに本当にお邪魔しました。ありがとうございます。もう、大丈夫です」

 

 そっか、と言って満足げな表情を浮かべて一度俯く柳。

 

「来たかったらいつでも来い。相談には乗るよ」

「ありがとうございます。おやすみなさい!」

「あぁ、おやすみ」

 

 一礼して部屋を出る明乃。少し足取りが軽くなった気がする。

 夜は決して長くはない。早く寝なければ明日がきつい。

 

 急いで部屋に戻りながら、明乃は笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

 

「正義の味方、か……よく言ったもんだ」

 

 ココアを飲み干して改めて淹れたコーヒーを一気に飲み干してそう嘯いた。

 

「正義の味方なら、今伝えただろう、これを」

 

 そう言ってスクリーンセーバーを解除する。そこに現れたのはモールス打電を英字に直したものだった。

 

 

EXZ QRT DISTRESS DE Y118 INTERCO REQ SAP SAR REP NOVA 13.7NM SE AR

 

 

これが何を意味するか、柳にはよくわかっていた。

 

 

こちらY118、緊急事態発生。本艦は現在遭難状態にある。速やかな救援を要請する。最終確認地点はノヴァポイントから南東13.7海里

 

 

 それが意味するものはきっと彼女の休息を奪う。晴風が最寄りではないことを言い訳にした、ただのエゴに過ぎないはずだ。

 Y118は艦の番号。その番号は大和型超大型直接教育艦『武蔵』に割り振られた番号であり、武蔵にはあの子の親友が乗っている。

 

 

 

 

 

 あまりに短い休息の時は終わりを告げようとしていた。

 

 

 

 

 




一気にお気に入りが増えてる、だと……!? ガクブル状態の作者です。皆さんお読みいただいて本当にありがとうございます。

ミケ艦長ってすごく無理している感じがあるんですよね。なんというか……一人で背負いこみそうなというか……。彼女、大丈夫なのかな……。
今はまだ、大丈夫だと信じるしかない段階のように思います。

次回からストーリーが動きだす……のかなぁと思っています。
お付き合いいただけるならこれほど嬉しいことはありません。
――――
次回 水面下に潜むは希望か疑念か
それでは次回もよろしくお願いいたします。

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