ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー   作:オーバードライヴ/ドクタークレフ

32 / 63
生存の可能性を拾うため

 

 

 

 そこは確かに戦場だった。正確には野戦病院というべきか。子供の泣き声や誰かのうめき声が響くなか、鏑木美波は汚れた白衣を使用済リネン回収箱に乱雑に放り込むと、新しいものに変えた。患者の体液などがついた白衣で他の人に触れるわけにはいかない。新しい止血剤を棚から引っ張り出し、次の人のところに駆けていく。

 

「みなみさん!」

「そのアルミシートは火傷の人の保温措置に」

 

 応援に回ってきた等松美海に指示を出し、自らは未だ出血が止まらない人の元に向かう。

 

「砲術長」

「血が……止まらない……」

 

 その人の腕をビニール袋越しに押さえていた立石志摩に声をかける。応急処置表(トリアージ・タグ)はⅡ度。準応急処置必要者だ。濃紺の制服の肩の階級章を見るに、新橋商店街船の機関長であるらしい。

 

 発見時は意識アリ、自力での行動可能。名前や誕生日を答えることが可能であり、その事がタグに記載されている。開放性の直接圧迫による止血を開始。晴風に向かう短艇の中で不調を訴え始める。

 

 それをななめ読みで素早く確認して志摩に声をかける。

 

「代わって」

 

 腕からの出血は開放性の切傷だが、かなり深く抉り取られている。もはや割傷と言って差し支えないレベルである。まだチアノーゼが始まるレベルではないが、血液はかなり失われている可能性が高い。

 

「今から追加で止血剤を使いますから」

 

 声に対する反応は呻き声で帰ってきた。

 

 すでにイエロータグで済む領域ではないことは確かだ。タグの黄色い紙辺を切り取り、レッドタッグに切り替える。

 

「砲術長、左の棚に黄色いクーラーボックスがある。それを持ってきて」

「うい」

 

 いま必要なのは止血と失われた血液の補填だ。想像以上に凝血が遅い。それを見て美波は一瞬体を硬直させたが、動きだす。今、私以外に誰がこの人を救えるというのだ。

 

 血で重くなった彼の服の袖を大きく切り裂く。傷を目視。なにか鋭いものが腕に当たったのだろう。大きく肉が裂けていた。

 

「……すまなぃ、みん……」

「喋らないで」

 

 傷の周囲だけを消毒し、手早く止血効果の高い創傷被覆材を張る。傷内部の消毒は無駄に細胞を傷つけるだけであるため、そこには触れない。被覆材に含まれたアルギン酸ナトリウムの強力な止血作用が出血を抑えてくれるはずだ。

 

「ぉれが……ねず……」

 

 熱にうなされたような声を物音が掻き消した。横に輸液パックの入ったクーラーボックスが置かれる。

 

「どうすればいい?」

「輸液を開始する。左腕の袖裂いて」

「うぃ」

 

 中に入っているのは失われた体液の補填に使える乳酸リンゲル液だ。怪我をしていない方の彼の腕を手早く確認し、太い針を差し込んだ。輸液の補填を開始する。

 

「……今できるのはここまで」

 

 そうして軽く息をつく。脈拍が上がっていた。

 

 医学を学び、こういうときのための知識を持っているのは確かだ。それでも、実際にここまで沢山の人を同時に処置していく経験などしていない。大学病院での研修医官として、手術に立ち会うことも、患者の診察も経験してきているが、ここまで一気に危機差し迫る人と向き合う経験など初めてだった。

 

「大丈夫?」

 

 志摩に聞かれ、頷く。立ち止まる余裕はない。

 

「……次、いくよ」

「うい」

 

 死なせてたまるか。

 

 その思いだけが彼女を突き動かしていく。彼女は確かに医師だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宗谷ましろは新橋商店街船の01デッキ前方、すなわち前方商店街区下層にいた。

 

「小さな子って……子猫だったのか……!」

 

 多門丸がいなくなったという乗客の声を聞き、捜索に入っていたましろだったが、出てきたグレーがちのが光るその子猫をみて、ほぼ間違いないと悟った。

 

 乗員乗客のリストに『多門』に名前はなかった。データ化されたデータを検索した結果だ。検索を実行したのは納沙幸子……性格はともかくとしても、こういうときの処理には十分に信頼できる。彼女がトリプルチェックをかけたというのだ。それは間違いないだろう。

 

 すなわち「多門丸」は人間ではない。導き出された結論に目の前の猫は合致する。

 

「多門、丸……?」

「にゃぁん」

 

 名前を呼ぶとこてんと首を傾げるその子猫。切れかけの非常灯とましろの懐中電灯のみという暗い環境のせいか、真ん丸の蒼眸が彼女をじっと見上げる。どうやら多門丸で間違いないらしい。

 

「ほ、ほら……ご、ご主人様が待ってるから……!」

 

 ここで大問題が一つ。宗谷ましろは猫嫌いである。

 

「つ、ついてこれる……か?」

 

 じっとましろを見つめる多門丸。言葉を理解できているのか、できていないのかわからない反応をされてもましろは困惑するだけだ。

 

《宗谷副長、聞こえますか?》

 

 統合型情報表示装置(インフォメーション・イルミネーター)のヘッドセットが入感。ノイズ交じりではあるが納沙幸子の声だろう。

 

《乗客リストに記載された人員の避難が完了しました。そちらの状況は?》

「こ、こちら宗谷。多門丸を……発見したんだが……」

《どうしました?》

 

 幸子の声が硬質なものに変わる。

 

「こ、子猫なんだが……! ど、どうすればいい……!」

 

 無線の奥で盛大に物音。ずっこけるとかアニメではあるまいし、と何処か冷静に考えてしまう。

 

《抱き上げるとか何でもいいからとりあえず――――》

 

 その先の声を聞くことは叶わなかった。

 

 衝撃、爆音、足元がいきなり突き上げられるような感覚。実際にバランスを崩す。急に衝撃が走ると目を閉じるとか身構えるとか、防衛行動が一切できないことを初めて知った。

 

 同じように床から跳ね飛ばされた多門丸が自分の方に飛んでくる。瞬間的にその子を胸に抱き込む。それから慌てるが、冷静にそんなことを考えている余裕は既になくなっていた。壁に叩きつけられる。正確には壁に取り付けられた看板に腰を強打する。

 

「―――――っ!」

 

 肺の中の空気が強制的に吐き出された。目の前に星が散る。看板の上でなんとか五体満足であることを確認。ファンシーな字体で描かれた『マッサージサロン・くどう』の文字がこれ以上ない程皮肉だ。

 

「た、多門丸は……」

 

 胸に抱き込んだ姿勢だったせいで無傷の多門丸を確認する。ピントの合わない視界の先でどこか驚いたような表情をしている子猫を見る。先ほどと比べて視界が赤く染まっている。視覚異常かと思ったがそうではないらしい。統合型情報表示装置(インフォメーション・イルミネーター)が警報で埋まっているのだ。

 

《船体中央部で爆発。B32ブロック! 機関室付近!》

《浸水隔壁56から74破損。浸水区画広がっていきます!》

 

 くらくらと揺れる体を起こす。ふらつくものもなんとか立てる。

 

《宗谷副長! 脱出してください! 浸水域が拡大中! 01デッキ浸水まで後2分もないです!》

「了……解!」

 

 痛む体を引きずるようにしてゆっくりと歩き出す。2分以内に上層デッキに移動しなければならない。

 

「まったく、ついてない……」

 

 床に手をついて、どこか自嘲するように笑う。傾斜は45度をとうに超え、壁を歩くような姿勢になる。

 

 

 状況は控えめに言って絶望的だった。

 

 

 ここは商店街区画。通りに当たる中央通路に当たる場所の両脇に店舗があたるテナント区画が配置されている。ショーウィンドウやガラス製の自動ドアなどが配置された標準的な商業船の構造だ。

 

 だが、船が盛大に傾斜し、壁を歩かねばならない状況は想定されていない。

 

 乗り越えていくには難しい段差の山。落ちてきたもので砕け散ったショーウィンドウ。開いたまま動作を止めた自動ドア。

 

 上階の02デッキに繋がる階段まで75メートル程。今からやらねばならないのは障害物走だ。足を踏み外せば文字通り致命傷となりかねないガラス片に海の中を、背中を強打したあとのふらついた足元で超えていく障害物走。制限時間は2分。

 

「ついてない、ほんと……!」

 

 彼女はそう言って背中を丸めながらも歩き出した。ましろは多門丸を自分のセーラー服の胸元に入れた。勇気がいるが、両手が使えなければ超えられない。

 

《エコーバック、エコーバック、エコーバック》

 

 無線越しの柳の声。E(エコー)バックは総員緊急離脱を意味する短縮符号。三連送信されたということは間違いでも訓練でもなんでもなく、全員今すぐに商店街船を離れろという意味だ。

 

 それが発せられた状態で、ましろを助ける人員は、いない。

 

「動け……動け動け動け……!」

 

 自力で動かねばならない。自力で脱出しなければならない。

 

 金属が軋む音がする。一方からではない。ましろを飲みこんでいる商店街船全体が啼いている。直接聞いたことはないが、獣の断末魔はきっとこんな音色なのだろう。

 

 足元が揺れ、滑った。艦内のどこかで送水パイプが破損したのか、ショーウィンドウをすさまじい勢いで透明な水が流れていた。ガラスのショーウィンドウに右肩をぶつける。その痛みをかみ殺す。

 

 悪夢であればと願うことはしない。このリアルすぎる痛みが夢であってたまるか。

 

「死んで……たまるか……!」

 

 階段の入り口の手すりに手を掛けたタイミング―――――轟音。

 

 新橋商店街船は応力に耐え切れず、船体中央から破断。真っ二つに折れて、急激に沈降を始めた。

 

 一気に流れ込んだ海水が、宗谷ましろを押し流した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しろちゃん! しろちゃん!」

 

 無線に叫んだところで返事はない。鉛のような冷たさが岬明乃を襲う。帰ってくる空電に焦りだけが加速していく。

 

「どうして……しろちゃん!」

 

 視界がどこか振れる。

 私は、まだ、無力だ。

 

 その思いが加速する。

 

 一瞬視界が被る。商店街船のシルエットが優雅な客船のシルエットとすり替わった。浮かぶのは……あの時の、家族の笑顔。

 

 救えなかった。死なせてしまった。家族を殺したのは誰が何と言おうとも()()()()()()()()()()()()()

 

 海の仲間が家族だと言うならば、その長たる艦長には家族たるクルーを守る義務がある。

 

《納沙、状況は抑えてるな!?》

 

 柳の怒号のような声がする。まだ柳は商店街船の後部の甲板に立っていた。

 

「乗客乗員は不明者1名! コローニアから乗船した『サンジョウ・アネホ』さん、女性! 晴風クルーで船に残ってるのはミーちゃんと副長、教官です! 現状副長のインフォメーション・イルミネーターの接続はネガティブ、01デッキ前方で信号をロストしました!」

 

《フリーデブルクは?》

《もうすぐ甲板に着くけぇ!》

 

 後部甲板のドアが蹴破られてヴィルヘルミーナが飛び出してくるのが見えた。

 

《勝田! フリーデブルクを回収しろ!》

 

 柳の声がそう指示をした。商店街船の様子を確認していた西崎芽依が息を飲む。柳がヴィルヘミーナの手を引いて艦尾の方に向かっていく。

 

《何をするんじゃ!》

《何をするって離脱させるに決まってるだろう!》

 

 明乃も双眼鏡を構える。明乃の目の前で柳がヴィルヘルミーナを海面に向けて投げ込んだ。人員回収のために唯一商店街船のそばに寄っていた、勝田聡子が操るスキッパーが彼女を引き上げる。

 

《教官も早く飛び込むぞな!》

 

 聡子の声が無線に乗る。だが柳はそれには答えずに、重い荷物だけを投げ渡す。

 

《悪い、まだ要救助者がいるだろう。……それに、確かめなければならないことがある》

《教官!?》

 

 明乃が見る限り、柳の装備はロープにフラッシュライト、大振りのバール、膨張式救命胴衣(インフレータブル・ライフベスト)一体型の装備ベスト、そして手に持っているのはレミントンM870ショットガンだ。

 

《……晴風は十分に距離を取り、待機せよ》

 

 そう言うと同時に柳は沈みゆく後部甲板を駆けおりるようにして前部甲板に向かっていく。丁度逆ハの字をような姿勢で浸水を続ける前部の甲板に向かって、彼は跳んだ。

不安定に揺れる甲板に取り付くと、急坂になろうとしている全部甲板をよじ登っていく。

 

《……副長を、助けに行くんか、リーラー》

 

 ヴィルヘルミーナの声には答えない。柳は舳先に近い甲板ハッチに向かって、緑色の滑り止めが効いた壁をよじ登る。

 

《全く、人のことを笑えないトップばっかりじゃな、この船は》

《……うるさいぞ、フリーデブルク》

 

 柳の不機嫌な声が返ってきた。それに噴き出すような気配。

 

《同族嫌悪で物申すのはやめといたほうがいいじゃろう、リーラー・ヤナギ》

《勝手に言ってろ。……納沙。最後に副長を確認できた地点をプロット周囲の状況を出せ》

「了解しました!」

 

 幸子が状況の共有を開始。明乃のアイウェアにもその情報が表示され始めた。

 

「電力が落ちてて浸水域は予測でしかないですが……海面を見る限りは……」

《それで十分だ》

 

 柳の声はいつも通りのテンションに戻っている。それを聞いて明乃は深呼吸。

 

「……まだ、まだだよ」

 

 言い聞かせるようにそう言う。

 

 救えなかった。死なせてしまった。――――あんな思いは二度としないと決めた。だから、ブルーマーメイドとなったはずだ。

 

 だとするならば、やるべきことは一つのはずだ。それを口に出す。

 

「諦めるな、見捨てるな、思考を止めるな」

 

 明乃は被った制帽の鍔に触れた。救えるはずだ。助けられるはずだ。誰もまだ諦めていないはずだ。

 

 考えろ、想像しろ、ましろがどうするか、柳がどうするか、商店街船の中がどうなっているか、その空気を、色を、匂いを、その全てを思考のうちに捉えろ。

 

「……ココちゃん、タブレット貸して」

「は、はい……」

 

 幸子が差し出したタブレットを受けとる。統合型情報表示装置(インフォメーション・イルミネーター)から引き出したコードをタブレットに直結。リンクスタート。

 

「マロンちゃん、手伝って。技術支援が必要なの」

「が、合点!」

 

 自分のどこかが冷えていくのを、明乃は感じていた。息を吐き切って、二秒、息を止める。

 

 無線のトークスイッチを押した。

 

 

 

「柳教官、こちら艦長、岬。視点カメラを起動し、情報リンクを開始してください。これより、情報支援及び誘導を開始します」

 

 

 

 まだ救える。それを疑うな、岬明乃。

 

 

 

「今助けるよ、しろちゃん」

 

 

 

 届いているかわからない無線に、その声を乗せる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全身が痛いが、その痛みが生きていることを知覚させた。

 

「ぅ……」

 

 いきなり頬がヤスリを掛けられたような感覚が走って、一気に覚醒させられた。

 

「……なにをしてるんだ」

「にゃー……」

 

 猫に顔を舐められるとすごく痛いことを初めて知ったが、今は感謝する。おかげで頭が冴えた。

 

「ついているんだか、ついてないんだか……っ!」

 

 体を動かして鈍痛が走る。首が動かしづらくて何事かと思えば、救命胴衣が作動していた、首筋を守るように膨らんだ救命胴衣がセーラー襟を押し上げ、顔を固定していた。道理で動かしづらいはずだ。

 

 横須賀女子海洋学校の制服において、海上で使用する制服は少々特殊である。落水時などの安全機能を制服に組み込んでいるためだ。その中の一つが、セーラー襟一体型の膨張式救命胴衣だ。水没、ないし強い水圧がかかった場合、もしくは襟の裏側についている紐を引き抜くと、炭酸ガスが救命胴衣を押し広げるのだ。

 

「ここは……どこだ……?」

 

 ほぼ完全な暗闇。手首に巻き付けていた落下防止の紐のおかげで懐中電灯は手元にあった。さすが防水が効いた安全監督隊御用達、何事もないように明るく周囲を照らす。明るすぎて目がくらむ程だ。

 

「海水に流された先だから……錨鎖室? いや、そこまで流されてないか……どこなんだここは」

 

 目が慣れたところで周囲を照らす。どうやら居住区ではないらしい。足元には配管等が走っている、操作盤や階層表示が見当たらないため実際どこにいるのか見当が付かない。何らかの機械があるから機械室の一種なのだろうが、それだけだと場所の決定打にならない。

 

 上を見上げればかなりの広さがあるのがわかる。直立とは言わないが、かなり急角度でそそり立つ状態だ。平時であればかなり広い部屋だったのだろう。

 

「電池室じゃないらしいのは感謝しないと、な……」

 

 全身が痛いがとりあえずは生きている。まさか晴風の中ではないだろうからまだ脱出はできていないのが残念だが、あの濁流の中で死なずに済んで、今は浸水が少ない部屋にいるだけ救われたという事だろう。

 

「って……なんで、浸水がないんだ……?」

 

 流されてきたのならば、大量の水と一緒にこの部屋に流れ着いたはずである。足元を見ても座った状態で腰が浸る程度の海水があるだけである。

 

「押し込まれて……水が抜けた?」

 

 そう思って部屋を見回し――――歪んだ扉を見る。大きくゆがんだその隙間……人ひとりは余裕で通り抜けられそうなほど大きく裂けたその隙間から、まるで水鉄砲のように水が噴き出している。それでもこの部屋を満たすには不十分な水量だ。

 

「そうか……流された瓦礫でせき止められたんだ……だからこの部屋は水が入ってこなかった……」

 

 体は鉛のように重い。打撲で青あざだらけ、ガラス片で切ったのか左の二の腕あたりから出血している。それでも腕も足も動いた。指も動く。まだ動ける。

 

「こちら宗谷、晴風、応答を。こちら宗谷」

 

 応答はない。スクリーンフィルムも不調なのか、ノイズが多すぎて表示が意味を成さない。それを外して、胸ポケットに差した。

 

 周囲を見回す。脱出経路に使えそうなルートは瓦礫で埋まったあの大扉しかない。

 

「こじ開けたら……一気に海水が流れ込んでくる、な……」

 

 遥か頭上5メートル程行ったところにドアがあるが、手は届かない。意図的に浸水させて救命胴衣であのドアに取り付いて脱出と言う手もあるが、あの扉の先が脱出口に繋がっている保証はどこにもない。

 

「……手詰まり、か」

 

 背中を壁――――いつもなら天井なのだろうが――――に背中を預けてましろは溜息をついた。その膝に、子猫が飛び乗ってくる。

 

「怖いか……怖いよな……私だって怖い……」

 

 手元の懐中電灯しか灯りはない。いつ助けに来てくれるのかもわからない。どれだけの間気絶していたかわからないが、沈みゆく船に乗り移って救助に来るような自殺行為を、柳はきっと許すまい。完全に沈没してから、潜水士がやってくる流れになるはずだ。だが、その時までここの酸素が残っている保証はどこにもないのだ。

 

「私は……本当に運が悪いから……誰も来ないかもしれない、気づかれないなかもしれない……それがすごく、怖い」

 

 それを猫に漏らしてどうなる、と思わなくもない。それでも、何かを話してなければ、この無音の空間に耐えられなかった。たとえ向こうが応えてくれなくとも、話しかける相手がいることがこんなにも心強い。

 

「艦長は……助けにきて、くれるかな」

 

 脳裏に浮かぶのは、明るい茶色の髪を二つ縛りにした彼女の姿だ。

 

「はは……ダメだな。あれだけオールウェイズ・オン・ザ・デッキとか、艦長はドンと構えていればいいとか言っておいて、頼ろうとしてる」

 

 冷えた手で猫を撫でると、その猫の体躯はとても暖かかった。

 

「私の船の艦長は、見てると本当にヒヤヒヤする。危なっかしいし、なんだかんだで好戦的。守るために仕方ないとは言え、そう簡単に味方の船を撃とうって言えるのは本当に大丈夫なのかと思う」

 

 喉元を撫でてやるとどこか気持ちよさそうに目を細める多門丸。置かれた状況を考えればこんな呑気なことをしている余裕はないのだが、それでも愛おしいと思った。

 

「でも、きっと私のもやもやは全部、ただの妬みなんだろうな。ブルーマーメイドとしては間違ってる判断のはずなのに、皆を守ってさ。死者がでてもおかしくない状況で、誰も死なせないで進んでる。それがきっと羨ましいんだ」

 

 そう言って、自嘲の笑みを浮かべた。

 

「どうすればいいんだろうね……って君に言ってもしかたないか」

 

 そう言ってそっと胸元に多門丸を抱き込んだ。

 

 

 

「怖い、怖いよ……助けてよ……ねぇ……!」

 

 

 

 心細くて、たまらなかった。水が入ってくる水音だけが響く中で、ましろは多門丸を抱いて、必死にそれに耐える。

 

 ……どれだけの時間が経っただろう。

 

 ずっと抱きしめられるがままになっていた多門丸が、いきなり彼女の腕から抜け出した。

 

「多門丸……!?」

 

 そのまま水が浅く溜まった床に飛び降りて、虚空に向けて唸る。何かが水を蹴る音がする。人間にしては、軽すぎる。おそらく猫よりも小さい生き物。

 

「ネズミ……」

 

 水たまりを蹴って飛び出したそれに、多門丸が飛びかかる。水たまりに沈めるように上から抑えられたネズミが何かを吐きだしてぐったりする。その吐き出した何かが、ましろのいる近くに落ち、流れてきた。

 

「か、カプセル……? なんで、ネズミが……っ!」

 

 思いついた可能性に戦慄する。大きめのクスリのカプセルのようなそれを開ける。中に入っていたのは一枚の紙片だった。

 

 

 

 

ὁ γἁρ χαιρός πρός άνθρώπων βρσχύ μἑτρον ἒχει.

死にたくなければ機会を逃すな

 

 

 

 

 ギリギリ読めるサイズでそれだけ書かれた紙片が手の中に残っていた。周囲を見回す。懐中電灯で壁をなぞっていく。きらりと反射するものがいくつも走る。懐中電灯の灯りを網膜の血液の色で赤く色を変えて返すそれは――――赤い眼玉。それが何対も光っていた。

 

「ネズミ……アルジャーノン!?」

 

 ネズミが一気に反転して去っていく。壁を駆けあがっていき、高いところにあるドアの方へと消えていく。

 

「……これを、信じろっていうのか」

 

 このメッセージを寄越した人物は、ほぼ間違いなく機関室の配電盤にスプレーで文字を刻んだ人物と同一だ。この船を沈めようとしている人物と同一のはずだ。そしてその人物が、ブルーマーメイドの艦船を次々と暴走させた人物と関連があることも、確証はないもののほぼ間違いあるまい。

 

 何が目的か、皆目見当もつかない。

 

 だが、一つだけ確かなことがあるように思えた。

 

「……楽しんでるんだろうな。誰かの命を弄んで、楽しんでるんだろうな」

 

 立ち上がる。そんな誰かの慰み者として殉ずるつもりはさらさらない。

 

 

 

「負けてたまるか、そんな奴に、負けてたまるかっ!」

 

 

 

 力を振り絞って立ち上がる。

 

「おいで多門丸。脱出するよ!」

「にゃあっ!」

 

 閉じ込められた部屋を睨み、ましろは壁に這う配管に手を掛けた。

 

 

 





……うわぁ()

第一声がこれでごめんなさい。いろいろ世界設定を練っているうちに話がとんでもない方向に転がりだしてしまってシナリオ変更をかけ始めました、さて、修正間に合うか……! シリアス一直線ですが、これからもこのノリで続きそうです。……あと三回で商店街船編終わるかな……!

ちなみにですが、今回使ったギリシア語はピンダロス著『ピュティア祝勝歌』より第四番286からの引用です。「好機は人間に対して短い物差しを持つ」という訳となります。

次回も続くよシリアス回。お付き合いいただければ幸いです。

――――
次回 その想いに貴賤などなく
それでは次回もどうぞよろしくお願いいたします。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。