ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー   作:オーバードライヴ/ドクタークレフ

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大人と子供の偽善と傲慢

 赤の閃光弾1発。それが示すのは撤退信号だ。それを無視することは到底できない。岬明乃は後ろ髪を引かれるような思いで武蔵を一瞥してから、晴風に舵を切り直した。戻らなければ。戻らなければならない。

 

 晴風の後部船体に亀裂が入っているのが遠くからでも見える。切れた空中線(アンテナ)を海中に引きずりながら、晴風はゆっくりと取舵を続けていた。それを見て、とっさにスロットルを緩めてしまった。

 

 噴進魚雷が突っ込んでくるなんて予想外だった。相手は武蔵だけのはずだった。そもそも通信や電探が落ちているのだから、攻撃の精度は曖昧になるはずだった。

 

 そんなことを今言って何になる。晴風に戻った後に来るであろう叱責の言い訳を考えようとしている自分がいて、明乃は自分自身を嫌悪した。

 

「……逃げちゃ、だめだ」

 

 改めてスロットルを開けて、右舷側後方から晴風にアプローチ。明乃を迎え入れるために、スキッパーのダビットは既に降ろされていた。操作しているのは知床鈴航海長らしい。艦橋で舵を取っているのは勝田聡子航海員なのだろうか。

 

 降りてきた速度を晴風と合わせて、ダビットから伸びる吊り下げワイヤーが引っかかるのを待つ。ここから先は晴風側の操作で引っかけることになる。今回はすぐに上手く引っかかった。スタビライザーを格納したのを見計らって、スキッパーが持ち上がる。エンジンをカット。格納手順はこれで完了だ。

 

「岬さん……」

「鈴ちゃん、ごめん。迷惑、かけた、ね……」

 

 既に泣きそうな顔をしている鈴にかけるべき言葉が見つからず、どこかたどたどしくなる。それでも声をかけない訳にはいかなかった。

 

「晴風の状況は?」

「10.1ブロックに浸水して操舵室が浸水しちゃって、舵が今効かなくなっちゃってます……。缶も動くしスクリューシャフトも回るから、そこまでひどくやられているわけじゃないけど……今、排水ポンプで排水しながら応急処置中です。あとは第三空中線が断線して電探とかが不調なのと、後部兵員室の窓が二枚割れてるのが見つかって、清掃中です」

 

 想像以上に被害がひどくて明乃は絶句する。

 

「あと……」

 

 何かを続けようとして鈴は視線を落とした、雫が目の端に溜まる。

 

「……どうしたの?」

「タマちゃんが……」

 

 

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

 

 

「レントゲンも取った。中度の脳震盪。今のところは安定している。セカンドインパクト・シンドロームの危険性があるから二週間は訓練や任務への復帰は認められない」

 

 鏑木美波がそう言って視線をベッドに送った。そこには頭に包帯を巻いて寝ている立石志摩の姿があった。

 

「タマちゃん……」

「脊椎も無事だし、骨折も見られない。右腕と肩に打ち身があるけど、それはすぐに治る」

 

 明乃はそう言われるも、理解する余裕はなかった。言葉が耳から入ってすぐに抜けていく。

 

「噴進魚雷の迎撃に成功した時には、もう近づきすぎていた。爆発した時の衝撃波で煽られて銃座の手すりに体をぶつけて、その時に脳が揺さぶられた。銃座から振り落とされたり、頭をぶつけたりしなかったのは、運が良かった。ヘルメットと防弾ベストをつけていたから衝撃が分散されて、内臓も守られた」

「……」

 

 そう言われても、明乃には返す言葉はなかった。

 

「……ごめん、美波さん。少し、タマちゃんと二人きりにしてもらっていい?」

「5分。あと、立石砲雷長に触らなければ」

「わかった。ほんと、ごめんね……!」

 

 美波は定位置の医務長机から離れ、ドアの方へと足を向けた。

 

不幸からよきものを生み出そうとし、又生み出しえる者は賢い人である。与えられたる運命をもっともよく生かすということは、人間にとって大事である

 

 誰かの言葉の引用だろうか、明乃はそう思ったが聞き返すことはしなかった。

 

「艦長は与えられたる運命を生かせる人だと思う。忘れないで。皆が艦長の言葉を待っている」

 

 そう言い残して、ドアが開いて、閉まった。明乃はスツールをベッドの隣に置いてそこに座った。座面が抗議するように軽く鳴く。

 

「……私、なんにもできなかった」

 

 そう言って、そこに甘えが多分に含まれていることを自覚する。何にもできていないなら、志摩は今倒れていないはずなのだ。

 

「私のわがままで、皆を危険に晒して、タマちゃんに怪我させて……私のせいで、晴風は沈みそうになって……!」

 

 そう言って、たった1時間ほど前に言われた言葉が耳の奥から引き出された。

 

 ――――――お前に預けられた部下30人の命を上官のエゴで使い潰すのか! ただ己の自己満足のために部下全員に死ねと言う気か! 思い上がりもいい加減にしろ、岬明乃!

 

 その言葉の意味が、今は痛い程よくわかる。……きっと、柳はこうなることをわかっていたのだ。わかっていたから、止めようとしたのだ。

 

「嘘じゃなかったんだよ。晴風にはしろちゃんがいて、柳教官がいて、皆がいる。だから何とかなると思ってた。私が一人いなくなっても、船は動くし、対応できると思ってた。絶対に大丈夫って、思ってたんだよ……!」

 

 視界が揺れる。耐え切れなくなって俯いた。俯くと雫が零れる。肌と同じ温度を持った水球はベッドに乗せられた志摩の手の甲に当たって砕けた。

 

「ごめんね、タマちゃん……私のわがままで……怪我させて」

 

 顔を覆う。後から後から流れてくる涙は留まるところを知らない。怖くて怖くて仕方がなかった。逃げだしたくて仕方がない。それでも、明乃に逃げ場所など残されていないのだ。晴風は巨大な密室なのだ。32人が詰め込まれた密室だ。そして明乃はその密室の長なのだ。逃げることは許されない。

 

 

 

「許してなんて、言えないよね……嫌いにならないでなんて、言えないよね……!」

 

 

 

 晴風の乗員も、武蔵も見捨てられない。だからどちらも救われる道を模索した。晴風のクルーは皆優秀なのは知っている。だから晴風を任せて前に出られる。――――きっとその判断が間違いだったのだ。

 

「……そんなこと、ない」

 

 思考に割り込んだ声にハッと顔を上げる。不安定な声だが、それでも確かに明乃まで届いた。紫がかった瞳を薄ぼんやりと開けている彼女は、どこか不器用に笑ったように見えた。

 

「……そんなこと、ないよ。ミケちゃんは、間違って……ないよ」

「タマ……ちゃん……」

 

 意識が混濁しているのか、言葉はどこかあやふやだ。目もピントが合っているのかも怪しい。それでも彼女は明乃に向けて言葉を紡いでいく。

 

「助けようとする艦長は、かっこよかった」

 

 明乃に向けて手を伸ばそうとしたのか、志摩の手がゆっくりと持ちあがる。明乃はその手を慌てて支えるようにして取った。

 

「……あたたかい」

 

 志摩がわずかに手に力を込めた。明乃よりも少し冷たい手。それでも冷たすぎない、血の通った人間の手。それを壊さないように、それでもその存在を確かに感じられるように、少しだけ強く握る。

 

「ごめんね、本当に、本当にごめんね……!」

「いい。艦長が無事でよかったから。いい」

 

 その言葉が、感情の堰を崩すのがわかった。湧き上がる嗚咽をこらえることができない。喉の奥を突くような声を、必死に抑え込もうとする。

 

「泣かないで……」

 

 なんとか頷いて答える。泣くな。泣くよりも先にやるべきことが山積みなのだ。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 自分でも何に謝っているのかわからない。傷つけてごめんなさい。頼りない艦長でごめんなさい。わがままでごめんなさい。謝らなければならないことが多すぎる。

 

「いいよ、もう謝らなくて、いいの」

 

 それでも志摩はそう言って、明乃を許してしまうのだ。それに甘えてしまう自分を心底嫌いながら、志摩の手に縋って、明乃は泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

 

 

 明乃の嗚咽を聞きながら、宗谷ましろは廊下の天井を見上げた。体重を預けている廊下の壁は、ひんやりとした金属の感触を返す。天井には医務室に続く換気ダクトが這っている。それをぼんやりと眺め、少しグロテスクだと思った。

 

「……勝手に飛び出して、勝手に反省して、副官の出る幕がないじゃないか」

 

 視線を下げれば、右肩に下げた副官飾緒が揺れる。副長だけが下げることを許されたそれが、どこか寂しげに映る。

 

 溜息を、一つ。勝手に飛び出して、クルー全員を危険に晒した上官に苦言の一つぐらい叩きつけてやろうと思ったが、あの様子の艦長に追い打ちをかけるのはさすがに酷だろう。

 

 体を振って壁から離れ、甲板に続く廊下を歩く。水密扉を開けて外に出れば、もうほぼ沈みかけている夕陽が真正面から目を射た。目をとっさに腕で守ってから、目が光量に順応するのを待つ。

 

 外に出てみると排水ポンプに繋がるホースが甲板に括り付けられていた。絶え間なく排水が続いているところを見ると、操舵室の水抜き作業はまだ続いているらしい。5分前に浸水量が減少し始めたと報告があったから、なんとか沈まずに済みそうだ。

 

 マストを見上げると信号旗が翻っているのが見える。上からR旗とU旗。意味するのは『操縦困難。貴船側で十分に距離をとられたい』だ。舵が回復するのはしばらく先だろう。今明石が晴風に向けて急行しているとの通信が入ったので、それを待って対策となるのだろう。

 

 持ち場であるブリッジに戻ろうとして、ふと、ブリッジを見上げた。露天のウィングに影が立っているのが見える。他のクルーよりも背が高い。晴風唯一の男性乗員、柳昂三だ。そこに向けてゆっくりと歩いていく。どうやら煙草を吹かしているらしく、そこが持ち場であるはずの内田まゆみの姿は見えない。

 

 ブリッジに入ると、書記の納沙幸子が声をかけてきた。

 

「しろちゃん、もう休憩はいいんですか?」

「あぁ、だが少し教官に相談事があるから業務復帰は後にしてくれ」

「りょーかい、副長さん」

 

 歩きながら会話を交わして右のウィングに出ると煙草を咥えたままの柳が振り返った。

 

「下の様子はどうだった、副長」

「回復作業は進んでいますし、立石3士も意識を取り戻しました。今のところ滞りなく進んでいます」

「上々。とりあえずは生き残り、今後に繋がる情報を得た。辛勝というのが正しいかな」

「殺されかけたのが勝利ですか?」

「結果論で言えばね。悲しいことに」

 

 柳はそう言って煙草を吹かし続けた。蛍のように煙草の先が輝いて灰になる。その灰を携帯灰皿に落として柳は笑った。

 

「今回得られた情報は十分に価値があるものだ。お上もそれを認めていてね、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と判断したそうだ」

「……どういうことですか?」

 

 棘のある言い方にましろは眉をしかめる。柳はそれに苦笑いで答える。

 

「武蔵から発光信号で連絡艇(スキッパー)をよこせときた時のことだ」

 

 柳はフィルター直前まで燃え尽きた煙草を携帯灰皿に押し付けて火をもみ消した。

 

「部隊としてと言うより、海上安全整備局としてのスタンスとして、あの場であの要求を蹴ることは許されない。武蔵は反乱等の嫌疑がかけられており、臨検対象だ。その船から連絡事項があると言われればそれは交渉の余地があると捉えるのが筋だ。相手の要望を聞かなければ対策が取れないからな」

 

 そう言って柳はウィングの手すりに体重を預けた。

 

「だからあの時の岬艦長の判断は一面から見れば正しい。少なくとも、彼女の行動を正当化することが可能だ」

「……船を見捨てていく判断が、ですか?」

「一面から見ればって言っただろう。あの時は臨検班を編成し乗りこませるのが最善だったんだろう。もっとも臨検の法規などを順守して指揮が出せる人間は生徒の中にはいないから、私が臨検隊の隊長をすることにはなるんだがね。少なくとも、岬艦長が出ていくのは止めるべきだった」

「ではなぜ、止めなかったんですか?」

 

 そう言われ、柳は黙って煙草をもう一本取り出した。右手で持った安物のフリントライターで火をつけ、一度深く煙を吸い込んだ。

 

「……拳銃を向けてでも止めるべきだったか、本当に」

 

 その言葉を聞いてましろは目を伏せた。柳がヒップホルスターに拳銃を吊っているのは知っている。

 

「こういうことが起こるから、対象に身内がいる隊員を前線に出すわけにはいかないんだ。だから無理矢理にでも止めるのが彼女にとってはベストだったんだろう。……今回に関しては私の判断ミスだな」

 

 柳はそう言って煙草の箱を握りしめた。手が白くなるほど握りしめていたその手の中で煙草の紙箱が抗議するように鳴いた。

 

「……宗谷副長」

「なんでしょう?」

 

 かけるべき言葉が見つからず、黙り込んでいたましろに、柳が口を開いた。

 

「勤務中は岬艦長から目を離すな」

「……どういうことですか?」

 

 柳の目の色がバチンとスイッチを切り替えたように変わった。冷徹な、目。

 

「艦長が晴風から飛び出したとたん、噴進魚雷が飛んできた。武蔵の目的の一つとして『岬明乃の身柄の確保』が挙げられている可能性が高い」

「それって……!」

「逆に言えば岬明乃が晴風に乗務している間は、晴風に対する積極的な攻撃が抑止されることになる。だから任務が終わるまでの間、岬明乃を船から下ろすわけにはいかない。それが晴風の生存率に関わる可能性が出てきているからだ」

 

 ましろは絶句した。柳の目が過去にないほどに暗くなる。柳の背後に夕陽が回ってきた。水面下に消えようとしている赤い光を背中に受けた柳の顔が、影でどす黒く塗り潰された。

 

「岬明乃にとっての最大の懸念事項は武蔵乗務中の知名もえかだろう。彼女が呼ぶならおそらくまた飛び出していってしまう。酷だが、それに耐えてもらう必要が出てきた。今、岬明乃に晴風を降りてもらうわけにはいかなくなった」

 

 柳はそう言ってまだ残りのある煙草を携帯灰皿に押し付けた。

 

「だから、岬明乃を艦長という役職をもって、彼女をこの船に縛り付ける。部下30名の命を重石として、彼女の動きを封じる」

 

 柳は潰れた煙草の箱を胸ポケットに仕舞い、目を細めた。

 

「そのためにも岬明乃には艦長でいてもらわなければならない。その重圧が彼女を潰すとしてもだ。……だから、艦長である岬明乃を支えて、その場に留まってもらわねばならない」

 

 そう言って柳は手すりから離れた。ましろの横を通り過ぎる。

 

「だから支えてやれ。艦長を」

 

 そう言って柳はブリッジの中へと戻っていく。

 

「各分隊長及び艦長、副長は現状の業務を分隊員に引継ぎ、15分後に小会議室に集合。今後の方針の策定と共有を行う。納沙、書記として同席しろ」

「わかりました」

 

 納沙が頷いてブリッジを出ていく。おそらく艦長を呼びに行くつもりだ。

 

「柳教官……」

 

 ましろは振り返り、ブリッジを出ていく柳の背中に声をかけた。

 

 

 

「あなたは……卑怯だ……!」

 

 

 

 ありったけの憎悪を持ってそう言う。柳はそれを鼻で笑った。

 

 

 

「よく言われるよ、宗谷副長」

 

 

 

 落日。晴風は夜を迎えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お母さん」

 

 ノックと共に入ってきた影がそう言うのを聞いて、宗谷真雪はそっと笑みを浮かべた。明度を落とした照明に照らされた広い書斎を振り返り、開けられたドアの向こうに見える娘を見る。

 

「遅くまでご苦労様。今仕事帰り?」

「うん、武蔵と東舞鶴海洋学校(とうまい)の教員艦が接触してね。その後処理でてんやわんやだったから……あれ? 部屋、片付けた?」

制服のまま入ってきた真霜はそう言った。

「少し、整理をつけようと思って」

「そっか。……お母さん、いろいろ調べてるのね。晴風のこと」

「もう校長じゃないけれども、あの子が乗っている船だからね。助けたいわよ。私が使えるすべてのコネクションを使ってでも、たとえあなたから蔑まれようともね」

 

 そう言って真雪はデスクに置いたファイルを一つ開いた。それを見た真霜は溜息。

 

「無茶をしないで、母さん」

「大丈夫よ。それに、仕事をやめると一気に暇になってしまったのよ。仕事に生きてきた私だから、家にいるのが馴染まないのね。こうやって動いているほうが楽っていうのは、少し皮肉かしら」

 

 そう言って自嘲するように笑った真雪は眺めていたファイルを真霜に差し出した。

 

「これは……?」

「日本は本当に電子ネットワークが発展しているからこそ、本当に重要なもの、とくに触れられたくないものは紙で管理される。だとしてもその紙を管理するのは人なのね。だからこういうものも、伝手を使えば手に入るものよ」

「国土交通省、交通政策審議会の議事録……しかも7年も前のもの、ですか、なんでこんなものを?」

 

 ファイルを手にした真霜はそのページをゆっくりと捲っていく。斜め読みしていくと『次期航洋艦(D D)導入に関する予算審議』が主なる話題らしい。

 

「正確には速記版ね。普通は公開されることのない版なんだけれど、見せてくれる人がいたのよ。その紙媒体の速記版と、表向きに存在するネットデータの議事録とを照合にかけてみたの。……ネットデータのものは明らかに改訂されているわ」

 

 そう言うと真雪はタブレットを真霜に見せた。所々に黄色いマーカーが付いている。

 

「ネット版に存在しない質問が存在する。誰かが公開にふさわしくないとして、速記録から正式な議事録にあげる際に質問事項が丸々削除されているらしいの。……正直、前代未聞ね。不謹慎な発言一つ取り消すならいいとして、質問自体を取り消させるなんて」

 

 真霜はマーカーが引かれている部分に関するコメントを拡大して表示。それを見て僅かに声のトーンを落とした。

 

「……米国から格安で導入される弁天型、インディペンデンス級航洋艦の日本輸出型に対して、導入費が他国よりも2割程度も安く設定されていることに対する、答弁……」

「答弁を行ったのは時の国土交通大臣、大山敢。金鵄友愛塾を主催する、防衛省庁設置推進派の国会議員。そして現在、ヘスペリデス計画を実施していると思われる人物よ」

 

 その声を聞きながら、真霜はその答弁を読み進めた。

 

「米国側が求めてきたのは排他的経済水域外200海里以遠の海上警備行動の強化、海洋の平和維持に更なる貢献をという意味での投資を目的とするイメージね」

「それを、飲んだと?」

 

 真霜の声に真雪は首を振った。方向は縦。

 

「飲んだことになっているわ」

「つまり……母さんは理由が別にあると考えているの?」

「えぇ。米国のスタンスを考えれば、日本にそんな依頼をするとは到底考えられない」

 

 椅子から立ち上がった真雪は壁際に設えられた本棚の一つに寄っていく。

 

「強大な軍事力を背景に様々な国と地域に介入を続ける米国にとって、わざわざこのタイミングで手懐ける理由がないのよ。冷戦期ならばいざ知らず、表向きそれらが解消されている中で、わざわざ虎の子のインディペンデンス級を格安で日本に渡す理由がない」

 

 本の背をなぞるようにしながら真雪は本を探し続ける。その様子を真霜はただ黙って見ていた。

 

「日本は国土の沈降に寄ってほぼすべての平野を失った。それは工業地帯と穀倉地帯の大部分を失ったことを意味する。因果関係が証明されていないとはいえメタンハイドレートの採掘と地殻変動のタイミングが一致している以上、日本は近海でのメタンハイドレート採掘という切り札を封じられてしまった。メタンハイドレート採掘事業を根幹に据えていた日本は没落するしかなかった。……既に斜陽の小国である日本をわざわざ手懐ける理由が、米国には必ず存在するはずよ」

 

 そう言って小さなブックレットを取り出した真雪はそれを真霜に手渡した。

 

「私はそれが、今回の騒動に使用されている可能性のある『薬剤』に関連するものと見ている」

 

 真霜は差し出された本を受けとる。表紙に書かれていたのは『船舶等閉鎖空間における疫病対策薬品使用に関するガイドライン』という文字列だった。

 

「もし、西ノ島新島沖の学生艦の反乱が意図的に起こされたものだとするならば、それを起こさせた何かが必ず存在する。何らかのウィルス、何らかの薬剤。それらが使用され、一様に狂わされた。そんな危険で便利なものを、欲しない国家はないわ」

 

 皮肉な笑みを浮かべた真雪は真霜を見て、笑みを消した。

 

「疫病対策の薬品を管轄するのは厚生労働省の健康局。それを今牛耳っているのは、金鵄友愛塾の塾生である春日井弘忠疫病対策課課長。その春日井はここ8ヵ月程、頻繁に鏑木製薬に出入りをしている。件の鏑木製薬には金鵄友愛塾からの資金流入が発生している可能性が高い。脳神経外科の医師など強引なヘッドハンティングも横行している。その状況で、今回の事件が発生した」

「……母さん、なにが言いたいんですか?」

 

 真雪は僅かに言いよどんだ。そして言葉を紡ぐ。

 

「生徒が薬物によって汚染されている可能性が出てきたてことよ。急がなければ本当に手遅れになる」

 

 だから、と言葉を続けた。

 

「……だから、証拠を掴まなければいけないの。金鵄友愛塾が何を生み出し、何を目的にこの事態を起こしているのか。そのために何を用いているのか。知らねばならない」

「母さん……なにを……!?」

「真霜、私に監視をつけなさい。……直接乗り込みます」

「待って! 母さん!」

 

 とっさに真雪の肩に手を回し、真正面から睨む。

 

「……それが何を意味するか、分かってるの? 完全な違法行為よ。それを私が認めると思ってるの? 私は母さんの娘だよ。法を守り、民を守ることを是としてきた、宗谷家の娘だよ。その私が、そんなことを認めると思ってるの?」

 

 真霜の視線の先で、真冬は笑みを浮かべた。

 

 

 

「思ってないわ。だから、()()()()()。ここで――――さよならしましょう」

 

 

 

 その言葉に呆然とする真霜。まるで空気がなくなってしまったように口をパクパクとさせるが、声は声にならない。足に力が入らなくてその場に崩れそうになる。真雪に支えられるように床に座り込んだ。

 

「あなたの、あなたたちの母親になれて、本当に幸せだった。私なんかには本当に不相応なくらい、よくできた娘たちだった。あなたたちみんな、何処に出しても恥ずかしくない自慢の娘よ」

 

 そう言って真雪はそっと真霜を抱きしめた。

 

「しーちゃん、ふーちゃん、しろちゃん……あなたたちが、私の全てよ。だから、だから私はもうマーメイドではいられない」

「なん……で……?」

人魚姫(マーメイド)は愛する人に刃を突き立てられなければ、人魚として生き続けることは許されない。私には、もうできなくなったのよ。国を守るために、あなたたちを切り捨てることができない。あなたたちがいなくなった世界に意味を見いだせなくなる」

 

 真雪の声が、真霜の奥底から昔聞いた話を引きずりだした。真雪がしてくれた絵本の読み聞かせだった。愛した王子様と一緒にいるために、声と引き換えに人の脚を得た人魚の国のお姫様。泡となって消えるか、王子様に手をかけるかを天秤にかけなければならない一人の少女の物語。

 

「もうお母さんは人魚ではいられなくなったの。……あとはお願いね、しーちゃん」

 

 抱きしめていた腕を解いて真霜の額に唇を寄せた。真雪は立ち上がって書斎を出ていく。呆然としたままの真霜を残して、真冬は部屋を出る。ドアを閉めて、一瞬足を止めた。奥歯を噛み締め、何とか足を踏み出した。分水嶺はもう超えた。もう戻れないのだ。

 

「お母さん、なんで……! なんでいなくなるの……! 母さんっ!」

 

 ドアの向こうで響く声。戻りたい気持ちを押し殺す。唇を噛み締め、涙を止めた。ここで甘えてはならない。あの子たちの憧れであるべき、ブルーマーメイドの母親はたった今消え去ったのだ。

 

「ごめんね、しーちゃん……!」

 

 だから、こう呟くことすらもう傲慢だ。自らのエゴのために親であることを捨てたのだ。謝る権利など、とうにない。許されたいとも思わない。

 

「……あなたたちが背負うのは、栄光だけでいいの」

 

 夜闇に飲まれるように、真雪は横須賀に消えていく。曇天の夜空は天候が崩れることを知らしめていた。

 




お気に入り半減覚悟で投稿の今回です。いかがでしたでしょうか?

物語のテンションで言えば、おそらくここが一番の底です。一番皆が辛い位置、の、はず!

次回から新章と参ります。武蔵をどう追い込んでいくのか、模索を続けながらになりますが、お付き合いいただければ幸いです。

――――
次回 守るべきもの 捨てるべきもの
それでは次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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