三門市と言えば何か? と聞かれれば十中八九の人がボーダーと近界民を連想するだろう。
しかし、彼はボーダーに入隊する前は微塵も興味を見せていなかった。そんな余裕が無かったと言うべきか。
なら、何故彼は一人暮らしをする際にこの街を選んだのか?
家賃が安かったから? それも理由の一つである。
周りに己のことを知っている者はいないから? それも理由の一つだ。
だが、やはり最大の理由は――彼の両親の墓がこの街にあったからだ。
◇
友達を作らず、金目当てでボーダーに入り、休日は遊び人のような生活をする彼は、正直真っ当な人間だと断じることはできないだろう。
しかし、どんな人間にも美点はある。
そして彼の場合は――必ず毎週木曜日、墓参りに向かうことだろう。
三門市にある墓地の数は多い。約四年前に起きた大規模侵攻はたくさんの人の命を奪った。
理不尽に奪われたいくつもの命は、警戒区域から最も離れた山の麓の墓地にて眠っている。
彼の両親の魂もこの地に静かに眠っている。
彼はマッチと線香が入ったビニール袋を右手に、左手には水の入った手桶が。
普段の彼なら疲労の言葉を心の中で呟くのだが、今日に限ってそれはなくただ黙々と歩いていた。
両親の墓地に辿り着いた彼は、ふと供えられている花と線香を見て――しかしすぐに何でもないように手に持った荷物を置く。
墓地に備え付けられたブラシで墓を掃除する。彼が毎回丁寧に掃除しているからか、または他の誰かが掃除しているからか、彼の目の前の墓は綺麗なままだ。
彼は、両親の墓に花を供えてくれる人間を知らない。
祖父は父と仲が悪かったらしい。
『らしい』と言うのは、彼は父、母に関することを覚えていないのだ。
物心付いた時にはすでに祖父と暮らしており、両親の顔は見たことが無い。写真も祖父が遺さず、毎月送られて来た両親であろう手紙を頑なに見せようとしなかった。
しかし、それもある日を境にピタリと止まり、彼の家に手紙が届けられることはなかった。
……実は、彼は一通だけ両親の手紙を見たことがあった。祖父が処分し忘れていたそれを偶然手に入れ、懐に入れて自分の部屋で見た。
だが、意外にも彼に感動は無かった。
この人が親なのか。あまり似ていないな。
ただ、そう思っただけだ。
だから、祖父から両親が亡くなったことを聞いた時、彼は悲しむこともなく、ただ『そうなんだ』と思っただけだった。
彼にとって両親とは己を生んでくれた他人、という認識が正しい。
男手一人で育ててくれた祖父と比べると、どうしてもそう思ってしまう。
しかし、だからこそ彼は両親に感謝している。己を生んでくれた彼らに。
彼が此処に居るのは、間違いなく彼らのおかげだ。それは変えようのない真実。
だから彼は決めた、墓参りをしようと。
初めは渋っていた祖父だったが、彼の懇願により折れて場所を教えてくれた。やはり祖父は彼に甘いようで、だからこそ彼は祖父のことを愛している。
元々綺麗だったからか、三十分ほどで墓掃除を終えた彼は線香を立てる。
ゆらりと白の線が空気中を漂い、独特な香りが彼の鼻をくすぐる。
彼はしゃがんで、手を合わせて目を閉じる。
そして彼は心の中でこう念じる。
――どうか、安らかに。
自分が何かをしているだとか。友達がいなくて寂しいだとか。先輩が凄く怖いとか……そういう報告を彼は一切しない。
思い浮かべるのは、ただこの一言のみ。
それ以外はいらない。必要ない。そう信じている。
立ち上がった彼は、いつもの彼に戻っていた。
これから家に戻るまでの距離が怠いと感じつつも、歩みを止めない。
今日もまた防衛任務があるのだ。そして組む部隊は三輪隊。ちょっと泣きそうになった。
「――ん? あれって」
「どうしたの、葉子?」
心の中で影を落として歩く彼とすれ違ったのはB級の香取隊の香取葉子と染井華だ。
香取は、彼が一秒切りをした大型ルーキーであることに気付くと途端に表情を険しくさせる。
「葉子」
「まだ何も言ってないわよ」
香取はそう言うと、目的の場所へと足を進める。
最初は険しい表情を浮かべていた彼女だったが、少し驚いた顔を浮かべる。
それに気付いた染井がどうしたの? と尋ねると彼女はある二つの墓を指差した。
「いやさ、ここにあいつの親族の墓らしきものあるじゃん? こっち見て」
言われるままに視線を動かすと、染井は少し驚いた。
目の前の二つの墓。それはどちらも『最上』だ。
このような偶然があるのか、と思っていると、香取は何でもないかのように次のように言った。
「こんだけ似ていると間違えそうだなって」
「葉子、不謹慎」
「……そうね、確かに今のは私が悪かったわ」
しかし、もしそうなら彼は酷くマヌケな人間ということになる。
香取はその二つの墓を通り過ぎると、染井の両親の墓へと向かった。
彼女もそれに続こうとして、しかしすぐに振り返る。その視線の先は最上と書かれた墓。
(……でも)
染井は思った。
ここまで綺麗にする人間が、墓を間違えるのだろうか……と。
◇
夏が終わり、秋を過ぎ、肌寒い季節がやって来た。
彼の中学校生活はこのままぼっちのままで終わりそうであり、高校では必ず……! と闘志を燃やすも、果たしてそのような未来は来るのだろうか。
つまり彼は変わらない日常を過ごしていた。
いつものように三輪に罵倒されつつ防衛任務をこなした彼は、どういうわけか上層部から呼ばれてボーダー基地本部内を歩いていた。
それを告げた米屋は軽い感じで言っていたが、告げられた身としては勘弁して欲しい。
彼を呼び出したのは、ボーダーの最高司令官・城戸正宗なのだ。
一体何をしたというのか。
彼は過去の自分を振り返って考えてみる。後悔ばかりの毎日を送って来た彼の得意分野だ。
しかし思いつかない。
別にトリオン体になって川の上を走っていないし、城戸司令の車を真っ二つにしていない。というかそれは某ノーマルトリガー最強の男がやらかしたことだ。
結局分からないまま彼は会議室に着いた。
ノックをすると中から声がかかり、彼は入室した。
そしてそこに居た面子に彼はこのまま回れ右をして帰りたくなった。
何故なら、上層部の面々が勢揃いしており、この部屋を包み込む雰囲気が一つの亜空間を作り出していたからだ。
簡単に言うと重苦しい。
「すまないな秀一。
忍田本部長は彼に向かってそう言うも、仕事なので、と返す。
彼にとって忍田本部長は苦手な存在だ。
何故か防衛任務に赴き、自分の獲物を掻っ攫っていくのだから。
そして妙に弧月を勧めて来て、いざ持ったと思えば太刀川とタイマンをさせられる始末。
筋が良いと言っていたが、それはサンドバックとしてだろうか。
……しかし性格は善人なので、嫌いにはなれなかった。
彼は他の面々を軽く見渡す。
忍田本部長に恋しているが、標的が鈍感なせいでそろそろ慌てるべき時期に突入した沢村本部長補佐。
三輪が毛嫌いしている派閥のトップの林藤支部長。
なんか偉いらしい鬼怒田開発室長。
なんかいやらしい根付メディア対策室長。
祖父が気を付けろと言ってきた唐沢外務・営業室長。
そして彼にとって絶対に逆らってはいけない存在である城戸最高司令官。
やっぱり帰りたくなった。
「早速本題に入らせてもらおう」
ギロリと鋭い眼光が彼を貫く。重々しい口調と威厳のある声は聞いた者を竦みあげさせる力があった。
彼の今の心境はまさに蛇に睨まれた蛙で、何も悪いことをしていないのに自白してしまいそうである。
(旧ボーダー組が何かと気にしている最上秀一……なるほど、城戸さんに怖気づかない胆力はあるみたいだ)
そんな風に思われていることなど知らずに、彼はカカシのように立って城戸の言葉を待つ。
「今回、君を呼んだのはイレギュラーゲートのことだ」
胃がキリキリと痛む中、彼は辛うじて城戸……というよりも上層部が現在悩まされている異常事態について聞かされた。
何でも、ここ最近誘導装置が効かないイレギュラーゲートが発生しているらしい。幸い今の所は非番の隊員が近くに居たために大きな被害は出ていない。
しかしA級トップチームが居ない今、この不測の事態を放っておくつもりはない。
近々ある隊員が本格的に調査に乗り出し、このイレギュラーゲートの解決に取り組むとのこと。
「そこで君に頼みたいのだが、それまでの間秀一には特別防衛体制に着いてもらいたい」
特別防衛体制。
どういうことだろうか? と疑問に思っていると、それには沢村本部長補佐が答えてくれた。
どうやら、通常の防衛任務から外れ、警戒区域外に開いたイレギュラーゲートの対応をするのが今回の彼の仕事らしい。
トリオン兵討伐数トップであり、ソロであり、戦闘力のある彼ならできるだろう、と言うのが上層部の判断だ。それでも万が一のことを考えて、通常の防衛任務中の部隊も応援に駆け付けることになっているらしい。
また、この特別防衛体制には各支部の隊員たちも含まれている。
「主にイレギュラーゲートが発生するのは幸いにも夕方以降になります。
だから、君の生活に支障をきたさない筈です」
ちょっと残念、と思った彼だったが黙って頷いた。
特別手当が出ると聞いて決断したわけではない……と思いたい。
「そうか……ではよろしく頼む」
以上だ。下がって良い。
そう言われて彼は早々に部屋を出て帰路に着いた。
会議室に居たのは僅か数分だというのに、彼が感じた疲労感はその何倍にも感じられた。
さっさと帰って寝ようと決めた彼は秘密経路を通って、しばらく歩くとマンションに着いた。
彼は、玄関口を通ろうして――一人の少年とすれ違った。
「おっと、これは失礼」
小学生だろうか? 小柄な体躯に似合わず、少年は凄まじい足の速さで街の方へと向かっていった。
普通なら、すれ違った人間に興味を示す彼ではないが、あの少年に対しては違った。
外国の軍服らしき物を着た、白髪の子どもなんて誰だって注目するだろう。
それにしても、活発だなと彼は思った。
おそらくこのマンションを廃墟か何かだと勘違いして遊んでいたのだろう。手には紙らしきものを持っていたし。
しかしすぐに興味を失った彼は歩を進め……隣の部屋にある名札に目が付いた。
彼は驚いた。まさかこのマンションに引っ越して来る者が居るとは思わなかったのだ。大家ですら離れた地に居るのに。
煩くない人だったら良いな……と思いつつ彼は己の部屋へと入った。
『空閑』と書かれた文字を頭の隅に追いやって……。
今話の前半部分を修正しました