日曜の午後1時、人が多くゆきかう下北沢の駅で、田所はがっしりとした色黒の肉体とは裏腹に、乙女のようにそわそわしながら人を待っていた。
スマートフォンをポケットから出し、合計4度目の時間の確認をする。
まだ、待ち合わせ時間には20分も早い。
楽しみのあまり、早くに家を出すぎたと思っていると、どこからか聞き覚えのある美声が耳に入ってきた。
「先輩」
田所が声の方に目をやると、人込みの奥から後輩である遠野がこちらに歩いてきているのが見えた。田所まではいかないが少し色黒で、筋肉は引き締まっていて線が細い。
二人は3日前から恋人の中であり、今日が初のデートだった。事の発端は田所が行った犯罪である昏睡レイプだったが、最終的には遠野が容認したので和姦扱いとしたため、現在にいたる。
田所は右手を上げる。
「おう」
「すいません、待たせましたか」
「いや、さっき来たところだけど」
とっさに嘘に、遠野は疑わず安堵の表情を浮かべた。
「よかった。ちょっと早く出すぎたぐらいだと思ってたのに、もう先輩がいたから、待ち合わせ時間を間違えたのかと思って」
「俺もちょっと早く来すぎてさ」
遠野は屈託のない笑顔を見せる。
「そうだったんですか、ちょうどよかったですね」
「そうだな、じゃあ映画、行こう」
「はい」
遠野が力強くうなづくと、二人は並んで歩き出した。
映画館から出ると、遠野は笑顔で言う。
「いやー、面白かったですね、アナル・イン・ワンダーランド。ラストの伏線回収の連続は息をのみましたね」
正直、まったくと言っていいほど面白くなかったが、田所はとりあえず意見を合わせる。
「ああ、そうだな」
面白かった面白くなかったは、大した問題ではない。遠野と一緒に映画を見れたことに意味があるのだ。
「じゃあ、これからどうしますか?」
「そうだな……近くに――」
不意に、腹部に痛みを感じ、田所は右手を腹に当てて眉をひそめた。
それを見た遠野は心配そうな顔で訊く。
「どうしたんですか」
田所は軽く首を振った。
「いや、なんでもない。近くにゲームセンターあるからさ、そこ行かない?」
遠野はまた、屈託のない笑顔を見せた。
「あー、いいっすねぇ」
あの初デートの日から、二人が会わない日はなかった。学校が終わればすぐに街に繰り出し、休日も朝から会う日もあった。
そんな日々が一ヶ月ほど続いたある日、遠野は鼻唄交じりで立教大学内の廊下を歩いていた。
授業がすべて終わり、今日も田所とのデートを想像していると、後ろから声がかけられた。
「遠野」
振り返るとそこには木村が立っていた。田所と同じ空手部で、同学年だった。
「木村、どうしたの」
「いや、ちょっと聞きたいことあってさ。最近、田所先輩とは会ってないか。お前、仲よかったよな」
遠野は静かに息を飲んだ。二人の関係は周りには内緒にしていたからだ。さすがに、ホモだということを校内の人間に知られると、周りから好奇の目で見られてしまう可能性があるので、内緒にしておこうという田所との約束だった。
とはいえ、あっていることは事実。ここで下手に嘘をつくと逆に怪しまれるかもしれないと思った遠野は、毎日あってるという部分は隠しながら普通に答える。
「うん、あってるよ」
「だよな。最近、田所先輩部活に来ないんだけど、何か言ってなかった」
「え、先輩部活休んでたの?」
「知らなかったのか」
遠野はうなづく。
「うん」
「ここ最近、1か月ぐらいは全然来てない。最初は僕に報告に来てたけど、もう報告すらよこさなくなってさ」
一ヶ月前……ちょうど先輩と付き合い始めた時だ。
眉を寄せて考える遠野に、木村は続けて言う。
「その顔見る限り知らなかったみたいだな」
「うん」
「まあ、別に来なくてもいいけどさ、やめるんならやめるでちゃんと退部届出してもらわないと困るから、田所先輩に何か言っといてくれないか」
「わかったよ」
「じゃあ、よろしく」
木村が立ち去ると、遠野は早歩きで、田所との待ち合わせ場所であるキャンパスに向かった。
階段を下り、キャンパスが視界に入るとすぐに奥のベンチに腰掛ける田所が見えた。
田所も遠野に気づいたようで、手を振ってくる。遠野も手を振り返しながら、小走りで駆け寄って言う。
「すいません、待たせして」
「いや、全然」
「そうですか」
「うん、今日はどこ行く?」
「ああ、その前に先輩、ちょっと聞きたいことがあるんですけどいいですか」
「何?」
「最近、空手部に行ってますか?」
それを聞いた田所は、一瞬ばつの悪そうな顔をした後、視線をそらした。
木村の言った通り、休んでいるようだった。
遠野は続けて言う。
「駄目じゃないですか、自分で決めた部活なんですからちゃんと続けなきゃ。それに無断で休んでるみたいですし。僕と一緒にいてくれるのはありがたいですけど、ちゃんとやることはやらないと」
田所は首を横に振る。
「いや、違うって。最近ちょっと体調が悪いだけで」
「嘘ですよ、僕と一緒に毎日出かけてるじゃないですか」
「それは、たいした運動にはならないから大丈夫」
「そんなこと――」そこまで言ったところで、遠野は田所の顔が青く、額から汗が噴き出ていることに気づいた「せ、先輩。本当に体調が?」
「本当に決まってるだろ、嘘なんてつかない」
そう言い終わると同時に、田所は小さなうめき声を上げながら、下を向いた。
すぐに遠野はかがんで田所の背中に手を置く。
「大丈夫ですか」
田所はつらそうに顔を上げた。
「大丈夫、大丈夫だから。でも、ごめん。今日はちょっと遊べそうにない」
「当たり前ですよ、こんな真っ青な顔して、どうしたんですか」
「最近、かぜ気味だったからそれが悪化したのかも。ごめん、俺もう帰る」
田所は腹を抱えながら立ち上がると、遠野に背中を見せるように歩き出した。
その背中に、遠野は何か違和感を感じる。
「先輩」振り向く田所に、遠野は訊く「僕に何か、隠し事してませんか」
田所は今にも倒れそうな様子で小さく首を横に振ると、また遠野に背中を向けた。
この日から、田所は学校へ来なくなり、誰一人として連絡が取れなくなった。
換気を怠っているせいか、熱気が立ち込めるワンルームの部屋の中、田所は腹の激痛とともに目を覚ました。
布団の中で歯を食いしばりながら痛みに耐える。
すぐに、便が肛門を押しトイレに行きたい欲求にかられたが、肛門を力強く閉めて耐えた。
暑さと痛みで額から大量の汗が噴き出すと、田所は体に掛かったいる布団をどける。そこには妊婦のように大きくふくらんだ自分の腹があった。
そんな腹なので服も着ることができないので、上半身は裸だった。
あまりにも悲惨な自分の腹の惨状に、思わず田所は目をそらしてしまう。同時に、また腹の痛みとともに便が肛門を押した。
「アォン!オオン!」
叫びながらも便の進行を阻止し続ける。
どうしてもうんこをするわけにはいかなかった。
事の発端は1か月ほど前、ある日、普通にうんこをしおえ、携帯を見ると違和感を感じた。母からメールが届いていたのだが、母親の顔などが思い出せなくなっていた。
同時に、父の顔も思い出そうとしたが、まったく出てこない。
不安にかられた田所はすぐに肛門科へ向い、診察を受けた。
何度か肛門をいじられると、田所は待合室で看護師に呼ばれ、診察室に入った。田所が医師の前に座ると、医者は静かに語りだした。
「田所さん……非常に言いにくいんですが……あなたは肛門型記憶喪失です」
聞きなれない言葉に田所は戸惑った。
「こ、肛門型?」
「はい、つかぬことをお伺いいたしますが、あなたはホモセクシャル、またはバイセクシャルですか?」
あまり正直に答えたくない質問ではあったが、田所は答える。
「はい」
「やっぱりですか。同性でそういうご関係の方が?」
「はい、います」
医者は一呼吸置いた。
「いいですか、田所さん……落ち着いて聞いてください。この肛門型記憶喪失というのは、校門を酷使する方。詳しく言えばアナルセックスをよくする方に起こる病気です。肛門が傷つき、そこから菌が入ってしまい繁殖。ゆっくりと尾てい骨を侵略し、背骨から脊椎に入り、あなたの脳に入りました。そこから菌が神経を作り、今あなたの体は肛門と脳が菌の作り出した神経でつながっている状態になってるんです。その神経に刺激を加えると、あなたの脳に何か障害が起きます。人によって症状は違うんですが、あなたの場合は……大切な人への記憶障害、ということみたいです……これから大変でしょうが、まずは親御さん――」
そこから、医者の言葉はすべて通り過ぎ、田所は静かに考えを巡らせていた。
前回、前々回とで両親の記憶がなくなったということは、次、もしくは近くには遠野の記憶が消えてしまうということになる。
それだけは絶対に嫌だった、遠野とともに過ごした日々、昏睡レイプした日のことを忘れたくはなかった。
そして、この記憶障害のことを遠野に知られてしまえば、遠野は自分のもとから離れてしまうかもしれない。
どうすれば……いったい、どうすれば……。
結論に至ったのは、次の日の朝だった。起きて簡単な朝食を食べた直後、便意を催した時、田所は決意した。
もう、うんこはしない。
田所は一日に6回も大量のうんこをする人間だった。そんな人間が、うんこをしないことは自殺行為に等しい。
だが自分の命以上に、遠野との昏睡レイプの記憶の方が、田所にとっては大切なものだった。
その日から田所は、空いた時間はすべて遠野と遊ぶ時間に割いた。自分が死ぬ日までに、思い出を作り、そして死にたかったから。
思った以上に、体は持ってくれた。一ヶ月もの間、遊ぶ時間を与えてくれた自分の鍛え抜かれた体に感謝した。
そして、数分起きに腹に痛みが刺すようになってからは学校へ行かなくなり、またさらに一ヶ月が経ち、今に至る。
田所は自分の巨大な腹に手を添えた。中には自分の2ヶ月分のうんこが詰まっている。
もうすぐ、爆発する。今日中か……今すぐかもしれない。
これから死ぬと思うと、自然と涙が流れた。
親の顔を思い出そうにも、まったく出てこない。ただ、遠野との楽しかった日々はまだ残っていた。
ふと、あることを思い立つ。
そうだ、死ぬんなら……池袋。池袋で死にたい。
池袋は遠野と一緒にペアルックのレシートTシャツを買った後、路地でセックスをした思い出の場所だった。
田所は財布をもって静かに立ち上がった。服は着れないが、もうすぐ死ぬのだ、何と言われようがいいと思い、そのまま外に出た。
道を歩くと、人は田所を指さし、中には写真を撮るものもいたが、そんなことは意に返さず、田所は歩いていった。
電車に乗り、数駅進んで降りると、池袋についた。
さらに多くの群衆に指をさされながら、田所は歩く。
田所は、静かに道の真ん中に立った。ここで、遠野とTシャツを着て歩いていた。
思い出に浸っていると、腹が動物の唸り声のような音を立てると同時に、今までにない痛みが腹を襲う。
爆発する。
そう確信した刹那、遠野との思い出が脳裏を流れていき、同時に、静かに目を閉じた。
「先輩!」
不意に聞きなれた声が後ろから響き、振り向くと遠野がいた。
そして、何故か腹は静かになる。
「遠野……どうしてここが?」
遠野は田所まで走ると、息を切らしながらスマートフォンを見せてきた。
「ツイッターで話題になってたんです。色黒で臭い腹の大きい男が、上半身裸で池袋にいるって。きっと、先輩だと思って……それより、このおなかは何なんですか」
「いや……別に」
「別にって、何にもないわけないでしょ、教えてください何があったんですか」
もう、言い逃れはできないと思った田所は、静かに真実を語りだした。
「実は、俺は――」
話をすべて聞いた遠野は声を荒げた。
「どうしてそんなこと黙ってるんですか!」
「お前がどっか言っちゃうんじゃないかと思って」
「どこにも行きませんよ」
「だって、俺うんこするたびに、お前のこと忘れちゃうんだぜ……そんな奴と一緒に――」
「いますよ!」遠野は田所の言葉をさえぎった「どれだけ忘れてもいいじゃないですか、僕はいつでも一緒にいますよ。忘れたって、また新しい思いでを作ればいいだけじゃないですか」
「遠野……」田所は大量の涙を流す「いいのか……うんこするたびに、お前のこと忘れる俺が、恋人でも」
「そのたびに、初恋の感覚が味わえるんです。最高ですよ」
「ありがとう……ありが!ああ!」
また、激痛が襲う。
「大丈夫ですか」
「ああ、と、とりあえず、トイレに、トイレに行かせてくれ」
「はい」遠野は田所の肩を担いで歩き出す「どこか、どこかでトイレは、あ!」
遠野はある大きな建物を指さした。
田所は訊く。
「あれが、どうかしたのか」
「あれはNCNCムービーの本社です。あそこならトイレを無断で使ってもいいです」
「え、そうなのか」
「はい、ユーザー主体のコンテンツなのに、一切ユーザーの声を聞かず。センス無い凡人がセンスあると思い込んで、自分たちが作ったものをユーザーに押し付けるクソ集団ですから、無断でも大丈夫です」
「そ、そうか。よくわからないが、よさそうだな。遠野、もういいぞ、ここからは一人で行く」
「え、どうして」
「これ以上一緒にいると、お前に迷惑がかかるかもしれないから。こんな見た目の奴と一緒にいすぎちゃいけない」
「そんな、僕は気にしませんよ」
「俺が気にするんだよ、頼む」
遠野はしぶしぶといった様子で、担いでいた肩を外す。
「分かりました」
「ありがとう、遠野」
「はい」
「俺があそこから出てきたとき、俺はお前のことを覚えてないだろう。だから……その時は」
「分かってますよ、僕に任せてください」
遠野の真剣な目を見て、田所は力強くうなづいた。
「分かった、頼む」
田所はNCNC本社に走った。中は一般人にはも入れるように泣ているようで、レストランやスタジオが見えた。
すぐに、トレイのマークを見つけ、そこに走るが、男女ともに長蛇の列ができていた。
順番を待っている暇はなかった。田所の体はいつ爆発するかわからか無かった。
トレイから離れ近くにあった関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアを開けて、中に入る。
中はオフィスになっており、社員達が一斉に田所を見る。
数人が立ち上がり、田所の方へ歩いてきたが、田所は無視しして、すぐそこにあった社員用のトイレに駆け込んだ。
すぐに個室に入って鍵を閉め、ズボンを脱いで便座に座る。同時に脱糞、まるで栓を開いた蛇口のように大量のうんこが流れ出た。
すぐに、個室のドアをたたく音が聞えた。社員がたたいているのだろう。
緊急を要したので仕方なく借りた、と弁解しようとしたとき、田所は気づいた。
便器がうんこで埋まっていた。そして、うんこは止まっていない。
うんこが便器からあふれ、流れ出た。
遠野はNCNC本社まえで深く深呼吸をし、自分のことを忘れた田所にすることを、頭の中で考えていた。
それはキスをすることだった。あの昏睡レイプをした日に行った、あの情熱的なキス。きっとあれをすれば、記憶が戻らないにしても、何か気づいてくれるはずだ。
静かに田所を待ち、10分ほどたったとき、遠野はあることに気づく。
NCNC本社、一階部分が茶色い。まるでうんこのようだった。
悪い予感がした。
遠野がゆっくりとNCNC本社に近づくと、うんこまみれの人たちが散々としていた。泣きわめく人間がいたり、その場に倒れこむ人間がいたりする中、そのうちの一人が、電話をしながら叫んでいた。
「だから!うんこですよ!うんこまみれになってるんです!早く来てください、死人がでますよ!」
「あの」
男は電話を下す。
「何ですか」
「どうなさったんですか、何か起きたんですか」
「どうもこうも、何故かトイレから大量のうんこが流れてきたんですよ。もう一階はうんこで埋まってて……たぶん、中にまだ人が……」
瞬間、遠野はNCNC本社に走ったが、男に腕をつかまれて止められた。
男は言う。
「何してるんですか!」
「あの中に!あの中に大切な人がいるんです!離してください!」
「何言ってるんですか、死にたいんですか!」
「お願いします、離してください!中に、先輩が、先輩が!先輩!先輩!うあああああ!」
もはやうんこと塔となったNCNC本社を前に、遠野は膝を崩して倒れ、泣き叫んだ。
田所の通夜はしめやかに行われた。
集まった立教大学の教諭たちや空手部の顧問、部員、友人。その中でも一番悲しんでいたのは、遠野だった。
その美しい声鳴き声は、葬式の間、鳴りやむことはなかった。
やけになった遠野は、葬式に出された料理には手を付けず、ただ静かに酒を飲んだ。
酔いが回ったのか、気持ちが悪くなり吐いたと思えば、腹を下した。
葬式を終えた遠野は、何か吹っ切れたのか泣き止み。家にまっすぐ帰ると、布団に入っても服のまま眠った。
田所の葬式が終わった次の日、何かもやもやした気持ちを持ちながら、木村は立教大学内の食堂に入った。
カレーセットを頼み、数分待つと料理の乗ったプレートが出ていた。
それをもって食堂内の開いてる席を探していると、ラーメンを食べている遠野の背中が見えた見え、ちょうど隣が開いていた。
「おい、遠野」
木村がそう言うと、遠野は肩越しに後ろを見た。
「やあ、木村君」
「隣、いいか」
「うん、別に僕に断ることないよ」
「まあ、そうだけどさ」木村はプレートを机に置くと、遠野の隣に座った「あれだな、今日は天気がいいな」
「まあ、そうだね」
「ああ……まあ、あれだな」
「ん?なに」
「田所先輩……俺、先輩とそんなに思い出ないけどさ、だけど――」
「ねえ」遠野は木村の言葉をさえぎると、きょとんとした顔で首を傾げた「田所先輩って、誰?」