スコルピト・C・ラスコータ先生の浮遊感 作:ランタンポップス
重傷の男を担ぎ、土手から這い上がったラスコータは街へと再度入る。
しかし背中の彼の追手を恐れ、鉢合わせにならぬように神経を張り巡らせた。あの二人は街へ入って行った、今のラスコータは虎穴に足を踏み入れた状態である。街の中とて安心ではないのだ。
いつ、何処の街角から顕現せしめるのか分からないだろう。見つかったら終わりだ。
今までこんな事があったのだろうか、ただの街がケンタウロスの迷宮と化しているのだ。
「あぁ、今日は厄日だ……」
今日一日中を思い返して気分の落ち込むラスコータだが、貧相な体は思考と駆動を両立出来ないようだ。フワッと考え事をした時に足が一気に震え出した。気を抜くと体の力が抜けてしまう。
男ごと地面にへたり込んでしまう、そう察知した彼は瞬時に思考を掻き消し、目の前の道を一歩一歩進んで行く事だけに頭を回した。
「あ、あ、危ない……! 集中しないと……しゅ、集中を……!」
言えど、今まで肉体的な鍛錬を怠って来たラスコータに、体重七十キロと推定されるこの男を背負うのはかなりの重労働であるのだ。
ラスコータは身長が百七十五で、体重が五十三と言う、三十路の手前にしてはあまりにも痩せた体型。その彼が、自分より重い人間を背負っている訳であり、「これなら薬品箱を運ぶ方が楽だ」だなんて思ってしまう程の重労働である事が分かるだろうか。
筋肉が軋むような感覚がして、男の足を抱える自身の腕が引き千切れてしまうような錯覚を起こした。
あぁ、こんな事なら少しくらい鍛えれば良かったなと、後悔したラスコータ。とても、早急に病院へ向かえないと悟った彼はやり方を変える事にした。
「よい……っしょぉ……」
背負っていた男を道端に置いた。
意識がなかったので、脈拍と呼吸を確かめたが、弱々しながらも生命活動は続いていると確認し一安心する。
「い、いない……よな……よな?」
次に周りを見渡す。ここは街の暗い裏路地なので人通りはないが、つまりは誰も騒ぎ立てないと言う事だ。騒がれると追手に気付かれてしまいかねないだろう。
ラスコータは一人立ち上がり、大きく息を吐いた。
「…………」
目の前には表路地、煌びやかな光の中を人が往来している。お高い車も頻繁に通っている。
これからやる事を、ラスコータは非常に避けたい事だった。自分の性格を知っている彼は果たして、自分の思い通りに事が進んでくれるのかと心配になり、躊躇の念を湧き上がらせてしまった。
とても恐ろしい。自分が注目される恐怖が、得体も知れぬ生物に纏わり付かれるが如くの薄気味悪い恐ろしさのように感じた。しかし、医者としての自意識と言うのは、『やるかやらないか』を凌駕する。
ここで逃げ腰になってはいけない、彼はもう後戻りさえ許可されない禁足域に達してしまっているのだ。
「……すぅー…………はぁ……!」
深呼吸の後、ラスコータは意を決して表路地に飛び込んだ。
「……と、とと、止まって下さい!!」
両手を大きく広げ、車道の中心に立った。
そこは馬車の前、驚いた運転手はハンドルを切り、制止させる。目前まで来て目の前でスリップした車に驚いたのはラスコータも同じで、飛び上がるような歩道へ逃げた。
「テメェ!? 馬鹿じゃねぇのか!? 何してやがんだボケェ!!」
壮年の運転手が鬼の形相でラスコータに怒鳴り散らした。
その声に畏縮し、体を全体的に引き攣らせる気弱な彼であるのだが、逃げ出す事はしない。
「……と、あ、いぇ……えと……」
「あぁ!?」
「……ひ、人が、手負いの人が……えと、ぼぼ、僕は医者です!」
御者は怪訝な表情でラスコータを見た。
彼は「しまった」と、挙動不審になって突拍子もない事を言ってしまったと頭を抱える。
いきなり『医者』と言った所で、事情を知らない相手側にとったら「それがなんだ」と足蹴にして終わりではないか。向こうからの返答が来る前にラスコータは、頭の中で言葉の羅列を組み直し、発する。
「そ、そうじゃあなくてぇ……!……あの! け、怪我人がいます!」
「なに? 怪我人?」
「えぇ! 一刻の猶予もない状態なんです! で、ですので、病院まで車で運搬を願いたいのですが!」
ラスコータ自身も驚く程、流暢に状態を話せた。必死故に舌が回ったのか何とやらだが、とりあえず運転手に対して説明は出来たハズだ。
「怪我人は何処だ?」
「そ、そこの路地裏で寝かせていますが……あ、あの! 嘘は吐いていませんから、お願いを聞いて貰えませんか!?」
彼は路地裏を指差しながら、嘘では無い事を強調させた。言うのは、御者の目の中に疑りの念が見えていたからである。
ここでラスコータは後悔したのは、裏路地の見にくい暗闇の中に男を置いてしまった事。ラスコータでさえ見えるか見えないかの状態なのに、運転席の彼が視認出来る訳がなかろうに。
「……如何しましょうか、旦那様?」
嘘か真かは別として、運転手は後部座席で座っている自身の主人に意見を伺っている。
ラスコータは男を連れて来たいが、ここにいなければいけないかな、とどうしようか迷っている最中だ。
すると後部座席の窓に引かれたカーテンが開き、ギョロリと、男の鋭い目が現れた。冷酷な、とても冷たい視線だったので、ラスコータは思わず身震いし、一歩だけ後退りしてしまう。
人間に痛みや辛みを与えてのし上がって来たような、恐ろしい形相だった。綺麗に切り整えられた髭と、堂々と据えた目と姿勢が上層階級特有の風貌をした人物であり、何処か他の人間を見下しているような所もある意味で上層階級の人間らしい。
だがそれらを取っ払ったとしても、男の冷たい目の正体が図り知れなかった。この、人を人として思わないような超越者じみた目が、ラスコータには敏感に察知出来てしまい、この場から逃げてしまいたい程の恐怖に駆られたのだ。
勿論その欲求を抑えたのも、医者としての自意識なのだが。
「……君が、私の帰路を止めた者かね?」
男は窓を開けると、静かに聞いて来た。
ラスコータは必要以上に慄いている感情を「自分の妄想ではないか」と打ち消し、目線は合わせられなかったが言葉は吐き出せた。
「あ、い、いえ……えと……は、はい」
「それで、目的は何だったか?」
「け、け、けけ、怪我人が……それも、早急に対応しなければ非常に危険な状態でして……あ、あ、あの、連れて来ます……!」
そう言うとラスコータは一旦、逃げるように裏路地へ入り込み、寝かせている男を再度抱えて立った。
背中に背負い、先程の車へと戻る時に溜め息を吐いてしまった。彼の苦手な人種である、あの上層階級の男と同席する事になるかもだからだ。気分が幾ばくか辛くなっている。
車の前へと戻って来ると、運転手は予想以上の怪我人だった事もあってか、目を開いて驚いている様子だった。
しかし後部座席の主人は、見慣れているとも言っているように、眉毛一つも動かさなかったのが不気味だ。
「こ、この人……です……えと、誰かに撃たれたようでして……!」
「こりゃ大変だ! 顔が真っ青じゃねぇか!」
「血が足りていない証拠です……えと、お願い出来ませんか!?」
運転手は人道的な人のようで、心配の声をあげている。そしてチラリと、己が主人に目を向けた。
「……ふぅんむ……」
暫く考えるような仕草をした彼だったが、怪我人の男の顔を見て何かに気が付いたように、目を細めた。もしかしたら知り合いなのかと思ったが、それ以上は表情で語ってくれない。
次に、至って冷静な主人の声が、静寂からせり上がるように聞こえて来る。
「それが、例の?」
「は、はい……」
「……乗せなさい。病院まで乗せてやる」
その一言で、ラスコータは随分と気が楽になった。人は見掛けによらないのだなと、実感出来た時である。
すると中の主人が後部座席へのドアを開けてやり、ラスコータを誘った。それを確認し、すぐさま縋るように扉の中へ入り込み、薄暗い車の中で怪我人を席に下ろした。
「出せ」
「病院ですね? はい」
主人が運転手に命令し、すぐに車はエンジン音を蒸して走り出した。
突然揺れたので、ラスコータは転びかけたが、引っ付くように席へ座り込む。そして安堵から、息を大きく吐いたのだった。
「あ、有り難う御座います!……あぁ、大丈夫ですか!?」
自身の隣で横になる怪我人の男の肩を掴み、呼び掛けたが、男がそれを制する。
「動かさない方が良い。怪我に障るのではないのか?」
「え、あ……そ、そうですね」
「体力も衰弱している、だいぶ血を流したのだろう。この馬の揺れでさえも危うい、そっとしてやれ」
尊厳があり、かつ静かな男の口調に、研修医時代の時に勤務していた病院の院長とイメージを結び付けてしまい、怯えから畏縮を強めてしまう。
男の風貌は、まさしく上層階級の人。
黒い高級スーツに身を包み、分けられた清潔な髪とどっしりと構えた座り方がそれを物語っている。窓越しで、顔だけしか視認出来なかった時は初老だろうかと思っていたが、全体像を確認してみれば筋肉もあり身長もあり、非常に若々しく見えた。寧ろ、運転手の方が男より老けているように見える程、年齢の読めない男である。
「……すす、すいません、こう言う緊急時は初めてで……気が動転していました」
自分の不始末について謝罪してしまうラスコータ。
彼のその謝罪の言葉に気になる所があったのか、男の冷たい視線が絡みつく。
「緊急時は初めて……緊急時ではない時は日常茶飯事とも見えるな」
「に、日常茶飯事……と言う訳ではないですけど……研修医時代は、こう言うのあったので」
「医者か」
「は、は、はい……い、今はしがない、開業医ですが……」
そこで男は、ピタリと声を止めた。興味を無くしたような、そんな表情なので少し悲しくなってしまう。
しかし医者として、男の語り口が医療系に詳しそうだなと薄々彼は思っていた。
「……その男、何者だ?」
すると突然、彼がまたラスコータに質問を起こした。
こうも突発的に話し掛けられては、気の弱い彼にとっては寿命を縮まったと危惧する程に驚いてしまうのだが、それを悟られては失礼だと何とか表面化だけは防いだ。
「え、えっと……わ、分からないです」
「撃たれていた、という事は人物が知れているな……それにこの、人目を避けるかのような服装。裏の人間に違いないだろ」
男の素性を、彼はまんまと看破した。
ラスコータの中で不安感が暴れ出す。
「そ、そうだと……お、お、思いますが……やはり、一人の人間ですし、医者としては助けたいのです……」
「…………ふん」
何故か彼は、鼻で笑った。人の情と言うものが欠如しかのような、あしらう様な鼻笑いだ。
恐る恐ると言った具合で男の表情を伺うラスコータに、聞きたくなかった言葉をオブラートにも包まずに言い放った。
「……医者にしては吃音もあり、その男と何ら変わらぬ服装をして……ふんっ、誰も医者とは信じないぞ」
「いっ……ッ!?」
心臓が潰されるような感覚がして、絞り出すような声をあげた。
ラスコータはこの男が嫌いだ、このとことんまでに人を下に見た冷酷な目が、彼には耐え切れなかった。それに男は、医者としてのラスコータを初対面に関わらず否定したのだ。
これらの要因が緊張で張り詰めたラスコータの神経をデリカシーも無しに握り締め、見せる苦悶の表情を楽しむかのようにいたぶっている。
気分が一気にひっくり返ったばかりに、帽子を深く被って顔を伏せ、手を細かく震わせている。反論しようとも思えなかった。
そんな彼の様子にこの男が気付いていない訳がないが、何食わぬ顔でまた話しかけて来るのだ。
「病院に行って、どうする?」
「……ど、どぉ、ど……どうするか、です……って?」
唇を震わしながらも、何とか返答に至れた。
男は続ける。
「今日は土曜日……午前にとっくに閉院しとるだろうに」
「……あっ!」
ラスコータは「しまった」と、帽子からはみ出た髪を掴み、血の気引いた顔で窓の外をつい見てしまった。
「そうだった! あぁ、午前に終わっていたじゃないかぁ!」
「言えど宿直がいるハズだろう……腕利きの外科医かは別だが、事情を話せば開くだろう……手術の出来る人間かは分からんが」
「…………」
まるでこの、人が死ぬかもしれない状況を楽観視しているような、性悪な男。
一緒の空間にいて、一緒の空気を吸い、一緒に行動していると考えるだけでも鳥肌立ち、気分も悪くなって行く。この男からウィルスが現れているかのようだ、非常に不快だ。
だが、彼の言った『腕利きの外科医』と言うワードにラスコータは、声をあげて記憶の鍵穴へと当てはめられたのだった。
「そ、そそ、そうだ!……えぇと、ここは……あぁ、なんてこった! ツイているぞ!」
いきなり歓喜に似た言葉を吐く彼の様子に、気でも違ったかと怪訝な目を向ける男。構わずラスコータは座席に縋り付き、運転手に命令した。
「う、運転手さん!」
「んん!? な、なんだ!?」
「そ、そこの角を曲がった所にレストランがありますので、その、前で止まって欲しいです!」
彼の命令に、彼は驚きを持って聞き返した。
「レストラン!? なんでぇ、病院じゃないのか!?」
「最終的には病院ですけど、まずは止まって下さい!……僕の友人の、『腕利きの外科医』がいるんです!」
思い出したのは、ジョニィであった。
もしかしたらまだ、食事の最中かもしれない。決別の後なので顔は会わせ辛いのだが、ラスコータの知人で『腕利きの外科医』と言うのは彼しか挙げられる人物がいなかったのだ。
それに彼は総合病院の勤務医、閉まった病院の扉を叩くよりもスムーズに手術台へと進められるだろうに。
「お願いします!」
「……わ、分かった……」
詳細な説明はしていないのだが、困惑した様子でありながらも運転手は了承してくれた。
ホッと一息吐き、再び後部座席へ顔を引っ込める。
「……成る程。ツイているな」
同時に、嫌いなこの男から声がかかる。
また体を恐怖で飛び上がらせながらも、嫌悪感を何とかひた隠し、自分で最も愛想の良いと思える表情を張り付けて平常心を装った。以前として、男の目は全てを貫き通しているかのように冷たいのだが。
「か、勝手な事をして申し訳、ありません……!」
「ふんっ、私が寛容な人間で良かったな」
「……はい」
さっさと会話を切ってしまいたかった。
この男と、気味悪さを感じながら喋るくらいなら、何ともない沈黙の方が遥かにマシであったのだ。
なのにこの男は、そんな彼の内心を察した上でなのだろう、話しかけて来た。
「人の怪我を治すと言うのは、どうな風か?」
「……へ?」
今度は驚きが元より、奇妙な質問による怪訝が真っ先に現われ出た。
「どう言う、意味ですか?」
「そのままだ。人を治すと言うのは、どう言う意思を持って行っている?」
「は、はぁ……ん?」
質問が非常に平々たる、初歩的なものだったからだ。「怪我を治すとはどう言う事か」と言う説明のしようもない程の、そのままの事象のハズなのだが。
これはもしや、医者としての技能を、お節介にもこの男は試しているのか。そう考えたラスコータは、言葉を尽くして説明してやろうと頭を絞った。
「それは……医者としての精神からです……医者は、『医を持って世に尽くす者』です。病気、怪我……更には心を病める人を治す人です。どんな人であろうと蔑ろにするのは、その精神から反すると思っております……だって、苦学の末に手に入れた知識を、自分の為だけに使用するなんて、烏滸がましいですよ」
「…………」
「医療は哲学と違って、対人的な学問ですから……人がいるからこそ、成立するのが医療なんです」
ラスコータはさも、「言ってやったぞ」と嬉しげになっていた。流石にこの男にも、苦言が出せる節が無かったろうにと、してやったり顔になりかける表情を押し込めながら、彼は男の言葉を敢えて待ってやった。
「下らん」
しかし、男の反応は、全く真逆で以て問い掛けて来る。
「医療と言うのは、金を貰ってから成立しているじゃないか。君も開業医なら、そうなんだよ」
「え……?」
「学問とは、『自身がより裕福に、かつ幸福になる為の称号』に過ぎん。貧者の知識より、賢者の知識の方が優先される。凡人学校卒より、名門学校卒の方が羨まれる。学問とは、人より優位に立つ為の、『力』に過ぎん。学問は力だ」
そして男は、あの人外じみた燃える目でラスコータを睨み付け、悪魔かと思われる程の邪悪な笑みを浮かべて付け加えたのだった。
「医療も商売だ。君が無償で人を助ける人間と言うのなら別だが、とてもそんな人間には見えん。今回は別そうだが、どうせ院内だったら請求書作りにせっせと勤しんでいたろうに」
「そ、そんな事……」
「良いか? 教えてやる。医療はサービスだ、サービスは『商品』。高級レストランの恭しい店員たちも、一級列車のワインも、ホテルの接客も……全てタダでやっているようだがそうじゃない。『金の為にしている』に過ぎんのだ。君だってそうだ。なのに『医を持って世に尽くす』と鼻高々に語るとは、君こそ烏滸がましいとは思わんか?」
息が苦しくなり、襟元を緩めた。だがまるで、口内が腫れ上がり気管を塞いでしまったかのような息苦しさが、ラスコータに襲い掛かっていた。
強烈な色彩を持って炸裂する、光の乱舞のような精神状態となり、その不安定で凄惨な精神状態がチカチカと世界を明滅させる幻覚を起こしたようだ。彼は隣の怪我人の事を頭から離し、体を支えるようにして背凭れに身を預けた。
「なぁに、生活する為だ、仕方ない。医者は、貧者が死に物狂いで搔き集めた金を受けて医療を施し、その金で美味い物を食べに行けるのだ。これは、識者の特権だろうが? 知識が他者との優位性を強調させ、確立させ、豊かにさせている。君が利他的で無償で医療を提供する人間なら別だがね」
恐怖が這い上がって来た、今すぐにでも大声で泣き喚きたい気分だった。その気力でさえも、紡がれてしまったのだが。
対してこの男、そんな様子のラスコータを見て全くの罪悪の念を感じさせずに、あろう事かいたぶられ、狼狽する彼の姿を面白がるようなサディスティックな笑みを浮かべ、眺めているのだ。
「医者程、利己的な人間はいないと思うが? おっと、君の自尊心を傷付けてしまったかな? 汗が溢れているぞ、体も寒がりなアパシーのようだ、何か飲むかね? え?」
「ぃ……うう……!」
「どうした? まるで硫酸でもぶっ掛けられたかのような、恐怖面になってからに。君はそんな貧者や奴隷のような下層の人間ではなかろうが? もっと我が為、上へ登る為に邁進するべきだ。私を面食らわせたいばかりの、浅い医療論を唱えとる場合ではない」
やはり看破されていた、この男には一切の感情を読み解かれてしまう。
気味が悪い、この男は悪魔の顕現だ。今すぐにでも馬車から飛び降り、頭から街路に突っ込んで死ねる方が何とも幸せかと思われて来た。
この男から離れ、以後決して出会いたくない。何でこんな車に助けを求めてしまったのだろうか、ツイていない。ラスコータを頭を抱え、震えた。
彼の拒絶の思いは届いたようだ。
車が止まった。
「医者の兄さん! 言われたレストランに着いたぞ!」
その言葉にハッと我に返り、窓の外を齧り付くように見やった。
ウェイターと見覚えのある店名、間違いなくこのレストランで合っている。
「あ、の、いい、有り難う、御座います! え、え、え、ええ、えっと、少し失礼を!」
「……ふんっ」
ラスコータはすぐさまドアを開けて、逃げ出すようにレストランへと走り出した。
背後から男の視線を感じた為、無我夢中だ。ウェイターの制止も聞こえず、店内へ飛び込む。
「ジョニィ!」
自分らが座っていた席には、ジョニィが一人だけで食事をしている。
ラスコータが頼んだ分も拒んでいないようで、向かい合わせの位置にナイフとフォークと共に置かれていた。まるでジョニィは透明人間とでも食事しているかのような、滑稽な光景だ。
彼はラスコータの呼び声に気付き視線を向け、驚いたような顔をしている。当たり前だが。
「す、スコール!? 戻って来たのかい!? いやぁ! 念の為に料理を置いて貰ってて良かった!」
彼はあの後でも、ラスコータが帰って来る可能性を信じてくれていた。我慢しかけていた涙を、グッと堪える。
「有り難い、ジョニィ……! でも、一刻の猶予がないんだ! 君の、外科医としてのスキルが必要なんだ!」
叫びにも似た声だったので、周りの客の視線を一斉に集めた。それがまた恥ずかしく、嫌になったのだが、あの男との事と比べたら全然マシだろうに。
ジョニィもそんな、ラスコータの真に迫った声を聞いて只事ではないと分かったのか、真剣な表情になった。
「どうした、スコール」
「人が撃たれて、酷い失血を起こしている。状態からして、かなり危険だが……幸いしたのは動脈を逸れていた」
「何だって!? 処置は!」
「パットと包帯で、圧迫止血を施しておいたけど」
「あぁ、君は最高だ!」
最低限の応急処置をしていたラスコータを褒め称え、席から立ち上がりコートを羽織った。
「最高だ」と言う声に嬉しくなった彼は、男から受けた冷たい苦言によるショックを忘れられそうだ。
ウェイターを呼び止め、ジョニィは財布を取り出し手渡した。
「お釣りはいらない……あ、スコール! 返しとくぞ!」
そして懐から、ラスコータが置いといたハズのお金を出して、彼のコートのポケットに突っ込んだ。今度驚いたのは、ラスコータの方。
「じょ、ジョニィ!? これは……」
「君に酷い事を言った、その分の償いだよ……全く、俺は何て的外れな事を言っちまったんだ!」
ジョニィはラスコータの肩に手を置き、優しい笑みを携えながら言う。
「君は良い医者だ!『医者』は称号じゃないんだ!」
そして彼の前へと走り出したが、出入口の前で立ち止まり大きく手を振った。
「君が先導しなければ、何処か分からないじゃあないかぁ!!」
声に目覚めたラスコータは、あたふたとしながらも謝罪混じりに彼の元へと走り出す。今の心の中は、緑の湿原にいるような清々しい気分であった。
ジョニィを車の助手席へと案内し、主人の男の許可を求めずに一緒に飛び込んだ。
またあの、冷たい目が向けられるのだが、男からはそれだけだ。狭苦しく緊迫した状況の中、静かな空気で車は走り出すのだった。
次回、シルヴィちゃん登場予定です。
お前、執筆状態おかしいよ……