スコルピト・C・ラスコータ先生の浮遊感   作:ランタンポップス

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始まりは、晩餐後であった。Three

 それから三十分が過ぎ、六時少し越した辺り。夜の顔出しが早いこの時期は、現在の刻では街灯無しで道も歩けない程暗くなって行く。

 隣街へ彼は到着した。彼の住む街と比べれば幾分か都会で、綺麗な街並みが広がる一等地である。

 ここまで来れば、ガラの悪そうな労働者の姿は見られず、お洒落な服に身を包んだ上層階級の人々が往来するようになる。頻繁に車が通るので道端へ寄り、建物の影を縫うように歩けば、目的地のレストランへ到着出来た。

 

 

「……慣れないよなぁ、こんな街……」

 

 煌びやかなドレスやスーツを纏い、上品な音を響かせて歩く住民たちの側では、まるで自分の服装こそ浮浪者か何かと見られやしないか。確認してみれば、黒のコートは型崩れを起こしている。帽子もまずは、言わずもがな。

 更には伸びた髪の毛がはみ出ている様は不潔に見え、合わせて人相が良いと言う訳ではないだろう。人とすれ違うたびにどきりと、心臓が張り裂けんばかりに動悸を起こしている。

 

 

 さっき通った人は、自分を憐れみの眼差しで見たな。

 そんな被害妄想がずっと、彼の後を追ってはしがみ付いて来るのだ。

 

「…………止め止め」

 

 一人で勝手に落ちて行く暗い悲しい妄想を、頭を振って薙ぎ払った。

 

 

「……遅れているから」

 

 今日は医大からの友人と晩餐ではないか。どうして暗い気持ちになれると言うのだ。

 そう思い直し、合わせて帽子も被り直したラスコータは、レストランの入口へと足を進めた。

 

 

 

 

 入口では、夫婦か恋人かと思われる二人の男女が、燕尾服のウェイターと口論していたのが目に留まる。

 

「満席なのか? おいおい、予約はしたんだぞ!?」

 

 ピッタリと決めた、スーツの男が困り顔のウェイターに詰め寄っている。背後に立つ、イブニングドレスの女性は不機嫌そうに腕を組んで立っていた。

 

「申し訳ありません、お客様。係の者が重複して予約を受けてしまい……お客様の前に席へ予約を入れた方がいたようでして」

「申し訳ありません、じゃあないよ。僕らはねぇ、一週間前から予約をしていたんだ。それを、そっちのミスで満席ですと言われて入れないとあっちゃ、納得なんて出来る訳がないだろ!?」

「大変、申し訳ありません。今一度、空席がないか係の者が確認しておりますので」

 

 男は舌打ちをかまし、不貞腐れたようにポケットへ手を突っ込んだ。

 すると女が彼に擦り寄り、話し掛けるのだった。

 

「ねぇ、ハリー? 入れないの?」

「……チェス、困った事になった。このレストランの馬鹿みたいな、不手際のせいで僕らの休日が台無しだ」

 

 態々と「馬鹿みたいな」を強調させたハリー、と呼ばれる男性の睨みに、ウェイターは居た堪れない気分にでもなったか畏縮している。

 合わせてチェス、と呼ばれる女性も憎々しい声でウェイターに話し掛けるのだった、

 

 

「はぁ、困ったわね。ちょっとウェイターさん? あたし達の前に予約入れたって人は、誰なの?」

「すいません、名前は言えませんが……総合病院の外科医の方だそうです。お二人の予約でして、お連れ様が遅れているとの事です」

「医者ぁ? あたし、医者って嫌い! 理屈っぽいし、つまらないし! あぁ言う人種って、勉強のし過ぎで性格がねじくれているのよ! 何よりあの、神経質って感じの顔が嫌いなの!」

 

 

 チェスのヒステリシスな言葉を聞き、すぐ側まで来ていたラスコータはギクリと、帽子を深く被り肩を震わした。自分が彼女の言う、嫌いな医者像に殆ど合致しているのが自分だからだ。

 そしてウェイターが言った、予約した『総合病院の外科医』とは間違いなく自分の友人である。二つの事がラスコータへ繋がったので、気の小さい彼は冷や汗を流さずにはいられなかった。

 

「申し訳ありません、もう少々、お待ち頂けないでしょうか……おや、そちらの方。ご予約のお客様でしょうか?」

「あ……」

 

 ウェイターの視線が、ラスコータを捉えた。

 ハリーとチェスがチラリとだが一瞥した為、動悸がまた起こる。口から心臓が出てしまいそうだ。

 

「あ、は、はい……えっと……予約……と、言いますか……連れがいるのですが……」

「お連れ様ですか?」

「は、は、は、はい……ジョニィ・ノージー……で、予約を……?」

 

 オドオドと予約した友人の名前を言うと、自身が話題にしていただけあってウェイターは「あっ」と呟き、笑顔を貼り付けて扉を開けた。

 先程とは真逆の表情へすぐに変えられる所はプロのようだ、自分にはとても無理だ。

 今でさえもラスコータは、ぎこちない作り笑いをウェイターへ向けている。変に思われていないかとか、そんな事だけで頭が追い付いていない状態だ。

 

 

「ジョニィ・ノージー様ですね? はい、お席でお待ちになられていますよ。ご案内致します……あの、すいませんお客様、少々お待ち頂けますか?」

「……全く、とんだレストランだ……」

 

 ウェイターが一時離脱に対して二人に畏まると、ハリーは苦言を零した後に「早く行け」と言うが風に手でしっしっと示す。

 立場上、彼の不遜な態度にもしなけれざならないが、丁寧に一礼。すぐ後に、ラスコータへ入店を促すのだった。

 

 

「ハリー、なんでお粧しして来たあたしたちより、あんなドブ川の側で寝ているような浮浪者風が先に入れるのよ」

「しっ。君は声が大きいよ、聞かれたら何されるか……」

「いいわよ、聞かれたって。ウェイターとの応対見たでしょ? 鬱陶しいくらいに言葉詰まらせて……マナーも悪いし、碌な人間じゃないのよ」

 

 明らかに自分に対しての悪口だと、被害妄想でも何でもなく、そのまま理解出来た。

 彼は神経質な医者が元より、医者にすら見れない訳である。堂々としたチェスの罵倒を背に受け、全身を刺されるような気分に苛まれながらも、先導するウェイターに縋るが如く付いて行く。

 彼は他人の目を人一倍気にする性格。今頃、「もう少し良い服にしたら良かった」とか、「あがり症なのは何でなんだ」など自己嫌悪に落ちていた。

 

「あぁ、今日は眠れない……」

「ん? お客様、今何と?」

「え? はっ、いや……何でもないです、大丈夫……です」

 

 気にかけるウェイターに平気だとアピールし、聞こえないように溜め息を吐いた。

 そう言えば室内なのにまだ自分は帽子を被っている、と気付き、すぐさま彼は中折れ帽子を頭から離す。ずっと被っていると、感覚が麻痺してしまうものだ。

 

 

 頭に浮かばせたのは、花売りの少女の笑顔。そして秋咲きの綺麗なクレマチス……今は懐に二本入っている。

 コートの表面から内ポケットに軽く手を置き、腹式呼吸による深呼吸をした。腹式呼吸は気分を落ち着けさせてくれると、思い出してはすぐにやるようにしている。

 鼻から十秒吸引、口から十秒放出。波の激しかった彼の精神線は、リズムの良い心拍数のように安定して来た。

 

 

「失礼します、ノージー様。お連れ様がお見えになられました」

 

 白い絹のクロスが乗った丸テーブルにてメニューを読みながら席に座る、短い金髪の男がいた。紺色のベストを着た、紳士のような格好の人である。

 この人物がラスコータの医大からの友人である『ジョニィ・ノージー』だ。

 

 

 

 

「あぁ、有り難う……遅かったじゃないか、スコール……あぁウェイター、食前酒を二つ」

「畏まりました」

 

『スコール』とは、彼の名前である『スコルピト』を変形させた、彼なりの愛称である。

 注文を聞き、お辞儀をして「ごゆっくり」と一言残して下がるウェイターの背後から離れ、彼と向かい合いにある椅子に着席した。目の前にはナプキンの乗った皿と、ナイフにフォーク。その奥に自分の帽子を置いといた。

 取り敢えずラスコータは早速、ジョニィに謝罪を入れた。

 

「すまないね、ジョニィ。診察が長引いた」

 

 人間苦手で口下手な彼ではあるが、十年来の友人に対しても同じと言う訳ではない。落ち着いた、優しい話し方が本来の彼の喋り声である。

 言うが、今の彼は少し嘘を言ったのだが。本当はちょっとした、道草を食ったからだろうに。

 だがラスコータは友人に嘘を言う分は普通に言える人間だ。それは彼との、親しみの裏返しでもあるのかもだが。

 

 

 嘘とは気付かないジョニィは(言えど、あまり興味ない話題だったのかもしれないが)そうか、と呟き、メニューをラスコータに手渡した。

 

「何を食べる? 俺は決めたから、後はお前が決めて注文……あぁ、眠い」

「……相変わらず、眠たがりだ」

「グッスリ寝て来たが、この時間帯は本当に来るんだよなぁ……土曜の診察は午前までだし」

 

 彼はこの街の総合病院で働く、外科医の先生。

 やはり大手の病院は、土曜診察は午前までか。明日の休息日に備え、仕事を早めに切り上げるのが昔からのジョニィである。

 彼はロングスリーパーで、一日に十時間は寝たい人間との事だ。

 

「平日は殆ど、休み無しだ。全く、お前が羨ましいな、スコール」

「……そんな事はない。まだ一年だけど、火の車だよ」

 

 

 ラスコータは土曜も全て、朝八時に開き夕方五時に閉める。開業したばかりなのもあるが、患者数は総合病院と比べれば少ない。だから必然的に稼ぎも悪い。その為に土曜日を返上する事にしたのだ。

 しかしそうだとしても、ジョニィが恵まれているとも言い難いかもだが。平日はまず、一日たりとも病院から出られないだろうに。

 

「……どうしようか」

「早く選んでくれ、空腹は身体に毒だ」

「満腹だって毒さ……君は、何を頼むつもりだい? アラカルトだろ?」

「ん? あぁそうだ。フルコースはいつもソルベで食べる気を無くしてしまう、俺の中で甘いものはデザートなんだよなぁ……おっと、頼むつもりの品だったな。仔羊のローストと、魚介のスープ」

「それにする」

 

 ジョニィは口を開けて大笑いした。

 

「はっはっはっ!! 昔から優柔不断な奴だった! 自分で選ぶなんて、そうそうしなかったもんなぁ! 覚えているかい? ベーグルの店、いつも一分間は店主の前で考えていた!」

 

 

 大声でそう言うものだから、ラスコータは恥ずかしくて下を向いた。

 ジョニィは昔から絡みやすそうな軟派な顔立ちと、逞しい身体付きのイメージそのままに声の大きい人であった。無駄話とジョークが大好きで、喋り出すとコメディアンが如く止まらない男だ。なので彼の苗字と名前をひっくり返して、『ノイジー・ジョニィ(喧しいジョニィ)』なんて揶揄されていた程。

 

 

「昔から」と言うが、彼も昔からそのままで変わっていない。

 ラスコータは周りの反応が無い事を確認すると、顔を上げる。

 

「大声で言うんじゃないよ、全く!……あ、食前酒が来たから、一緒に頼んでしまおう」

 

 配膳係がワイングラスに入ったスパークリングワインを二つ、持って来た。

 ジョニィがさっき注文したものだ、配膳係は二人の席で止まる。

 

「食前酒をお持ちしました」

「有り難う、貰うよ……あと、アラカルトメニューで仔羊のローストと魚介のスープを二人前。早い所頼むよ」

「畏まりました」

 

 テーブルに置かれた二つのワイングラスをジョニィが持つと、一方をラスコータに渡した。

 注文を受けた配膳係はお辞儀をし、去って行く。

 

 

「所でスコール、帽子は取ったのにコートは脱がないのかい?」

「え?」

 

 パッと、自分の身体を見てみたら、黒い皺のコートをまだ羽織っていた。

 

「……あ、いけない」

「はっはっは! 慌てん坊が!」

 

 馬鹿みたいな話だが、店前のカップルの話による動揺で目一杯だったのかもしれない。すぐにラスコータは立ち上がり、コートに火が点いたかのような焦りを含ませて袖口から腕を抜く。

 

「入口で誰か怒鳴っているようだが」

「…………店のミスで重複予約されたカップルだよ……その予約した席はあろう事か、僕らのこの席なんだよね」

「はっは! そりゃお可哀想に!」

「一週間前に予約したって」

「残念だが、俺は一ヶ月前に予約した……それで重複させるってのも、とんでも無いんだがな!」

 

 

 用意周到とも言う彼の進行上手な様。色々と、羨ましくなるもんだ。

 

 

 しかしあのカップルを思い出してしまったばかりに、二人の罵倒が鉄に錆が浮くようにジワリと現れる。それを剥ぎ取るように、コートを脱いでしまった。

 白のシャツに黒いベスト姿が露わになる。

 コートを椅子の背凭れにかけて、安心したかのようにドカリと、再度着席した。

 

「ここはドレスコードの基準は無さそうだけれどね。でも、必要最低限マナーを守るのが紳士だろう。ルールがないからマナーもないなんて、暴論だからな」

「マナー……僕にとったら、煩わしい鎖のようだけど」

「お前はお洒落に無頓着だからなぁ……まぁ、流石に今回は粧して来たっぽいが、医大の卒業パーティにシャツ一枚だった人間だしさ!」

「ジョニィ、止めてくれよ僕の失敗を大声で言うのは……折角忘れかけていたのに。大学のパーティだから、気軽で良いかと思ったんだよ」

 

 膝に手を置き、縮こまるような姿勢でジョニィを下り目で睨んだ。

 すると彼は「悪い悪い」と笑って言った後、不意に出たあくびを手で覆い隠した。彼はロングスリーパー。

 

 

 

 

「さてと、昔話は兎も角だ。久し振りに会ったんだし、お互い医者としての愚痴があるだろう? 今夜中に出し切って、休日は休み、またその翌日に備えようではないか」

 

 ワイングラスを掲げ、まるでパーティの司会でもするかのような、慣れた言葉遣い。医師の集いに参加しているのだろうか、総合病院だからそう言うのは多いのだろう。ラスコータもグラスを掲げ、彼に合わせた。

 彼とは医大を卒業し、医者となり、それぞれの道を行き分かれたとは言え、文通しあう仲である。

 

 

 歳二十四で互いに卒業し、研修医として本物の現場に触れ、そして本物の医者になれたのは二十六の頃。

 ラスコータはそこから二年はある病院に勤務していたが、辞職。郊外にある小さな街で診療所を開業したと言うのが、『今』である。

 

 

 対してジョニィは大手の総合病院に勤務。外科医としての才能があったお陰か、研修医卒業後も同じ総合病院の勤務医として働けている。

 

 

 

 

 二人は性格も真逆で、今いる立場も似ている所が少ない。どうして今でも『友人』と呼べる程の仲になれているのか、理解に苦しんでいる。

 

「愚痴ね……いや、僕は……殆どないかな」

 

 食前酒を口へ持って行き、喉にちびちびと流し込んだ。

 弾けるような感覚が、喉を伝って行く。この炭酸が食欲を増幅させるのだ。

 

「ない? ない訳ないだろぉ、独立して開業医になって、まだ一年だろう?……お前が開業なんて聞いた時は驚いたが……やっぱり募る事は絶対にあろうに」

「どうしてそう言えるんだい?」

「こっちには、一生分の愚痴で腹の中がパンク寸前だからな!」

 

 そう言うと彼はまた笑った。

 総合病院の勤務医は、本当に大変だ。昼夜問わず働かされる、ラスコータも経験済みである。そう考えると、独立している自分は気楽なのかもしれない。

 

「院長がダイヤモンドクラスの脳みそでよ、手術の事に意見を言ったら全否定しやがる! でも俺は、それに対して『申し訳ありませんでしたー』と言って引き下がるしかない。だって何だって、自分の評価は他人の評価だからな! どんだけ人一倍勉強したって、試験を休んだら一貫の終わりだからな!……で、いざ、院長の言葉を遵守してやって手術をするだろ? どうだと思う? 俺の言った通りで、院長が病名、外しやがったんだ! 俺は知っていたから動揺せず、臨機応変に対応して成功したがね。なのに読み間違えについての責任を俺らのチームに押し付けて、自分はさっさと患者から感謝を受けてニコニコと送り出しだ! 全く、馬鹿にしている!」

 

 食前酒がオイルの役割にでもなったのか、饒舌になったジョニィは早口で愚痴を捲し立てた。

 表情は真っ赤に染まり、両眉を吊り上げて本気の怒りを見せる。ラスコータは苦笑いをした。

 

「へぇ、それは大変だったね。でも良く、対応出来たもんだ」

「そりゃまぁ、俺だからよ!」

「あはっ! 君らしいよ!」

 

 彼の自信の高さは、本当に見習いたい所だ。

 話はまだ続ける、『ノイジー・ジョニィ』の本領発揮と言う訳だろうかと、ラスコータは小さく溜め息吐いた。

 

 

「最近やって来た研修医がいんだが、無能だ! 言わば、何だ? そうだそうだ、金の力で医大を卒業出来たーって奴だよ! 注射が壊滅的に下手って所でその無能加減が分かるだろう? その癖してエリート風吹かしやがって! 態度だけなら名門大学の名誉教授だ! 一回説教してやろうと思うな、『医者は威光でもファッションでもない』って!」

「かなりご立派な身分なんだろうね、その子」

「俺らなんか、遊ぶ暇無しの勤労学生だったろうに! 良く一緒に金を持ち寄って、街で一番安いベーグル屋を探し歩いたもんだ!」

 

 そんな事もあったねと、ラスコータは思い出に浸っていた。

 本当に学生時代は胃に穴空くかと思う程大変で、それでもって楽しいと思えたような奇妙な感じだ。喉元過ぎれば熱さ忘れるとあるが、確かにそんな風だと学生時代を捉えている。

 

「そんな僕らが、今は……こんな立派なレストランにいる。素晴らしいじゃないか」

「確かにそうだ! はっはっはっは!!」

 

 何とか彼の不機嫌を逸らせる事が出来たなと、ラスコータはホッと一息吐いた。このまま行っていれば怒鳴っていたかもしれない、彼は極度の情熱屋だ(その情熱が故に、有能な外科医となっているのだが)。

 

 

 

 

「それで、そっちはどうなんだ? 手紙じゃ、どんな様子か書いてくれないだろ」

 

 ジョニィのその問い掛けに、ラスコータは一瞬だけ表情を歪めたのだった。

 

「……ぼちぼちだ。患者を診て、症状を説明して、治して。内科医だから手術はないけど、何ら変わらないさ」

「へぇ、そうか。何か、楽しみ……とかは? 俺は最近、狩猟に行くんだよ、今度どうだ?」

「遠慮するよ、銃なんて持った事ないし。そう言うのはないけど、満たされているよ。あぁ……このまま、この状態が続けば良いなって」

 

 

 そう言うと、ジョニィの目が真剣なものとなる。

 突然の変化に動揺したのはラスコータで、食前酒を無意識で唇につけた。

 

「……お前、本当に満たされているのか?」

 

 彼からの妙な問い。意味が分からない。

 この時は「またか」と鬱陶しげにラスコータは思っただけだった、ジョニィは偶に説教臭くなる。

 

「満たされている?……どう言う事だい、僕は現状に満足しているよ」

「スコール……言っておくが、人生を『医者だけ』として全うしようとするなよ」

「君の問いは哲学的だ、噛み砕いてくれないかい……?」

 

 ジョニィは背凭れに深く凭れ、熱い眼差しをラスコータに注ぎ続けるのだ。

 ラスコータは驚いた、少し見ない間にジョニィの風格は猛々しいものとなっていたからである。目の前にいるこの同い年の友人は、自分より何年も人生を積んだ、大教授のようだった。

 

 

「俺らは青春を、殆ど勉学に費やした。人生で一番活力のある二十代を、『医者の卵』として全うしてしまった。もう俺もお前も三十路の手前だろう……大抵ここまで、遊びを知らずに生きて来たら、後に死ぬまで五十年余りを『労働の奴隷』として全うしてしまう事になってしまう。そこには愛も無いし、疲労した顔を皺に刻み付けた死者のパレードが如く」

「……ジョニィ。僕は別に、何とも……」

 

 反論してやろうと口を開いたが、ラスコータの小さな声はジョニィの大きな声に包まれ、豆のように潰された。

 

 

 

 

「医者を……いや、医者に限らず、人間として労働に人生を費やそうとするのなら、お前は『医者に向いていない』」

 

 

 それを聞き、ラスコータは自分でも驚く程の大きな声で反論に入った。

 

「な、な、何だって!? 心外だなぁ、ジョニィ! 僕は、現状に満足している!」

「その現状を見渡してみろ。彼女はいるか? 趣味は見つけたか? お洒落をしてみたりするか? 仕事以外に楽しみはあるか?」

「…………」

 

 ジョニィの質問に、ラスコータはとうとう口を閉じた。

 

 

 思えば医大以前より、彼の人生には『遊戯』が存在しなかった。

 臆病で、人見知りで、ナイーブな性格が故に一人を好んだ。友人も少なかった……いや、いなかった時だってある。

 何も無い状態で唯一誇れたのは、『勉学』だ。一人になれて、尚且つ出来れば出来る程自分としての価値が表れるようで、彼は中毒に陥ったかのように勉学に明け暮れた。

 

 

 気付けば父親から『医者』を目指すように言われて指標を決められ、学費の為に必死に働き、青春を食い潰した。

 三十路前の今、彼は開業医として人々を診察して来た。

 医者になれた、これはある種の成功のハズだ。

 

 

 

 

 所がどうだ、思い返してみろ。

 元々のナイーブな性格は患者でさえも遠ざけ、仕事が終わればソファの上で考え事をし、空腹を満たしたら眠る。そして翌日、同じ事を繰り返すのだ。

 休日は特にだ、ぼんやり過ごして、平日よりも記憶が無い。

 

 

 何かを得て生きていたと、思っていた。

 何も無かった。

 

 

 ラスコータは、ジョニィに気圧されたかのように椅子へと軽く凭れた。

 

「……ない」

「…………」

「……あぁ、ない! 何も無い! しかし言ったろ? 僕は満たされている!」

 

 半分ムキになり、考えもなしの感情論で吠えた。

 そんなもの、目の前の彼が言い返せない訳がないと言うのに。

 

 

「……ルーチン的に潰して行く生活は、効率的でとても楽だ。だけど、そこに魂はあったもんじゃないだろ? 人間的に生きなくては駄目だ」

「……生憎、これこそが人間的だと思うけどね」

「スコール、君は本気で医者をしていないんだ」

「……何だってんだよ? 診療に関しては手を抜かない」

「そう言う技術的問題じゃない、人間的問題だ」

 

 彼は深い溜め息の後、ラスコータにぶつけるのだった。

 

 

「今分かった。君は医者を隠れ蓑にして、自分と現実から逃げている『逃避者』なんだ。だから君は、『満たされた表情』で医者を全う出来ない……医者を治す人としてではなく、『独りぼっちの口実』に仕立て上げているんだ」

「…………」

「……総合病院の上層連中は、みんなそんな表情さ。医者を『紋章か勲章』のように捉えてやがんだよ。そんな人間に、患者が信頼を寄せると思うかい? 真に仕事を楽しんでいる人間は、愛する人を支えにし、信頼を得て行き、時に遊び……何より自分と仕事の本質を忘れないでいる人間の事だ。医者のいない街で医者をしているのは素晴らしいが、それさえも独りが良いからなんだろ?」

 

 

 思えば、『医者としての今の地位』は、独りでいたい行動の延長線上のような気がして来た。

 医者としてまだ二桁行っていない。だが年齢は三十年を重ねた。

 三十年、独りを求めた三十年。独りは気楽だと思ったが、独りの人間が自分に気付ける事が出来ないのだ。だって人は、他人だけの知る自己が存在し、自身では絶対に辿り着けない自分が存在するからだ。

 

 

 子どもの時から変わっていない。そんな気がした。

 身長も伸びて体重も上がった、髭も生え始め顔立ちも大人になった、知識も豊富だ……だが本質的な深い所の自分は、子どもの時から時間を止めているのだ。

 憶病で人見知りでナイーブな少年時代の自分と並べてみろ、瓜二つだろうが。

 

 

 

 

「……ご馳走様でした」

 

 財布を取り出し、ラスコータは自分の食事の分、お金を取り出してテーブルに置いた。

 ジョニィはギョッとし、彼の曇った眼差しを見つめたのだ。お金は丁度ではなく、お釣りが出て来る額。

 

「スコール、俺は君を傷付けるつもりはなかったんだ……ただ、その……あぁ、この口め! 言いたい事を閉扉出来ない俺の口め! すまないスコール、俺は心配だったんだ……人間は孤独になれる唯一の生物だ、一匹狼なんて大嘘だ」

「分かっているジョニィ、分かっている」

「だが自然の摂理なんだ……神様がそうしたんだ……いつまでも独りぼっちでいるのは、危険なんだ……群れと逸れてしまった、仔羊のように!」

 

 立ち上がってコートを羽織り、帽子を被る。元の自分へ逆再生した。

 料理がやって来る前に、立ち去りたかった。ジョニィにお辞儀をし、ラスコータは踵を返して出口へと歩き出す。

 彼の寂しい後ろ姿を見るだけしか出来ず、後悔したような表情で俯くジョニィはもう、止めようとは思っていなかった。その術を、人一倍にある知識の海から取り出せなかった。

 

 

 出口ではあのカップルはもういない、店内にいたのを見なかったので帰ったのだろうか。馬車が通り過ぎる秋夜の街へ、彼は闇に捨てられたかのように普通に、出て行くだけ。

 

「有り難う御座いました、またのご来店をお待ちしております」

 

 ウェイターが送迎をする。入った時とは別人の、若い男性であった。




サブタイトルに一貫性がないのは、心情と状況変化により書き直した、と言う意図があります。
つまりですねぇ、人の感情はコロコロ変わる様をタイトルの時点で表現したかったとです。面倒な拘りですが、お付き合い下さい。

失礼しました

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