【晶破現象】
『お前のことを、絶望に突き落とすものだよ』
ジルは、動けなかった。
告げられた言葉が非現実的過ぎて、己の耳を疑ったからもある。なにより、その何も映さない瞳が恐ろしいと本能的に思ってしまったからだ。しかし、トアの無感動なその瞳こそがその言葉は嘘ではないと告げている。
…ふと、その瞳が瞬き。普段の小波のような静けさを感じさせる瞳に戻った。
「あんまり怯えないでくれるか?」
「え…あっ、ごめんなさい、私そんなつもりじゃ…っ」
ため息をつきながら呆れたように言うトアにジルは慌てて言い放つ。けれど、そこからの言い訳を見つけられずただただ口を閉じてトアを見つめることしか出来ない。
そんな沈黙を破ったのは、招かれざる者の遠い声。
「…っ!?何…?」
「魔物の遠吠えだろ…思ったよりも早いな」
その、いっそ冷たいと思うほどに冷静な声音に…ふと、ジルは思った。
トアの視線の先、そこには、ジルの帰るべき場所が、ある。
「っ、女将っ!!!」
「なっ、バカ待てっ!」
考えるよりも体が先に動いた。
決して冷静とはいえない思考が渦巻く中で必死に走る。
(後ろで声がする。ひどく、焦りを含んだ声。…あぁでも、そんな声などにかまっている暇なんてない。あの優しい人を助けなければ。幼い時、名前以外全てを忘れ、ただ死ぬのを待つしかなかった私を助けてくれたあの温かい人を助けるために…救うために。)
ジルは、走る。
視界が曇り、死に急いだとしても…
瞬間、ジルの頬を掠めた灼熱。
そして
「ふざけんのも、いい加減にしろ。」
頬から流れる生暖かい雫と痛みに攻め立てられるように後ろを振り返る。
そこには赤い髪をなびかせながらこちらを静かに見つめる人がいた。
(…あれは誰?…ううん、知ってるはず。だって、あの人は、)
「貴方は、わた、しの…」
その時、頬の傷に何かが触れた。
「いたいっ!?」
「なに混乱してんだよ。馬鹿」
そこそこの力で触れられたそこは、しかしすぐに痛みが引いていった。
不思議に思ってトアのことを見る。案外近くにあるその瞳。それにほんの少しだけジルは体を震わせた。トアはそれでも構わずジルのことをまっすぐ見つめ、言う。
「いいか?晶破現象ってのは平たく言えば物質が結晶化することだ。晶雪(しょうせつ)と呼ばれる雪に触れるとなっちまう。それが生き物であろうとそうでなくても、だ。もちろん人間も含めてな…だがな、その中でも一番厄介で特別なものがある。それは魔物。…俺がもう少し遅かったら、お前死んでたぞ」
その言葉に、息が詰まった。
「ごめんなさい…」
トアの言う通りだった。冷静さを失ったあの状態のままだったら最悪の結果になっていた。止め方がどうであろうと、トアが目を覚まさせてくれたことには感謝しなければならない。
瞳を伏せ、顔を俯かせるジルにトアは何も返さず彼女の手を取り歩き出す。
ジルは黙ってそれに従った。なぜならトアが目指す方向にはジルの故郷…宿屋ローゼスがあるからだ。
しかし、その歩みは突然終わりを告げる。
手を引かれながら、無意識に動いていた体は突然の停止に反応できずトアの背中にぶつかることで強制的に動きを止めることになった。
トアのその静止を不思議に思い、俯かせていた顔をふとあげると、視界いっぱいに透明の輝きが映る。
それは、酷く美しかった…残酷な程に。
「あっ、あアぁアあアあああア…っ!!!」
ジルは、泣き叫ぶことしかできなかった。
ジルが見たのは、
「これが、晶破現象…クリスティアだ」
宿屋ローゼスがある小さな村を簡単に飲み込んでしまった、大きな大きな一つの水晶だった。透ける水晶の中には、恐怖に歪んだ人々が映っていた。
美しく、残酷な程に………。
ー泣き叫び、己のことをただ責める少女のことを見つめる少年はただ、告げた。
「助けたいか?この場所を、この命を」
少女の体が震える。
「戻りたいか?お前の幸せの中に」
力なく地面に置かれていた手がゆっくりと握られる。
「なら…俺とこい」
俯かせていた顔を少女はゆっくりと上げた。
そして、ただ告げる。
少年は、少女が伸ばした手をしっかりつかんだ。