「トーアー!ほら早く早く〜」
「はいはい」
太陽が天高くその姿を表す頃、ジルとトアは二人で村の近くの水場に遊びに来ていた。
「ていうかなんでまた水場?この前もそうだっただろ」
「だって、ここならトアの『あれ』見られるでしょ!!」
「…そーですか」
ジルがいう『あれ』とは、ローゼスに泊まり始めてから三日目の日の時にやったあるトアの特殊な力ことである。
その日は生憎の雨で、酒場の方もいつもの喧騒が嘘のような静けさだった。だからといって、外は雨。出かけて遊びに行くということもできず、ジルは暇を持て余していた。
そんな時だった。
「そんなに暇ならいいもん見してやるよ」
珍しく、機嫌がいいトアに連れられてローゼスのオープンテラスに行く。余談だが、このオープンテラスは店の客にもかなり評判がよく人気だ。
しかし、雨が降っていてはそれも逆転してしまう。ジルは傘をさし仏頂面でトアに抗議した。
「トア…こんなところにいたら濡れて風引いちゃうわ!中に入りましょう?」
「ばーか、この雨がいいんだよ」
しかし、そんなジルの講義を無視した上にあろうことかトアは傘もささずにパッと外に飛び出した。その姿にジルは焦り、声を張り上げようとして、逆にその息を飲み込んだ。
「っ!!…トア…?それ…」
「来いよ。あんたは『特別』に招待してやる」
そう言って手を伸ばすトアは、音を立てながら降る雨に全く濡れていない。その姿に戸惑いを隠せずに両手で傘の持ち手をギュッと握ると、トアが初めて穏やかに微笑んだ。
「怖くないから…おいで?」
雨の中にいるトアはとても綺麗な上に優しい。ジルは誘われるようにその手をとり開いたままの傘をそっと手放した。けれど、雨はジルに降り注ぐことはなく、まるで守るように彼女を覆う。雫の膜で覆われたその光景はとても幻想的に映る。
「すごい…綺麗」
思わず言葉をもらすと、トアはやはり穏やかに微笑み。スッとジルの手を握っている手とは逆の手を横に払った。
すると、まるで雫がトアに従うようにまるで踊るように舞い落ちる。それは時に動物などの形も作りジルの目を奪う。
「あれ、うさぎ?こっちは馬だ!…わぁ…すごい!綺麗っ!!」
「お前、ホントそればっか」
その様子にクスクスと笑ったトアに、ジルは笑って「だって本当なんだもの!」と返す。するとトアは黙って優しく微笑んだ。
「…こんなことになるんだったらあんなことするんじゃなかった…らしくないことはしないもんだな」
「えー!!また見たい!見せてっ」
「気が向いたらな」
そんな幻想的な時間をジルはいたく気に入ったらしく、この頃遊びに行くのはもっぱら水場の近くか大きな湖になった。例に違わずトアが今歩いている道は、村から離れた湖がある場所だ。
上機嫌のジルに溜息をつきつつ歩く事数十分。予想通り湖についた。
「さぁ、トア!見せてお願い!!」
「たくっ…仕方ねぇなぁ」
瞳をきらめかせて微笑むジルにトアは結局はいつも折れ、ジルのためだけの水上のステージを披露する。
生暖かい日常。
穏やかな時間。
そして、ジルの輝くような微笑み。
それを見るたびに、いつも蘇る記憶がある。
隣で頬を染めながら楽しげに笑うジルの気配を感じながら、トアは魔術に集中するフリをして瞳を閉じ思考の海に沈む。
瞳を閉じれば広がる、あの赤。
全てを飲み込み等しく灰にしていくそれ。
その中から不意に伸びてくる焼け焦げた無数の腕。しかし、それは一定の距離を保ち、それを見つめる「彼」には決して触れることは無い。
皮膚だったものがずるりとそれから零れ落ちていく。それを「彼」が無感動に見つている。
そんな「彼」を責めるように耳に直接声が響く。
「オマエガ望ムノハ、コンナコトジャナイ」
「忘レルナ、オマエガ、望ミ。果タスベキコトヲ………」
それでも「彼」は…トアは。それらを無感動に見つめているだけだった。
そんな思考を打ち消すように、不意に淀んだ鈴の音が耳に響いた。
これは、合図。あの、呪われた雪が降る…
「っ!?」
「?、トア?」
水晶が割れるような音を立てながら破裂した雫たち。その様子にジルは驚き、反射的にトアを振り返る。その先には顔を険しくし、空を見上げるトアの姿があった。
そのどこか悲しみを漂わせる瞳に不安にって声をかけようとした瞬間。強く腕を掴まれ、引き寄せられる。抵抗する暇もなかった。そのまま覆うように抱きしめられる。
そして、ただ一言。風に流されそうな声で言われた。
「…ごめんな」
そのどこまでも痛みをこらえるような声音を、どこかで聞いたことがあるようだと、何故か暗くなっていく視界の隅で感じた。
倒れ込んでくるその肢体をそっと抱き上げる。瞳を閉じて眠っているその顔は、どこまでも穏やかだ。
彼はその寝顔を暫く見つめた後、ふっと空を見上げた。白く、いっそ無垢な色をしたそれは、きっとすぐにこの少女を絶望の底に落とすだろう。
「もし…」
静かに呟かれたその言葉は続くことはなく、彼らを守るように湧き出る水の中に飲まれていった。
遠くで優しい歌声がする。
懐かしいと感じるその声は、しかしどこで聞いたものなのかわからない。
それでも覚えている。
この、心が、体が。
覚えてる。
ふわりふわりと雪が降る
サラリサラリと雪が降る
全てを隠すように
全てを覆うように
全てを 壊すように
死の雪が 降る
ゆっくりと瞳を開けると、視界いっぱいに広がる白い空とその白さに反射する煌めき。
そして、優しい歌声で奏でられる、どこまでも狂気的な歌。
「わた…し?」
「あぁ、起きたのか…思ったより早かったな」
自分自身がおかれた状況が理解出来ずに呟くと、横から声をかけられた。素直にその声の方を向けば肩膝を立て空を見上げて座るトアがいた。
「さっきの…歌」
「歌?…あれか…わりぃ、うるさかったか?」
「違う…綺麗だった」
その言葉に一瞬、虚をつかれたように言葉を失うトアを不思議に思って起き上がろうと手に力を入れた時、触れた地面に違和感を覚えた。
冷たい。まるで、氷に触れているように。
ハッとして上体を起こし地面を見ると、そこにはあるはずもないものが広がっている。
「…こ、れは?」
「初めて見るのか…聞いたことぐらいあるだろ?」
ジルは、体を震わせた。それは一瞬にして変わってしまった世界に対して恐れを抱いたからではない。
ジルが、恐れを抱いたのは…
「これは晶破現象…」
「お前のことを、絶望に突き落とすものだよ」
恐れを抱いたのは、トアの。
どこまでも無感動に光る、その瞳だった。