夜、肝試し。
由比ヶ浜達は衣装に着替え、俺は材木座と肝試しのルートの安全チェックを行う。
夕方でも明るい真夏日でさえ、この森の中で七時前となるともう真っ暗だ。
懐中電灯で時折材木座の顔を照らしながら、先へ進む。
まぁ安全チェックというのはあくまで建前で、これから行われるある計画の為の下見だ。
ひたすら暗い森の中を進む。
無表情で、心には何もないかのように、ただ歩く。
何も言わず、ただライトを片手に。
木々を通過する。
そのうち、昨日留美と一緒に雨をやり過ごしたあの木が見える。
それを一瞥して、また歩く。
「……兄貴、ほんとにやるんですか?」
おっかなびっくりというように、材木座が尋ねてくる。
なんだかその声色からは、少しばかりの躊躇いが感じ取れた。
俺は顔だけ材木座に向け、眉をハの字にして笑う。
「だって依頼だもん、やるしかねぇだろ」
そう言うと、材木座は言いにくそうに、
「兄貴、あんまやりたくないんでしょ?」
というので立ち止まり、口をすぼめて材木座をちょっと睨む。
余計な事を詮索されるのは嫌いだ。
自分の事も、仲間の事も、知らない方が良い事だってある。
そうやって距離を取って生きてきた人間だから。
懐中電灯で材木座の腕を軽く叩く。
いてっ、という材木座の腹を軽くつついた。
「うるせぇなぁ、いいから黙ってろお前この野郎」
「分かりましたよ……」
若干不服そうな材木座。
それを理解しつつ、俺たちはとある地点へと到着した。
俺と材木座は周りを見回し、確かめる。
頷いてから一言言った。
「ここらでいいか」
その場所は、肝試しの折り返し地点の手前だ。
周りは木に囲まれ暗く、通ってきた獣道よりもさらに狭い。
ここならば多少大声を出してもスタート地点にいる奴らには聞かれる心配もないだろう。
俺の計画には打って付けの場所に違いなかった。
その時、携帯が振動したため、ポケットから取り出す。
小町から、あと数分で肝試しが始まるから戻ってこいとのことだった。
「戻ろっか、な」
「はい」
そう二、三言葉を交わして材木座と来た道を引き返す。
同じ道をたどっているだけなのに、やたらと背中が重くなるのは何故だろうと、自問しつつ、本当は理由が分かっている自分を嘲笑した。
肝試しが始まる。
俺と材木座は何かトラブルか起こらないか監視する係だ。
草の中から小学生たちをじっと見つめるこの二人は、大人に見られたら即事案発生だろう。
俺だって好きでこんな事してる訳じゃないが、仕事なので仕方ない。
時折最近の小学生はエロイとか抜かす材木座を引っ叩きながら黙々と仕事をこなしていた。
しっかしまぁ、由比ヶ浜の服……なんだありゃあ。
悪魔のつもりなのだろうか。
あれじゃどっかのコスプレ喫茶じゃねぇか。小学生にも怖がられていないどころか無視までされる始末。ちっぽけなプライドが傷ついてしまったのか、ちょっと泣きそうになっている。
小町は化け猫か……我が妹ながらあっぱれだと思う。
可愛いよ小町。
そして彩加。
魔法使いの格好で、あの中では地味だが一番かわいい。
やっぱ彩加。
「兄貴、何戸塚の叔父貴ばっかり見てんですか。ちゃんと仕事してくださいよ」
「てめぇこのやろ、お前に言われたかねぇよ」
膨らんだ腹を小突く。
やめてくださいよ、という声が草の中に響いた。
と、そんな時。
「ちょっと、あなた達うるさいわよ」
後ろから、着物を着た雪ノ下が姿を見せたのだ。
あまりにも似合っているその姿に、俺は一瞬固まる。
元々清楚系美人なのは知っていたが、まさかこんなに似合うとは思っていなかった。
恐くはないが、その視線だけで凍らせられそうな点でも、雪女はぴったりに違いない。
「……にあってんなお前」
ぽろっと本心が出る。
思わず言われた褒め言葉に、雪ノ下も目を逸らした。
「そ、そう……」
しばらく沈黙がこの場を支配する。
いや、実際には由比ヶ浜のアホで悲痛な叫びが響いているのだが。
「兄貴、なに青春っぽいことしてんすか。似合わないっすよそう言うの」
小馬鹿にしたように材木座が笑う。
無言で、割と思い切り頭を引っ叩く。
いい音が森に響き、今まで怖がっていなかった小学生たちが体を震わせた。
そんなこんなでしばらく経ち、ようやく小町からメールが来た。
内容は、「いくよー」だけ。
それだけでも、十分。俺は立ちあがり、頭を押さえてまだしゃがんでいる材木座の足を蹴っ飛ばす。
「ほら、行くぞ。早くしろバカ野郎」
「ちょっと、兄貴待ってくださいよ!」
歩き出す俺の後を追う材木座。
ポツーンと、一人残される雪ノ下。
らしくない。
まさかこんな高校生みたいな感想言っちまうとは。
いや俺高校生だけども。
なんか恥ずかしくて、俺は足早にそこを離れる。
肝試し最後の組が出発した。
この組の中には、もちろん依頼主である留美がいる。
数人のグループであるはずのこの組は、あからさまに留美一人を少し後ろに離して山道を進んでいた。
楽しそうな数人に、暗い表情の留美。
そのコントラストが、嫌でも目に付く。
そんな光景を俺と材木座が草むらの中から見つめる。
「だよね~……あ、お兄さんたちだ」
ふと、先頭の少女が進行方向に何かを見つけた。
それはあの戸部と三浦。
その表情は、どこか苛ついているように見える。
とても子供の前でするものではない。
「お兄さんたち普通の格好じゃん!恐くなーい」
「だっさー!この肝試し自体全然怖くなかったよね~」
「高校生なのに頭わる~」
自分たちに手を出さないと分かっているからこそ、少女たちは図に乗る。
その言葉遣いは、とても来年中学へと上がる者のそれではない。
あ?と、戸部の低く威圧する声が響く。
しっかしあいつほんとに悪そうだなぁ。
「あんたらさ、ちょっと調子乗り過ぎじゃない?」
次に口を開いたのは三浦。
ヤンキーみたいな見た目にヤンキーみたいな口調。
小学生には効くに違いない。
現に、先ほどの気のいい高校生から豹変した二人を見て、小学生たちは縮こまっている。
二人が少女たちに詰め寄った。
「俺ら高校生だかんな?あ?タメ口聞いてんじゃねぇぞコラッ!」
「なに、優しくしてくれるから大丈夫だって思っちゃった?」
「てめぇら舐めてんじゃねぇぞこの野郎」
ガンを付け、口調を荒げる二人。
順調だった。全部計画通りだ。あんなにガラの悪い役が似合うとは思っていなかったが。
小学生たちは完全に畏縮している。留美を除いて。
「ていうかさ、さっきあーしらのことボロクソ言った奴いたよね?誰?」
問われ、俯きながらボソッと謝る小学生。
「誰がやったって聞いてんだよ」
ガンっと木を蹴りつける三浦。
蹴った時にちょっと痛そうだったのはなんとかばれていないようだ。
「おら言えこの野郎!」
「やっちゃいなよ。こいつら生意気だしさ」
小学生たちの事を囲む三浦と戸部。
ゲーセンで小学生たちと遊んでたやつには見えないなぁ。
と、戸部が振り返り、暗闇の中へと声をかける。
「葉山さんやっちゃっていいっすか~?」
そう問われ、暗闇から姿を現す葉山。
その表情には、先ほどまでの優しさはない。
葉山は氷のように冷たい顔で提案する。
「こうしよう。半分は残れ。半分は行っていい。誰が残るかはお前らで決めていいぞ」
その提案が出た瞬間、少女たちがざわつく。
だが仮にも一つのグループである少女たち。
「すみませんでした」
その内の一人が葉山に謝る。
が、
「誰が謝れっつったんだコラ、とっとと選べよ」
ノリノリで、悪役に徹しながら言い切った。
戸部みたいにオラついてるのもあれだが、こういう普段は優しそうな奴が切れてるのがまた怖いもんだ。……いつかの片桐みたいに。
「おら選べこの野郎!」
「ビビってんじゃねーっての!」
葉山組の二人が野次を飛ばす。
追い詰められる少女たち。次に起こることは容易に想像できた。
「早くしろよ誰が残んだっつってんだよオイ!」
戸部が詰め寄る。
隣りで材木座が事案だな~、なんて言っているが無視する。
そもそもあれが事案なら、グルの俺らも終わりだ。
「……鶴見」
ふと、追い詰められた少女が口に出す。
「あんたが残りなさいよ」
「そうだよ、あんた残りなさいよ」
幼い子供のなんと醜いことか。
少女たち全員が、留美を指名した。
留美はあきらめたように俯き、前へと出る。
そろそろ俺らも仕事の時間だな。
「あなたの出番ね、比企谷君」
ふと、いつの間にか来ていた雪ノ下が言った。
由比ヶ浜も、その表情を強張らせる。
「じゃ、行こっか」
「へい」
材木座と共に立ち上がり、葉山たちの下へと向かう。
あいつらばっかり嫌な役をやらせるのは、俺の主義ではない。
たまには一緒に泥をかぶろうじゃないか。
人間とは、弱い生き物である。
本当に追い詰められれば当然のように他人を犠牲にするし、裏切りもする。
平気で殺す。それが女子供であってもだ。
それを見てきた記憶がそう結論付けているのだから間違いない。
だから、あの子たちを追い詰める。
追い詰め、人間関係を破壊する。一度壊れた関係なんて治りはしない。
ただ朽ちていくのみ。
それに、だ。
人間、変わって明るくなろうなんて事がすべてではない。
大人は言う。自分が変われば世界は変わる。
だがそれは、自分が変わったと思っているだけだ。
激流の中に石を投げても変わらないように、世界はただ過ぎていく。
なら、その逆は。
留美は変わる必要なんてあるのだろうか。
ない。
必ずしも弱者が悪い状況なんてありはしないのだ。
「まずこいつが残るのか。散々無視してくれたしな、たっぷり……」
「おい葉山」
後ろから、俺は声をかける。
振り返る葉山。
「どうも、兄貴。ちょうど良かった、今ガキ共締め上げようと思ってたところで」
無言で、有無を言わさずに葉山を殴りつける。
瞬間、小学生はおろか計画を知っている戸部と三浦まで固まってしまった。
倒れる葉山。
その頬には、殴られた後はもちろん無い。
そう、演技なのだ。
「てめぇ自分のしてること分かってんのか葉山」
葉山の胸倉を掴み無理矢理立たせると、また頬を殴りつける。
何が起きているのか分かっていない小学生たちは、その様子をただ見ていた。
「あ、兄貴、どうして……」
「てめぇこの野郎、うちの組の親分の娘締め上げるってのはどういう事だ、あ?」
「この野郎!」
倒れている葉山に材木座が蹴りを浴びせる。
もちろん痛くはない。Vシネマばっかり見ていたこいつからすれば、ヤクザやチンピラを演じるのは難しくないのだろう。
「む、娘って……まさか、鶴見って、鶴見組の……」
ボソッと、しかし確実に聞こえるように呟く戸部。
「おい!堅気の嬢ちゃん達の前であんま言うなよ」
俺のが先に親分の娘とか言ってたのは気にしない。
これは演出だ。
「で、でも兄貴……こいつら俺らをコケにして」
「てめぇ兄貴分に向かって口答えしてんじゃねぇぞこの野郎!」
葉山の言葉を遮り、材木座が蹴りを浴びせる。
それを横目に、俺は留美に頭を下げた。
「お嬢悪いな、うちの馬鹿がとんでもねぇことしちまったみたいで」
そう言うと、留美は無表情のまま首を横に振った。
「いいよ別に。慣れてるから」
ギクッと、少女たちの身体が動く。
とんでもねぇことしてる自覚はあったんだろう。
そうか、と言って俺は少女たちの前に立ちはだかる。
「悪かったなお前らも。なっ」
「い、いえ……」
必死に首を横に振る少女たち。
少し安堵しているように見えるのは、これで助かったと思っているからだろうか。
甘いなぁ。
「でもよ、いくらなんでも友達真っ先に売っちまうのはよくねぇだろ、ん?ましてやうちの大事なお嬢さんをよ、なぁ?」
またしても縮こまる忙しい少女たち。
「今度うちのお嬢に何かしてみろ。てめぇら全員タダじゃおかねぇぞこの野郎ッ!!!!!!」
突然声を荒げ、俺は怒鳴った。
これでいい。
ただの高校生が叱って留美を贔屓して恨みを買うよりは、ある程度の危険な設定を持たせて怒鳴りつけた方が処理しやすいのだ。
「おじさん、もういいよ。私気にしてないし」
「お嬢、でも」
留美の隣りで葉山をしつけていた材木座が口を挟む。
刹那、
ヒュパン!
留美が何かを振るったと思ったら、材木座がその場に腹を押さえて倒れたのだ。
一瞬、俺を含めて全員の思考が止まった。
「私がいいって言ってんだからさ、いいんだよ」
その手に握られているのは、ストラップ。
ストラップの先に鎮座するのは、ピンクのデジカメ。
留美は、それをヌンチャクのように振って材木座の腹にブチ当てたのだ。
唐突なアドリブに固まる。
「おじさん」
「ん?うん」
「こんなんでも一応『友達』だからさ、次なんかしたら指一本覚悟しといてね」
息を飲む。
こんな小学生が、ここまで冷酷にすらっとこんな事を言えるものなのか。
俺は頷き、一礼した。
「すんませんお嬢」
分かった、と留美は言う。
言うと、視線を少女たちへと向けた。
そして、帰ろっか、というと小学生たちは元来た道へと戻る。
「痛てぇ、痣んなってるよこれ」
「大丈夫だって、な?」
腹を押さえる材木座と、そいつの肩を叩いて励ます戸部。
今はキャンプファイアーの時間。
あれから特に何事もなく、肝試しは終わりを迎えた。
正直あんなことがあった後だから先生方にしょっぴかれないか心配していたが、びっくりするほど何もなかった。
恐らく留美が口止めしたのだろう。
今じゃあれほど留美を邪険にしていた少女たちは、すっかり留美に怯えて御機嫌を取ろうとしている。
求めていた形ではないにしろ、これで解決はともかく打破は出来た。
俺は一人、階段に腰かけてキャンプファイアーを楽しむ小学生たちを眺める。
「随分危ない橋を渡ったな」
ふと、平塚が横へやって来た。
彼女は座ることなく、立ちながら同じように小学生たちを眺める。
「すんません」
「責めてはいない。むしろ時間がない中でよくやったと思っているよ。方法は最低も良い所だが」
「……分かってます」
「ふふ、だがそれが今回役に立ったのは事実だしな。最低の、どん底にいる人間にしか、寄り添えない者もいる。そういう資質も貴重だ」
「遠回しに貶さないでもらえますか先生」
キャンプファイアーが終わり、先生が小学生たちに集合の合図をかける。
その中には留美も居て。
自分の前を通り過ぎる時も目も合わせない。
これでいいのだ。
俺は役目を果たした。
もう俺は留美のおじさんではない。なら、これは正しい結末だ。
留美が俺を気にも留めずあの小学生たちの輪の中に入っていくのは、清く正しい。
「報われないわね」
今度は雪ノ下がやってきた。
その言葉に、俺は笑う。
「良いよ別に馬鹿野郎。ただ怒鳴っただけだし」
そう言って、コーラをぐいっと飲む。
「徒党を組んでいた相手がいなくなるだけで、ずい分と楽になるものよ。たとえ手段は最低でも、御膳立てしたのはあなたよ、比企谷君」
「……」
何も言わず、俺はただ前を見つめる。
「だから」
そんな俺にはっきりと、雪ノ下は言った。
「一つくらい良い事があっても罰は当たらないわ」
「……へへ、馬鹿野郎」
照れるように、言い返した。
由比ヶ浜が持ってきた花火を、皆でやる。
が、俺はただ一人小さな線香花火だけに火をつけ、階段に座り眺めていた。
西として、妻と共に花火をしたことを思い出す。
ロケット花火、熱かったなぁ、なんてことを思う。
……西は本物の関係と呼べる人と寄り添った時、何を思ったのだろう。
花火を打ち上げ、笑い、逃げ延びた二人は一体何を得たのだろう。
記憶があれど、感情までは分からない。
そこは俺が推察し、得ていくしかない。
留美は、なぜあの場で少女たちを救ったのだろう。
あんなのが本物であるはずがない。
でも、それは俺が考えているだけだとしたら。留美にとっては、あんなのでも本物だとしたら。
考えれば考えるほど、負の螺旋へと流れていく。
だとしたら、俺はその本物にとんでもないことをしてしまったのか、と。
「ほら」
いつのまにか来ていた葉山が、マッ缶を差し出してくる。
俺は表情一つ変えず、それを受け取った。
隣りに座る葉山と、楽しそうに花火をする高校生たちを眺める。
だが、葉山の表情はやや暗い。無理もないだろう。
「悪かったな、嫌な役やらせちまって」
そう、謝る。
「そっちだって似たようなものさ。それに、気分が悪いわけじゃないんだ。ただ……」
ため息が、彼の口から洩れる。
「似たような光景を思い出してしまった。それを目にして、何もしなかったことを……」
そう言って、葉山はマッ缶を一気飲みする。
顔を歪めてから、いつものイケメンスマイルで俺に尋ねた。
「なぁ、ヒキタニ君が俺と同じ小学校だったら、どうなってたかな?」
俺は笑い、
「馬鹿野郎。根暗が一人増えるだけだよ」
「あっはは……俺はきっと、色々な結末が違ってたと思うよ」
ただ、と。
葉山は確信を持って言う。
「俺と『比企谷君』は、仲良くなれなかったと思う」
俺は黙って、その答えを聞いた。
冗談だよ、と笑う葉山。
でも、それはきっと当たっているはずだ。
次の日になり、ようやく千葉と称したクソ田舎から帰る時間となる。
小学生たちはバスの前に整列させられ、順番に乗っていく。
俺たちは俺たちで、平塚の車に荷物を載せていた。
暑い中こんな作業してたら死んじゃうよまったく。
「やっと娑婆に戻れますね兄貴」
「ほんとだよまったく、こんなWifiもない田舎に連れて来やがってあの野郎~」
平塚への愚痴を垂れ流しながら彩加の頭を撫でる。
一見無関係に見えるこの動作だが、心の清涼剤として必要なのだ。
「もう、文句ばっかり言ってたら嫌いになっちゃうよ?」
「嘘に決まってんだろお前、俺自然児だよ」
息を吐くように御機嫌を取りに行く。
そんな俺を由比ヶ浜と小町は蔑んだ目で見た。
「どの口が言ってるのお兄ちゃん……」
「ヒッキーが日に日にキモくなってる……」
ともあれ、無事に終わった林間学校。
あとは車に乗るだけ……と思っていた。
その時だった。
バスの方から、走ってくる音。
息を切らしながら、こちらへとやって来る小学生。
長い髪を揺らし、アスファルトを蹴るのは留美だった。
「ハァ、ハァ……」
膝に手をついて息を整えている留美。
ちょっとびっくりした。いきなり走ってくるんだもの。
「なんだお前、バス行っちゃうよ」
急かすように、俺はバスを指差す。
だが、留美はそんな俺の忠告を振り切って言った。
「おじさん名前なんて言うの?」
名前。
会ってから一言も言っていなかった俺の名前。
おじさんではない、ちゃんとした名前。
俺は笑う。
「八幡だよ馬鹿野郎!帰れ早く!」
おかしくて、笑ってしまう。
でもその中に確かに嬉しさもあって。
笑顔で帰っていく留美の背中を、バスが行ってしまっても追っていた。
久しぶりの投稿です。
来年まで忙しいため、ちょっと投稿できない日々が続きます。