聖櫃に抱かれた子どもたち   作:佐伯寿和2

75 / 235
魔女の足跡

――――穏やかな村だった。

 

 

目を開けると、もはや馴染みの天井が目に映る。

少し固いベッドが、私とは違うリズムで浮き沈みを繰り返す。

「エルク……。」

顔を倒せばそこには彼が向こうをむいて眠っていた。

その寝息は一定で、目を閉じ、耳を澄ましているだけで心が落ち着いていくのが分かる。そこには彼の優しさが染み込んでいる気がした。あの村にいた誰とも違う表情をしている気がした。同じ「優しさ」なのに、何かが違う。

 

忘れたことなんかない。私のたった一つの故郷。私のたった一つの家。

あの日以来、私は寂しくなったら目を(つむ)ってあの村に帰るのが(くせ)になっていた。けれどここ最近、彼らに会いに行く機会はほとんどない。

積極的に……、必死に目を開けて、今を見渡している。

 

ソッと、その小柄(こがら)な背中に手を添える。すると、思っていた通り。私を想ってくれる彼の優しさが私の中に流れ込んでくる。

 

 

 

――――そう、あそこは穏やかな村だった。

 

白く凛々(りり)しい山々に囲まれたあの村は、ここよりも寒くて、甘い食べ物も少なかった。ハチミツに漬けた果肉はとても貴重で、2、3度しか口にした記憶はない。

チーズと黒パン、そしてイモのスープ。それが私たちの毎日を(やしな)ってくれていた。

広がる土地に緑は薄く、耳に届く声は少ない。

あの白く(たくま)しい巨人たちが、私たちの村と外の世界とを分けているのだと。子どもながらに私は思っていた。

けれども村の皆は私と違って、何者にも揺るがない彼らにすっかり心を預け切っていた。顔色を(うかが)ったり、泣きついたり、祝祭の歌を一緒に歌ったり……。

 

それでも私は村の人たちが好きだった。

優しくて、愛し合っていて、物知りだった。でも今思えば、強い人は一人もいなかったように思う。

あの人たちは村の外の人たちを「狼」だと信じていたし、自分たちを「羊」だと思い込んでいた。そして、白く立派な(おり)に囲まれていることに胡坐(あぐら)をかいていた。

だから皆、黒い魚を追い払うことも、麻袋を(かぶ)せられた身内を救い出すこともできなかったんだ。

ただただ、身を寄せ合って。ただただ、寒さを(しの)いで生き延びていたんだ。

 

もちろん私もあの日、「狼」をこの目で見てしまった。皆の言っていることが本当なんだと信じる他なかった。思い知らされた。

だから私も、麻袋の身内や実験施設の子どもたちから目を(そむ)け、黒い魚や黒い服の悪い人から逃げ回って、同じように生き延びてきた。

 

でも、今なら分かる気がする。

私たちは、臆病(おくびょう)でも「生きる」ことを知っている「羊」なんかじゃない。黒い人たちは、恐ろしくても「家族」を護ることを知っている「狼」なんかじゃない。

私たちは白いオモチャ箱にしまわれた「人形」。黒い人たちはそれを知っている「悪魔」。

 

寒さを凌ぐどころか、「寒さ」さえ感じない私たちだからこそ、あんなことがあっても同じ土地で、同じように生活していられたんだ。

その光景が、今の私には身の毛もよだつ画に思えた。

もちろん、その中で平然と、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

――――ある日、私は黒い人に連れられて一つの部屋に押し込められる。

薄暗く、底冷えのする鉄の部屋。

そこには、一匹の狼がいた。

正真正銘、本物の狼。

赤く大きな瞳。大きく逞しい四本の足。一度開けば、私のような子どもなんて一呑(ひとの)みにしてしまいそうな大きな、大きな(あご)

一目見ただけで、この子にはとても強い『力』があるんだと理解できた。そして、私はその『力』の(にえ)として放り込まれたんだと思った。

だけど、その気配は一向に現れない。それどころか、私が話しかけるよりも先に(すみ)(ちぢ)こまる私を抱き、冷えた体を温めてくれたことに驚かされたのをよく憶えている。

少し()って、扉の向こうから食事が配給される。

私は、誤解していたこと。失礼な想像をしていたことを狼に謝る。けれども、それで狼が私を(しか)りつけることはなかった。その子は私を(なぐさ)め、今は耐え忍ぶ時だと教えてくれる。

狼は私の境遇(きょうぐう)を聞こうとはしなかった。だから私も、聞かなかった。ただ、その『身体』があるべき自分のモノでない事だけは私に忠告する。いつの日か、『ソレ』が私に牙を()くかもしれないと。

だけど、その時点で(すで)に私はその子から「危険なモノ」なんて感じなくなっていた。

その温かさに寄り掛かってでしか眠ることができなくなるくらいに、その狼を信じ切るようになっていた。

 

そうして次第に、白くて(かな)しい狼は私のことを「リリー」と呼ぶようになっていく。

 

 

 

――――あの日、そうやって私たちが逃げ込んだ鉄の部屋に、一人の男の子が転がり込んできた。

真っ赤なバンダナと、真剣な表情の中にも少し幼さの残る顔付きが印象的だった。

「お前を殺す」

それが彼の口から聞いた初めての言葉。そんな言葉を簡単に口にできる彼に「黒い人」たちの影を見てしまった。私は彼を(だま)すつもりでいたんだ。

でも、それもまた私の思い違いだった。

彼は私なんかよりも何倍も強くて、何倍も優しい人。彼の住む町で出会ったお義姉(ねえ)さんと、大家さん。そして彼の恩人を通してそれを知ることができたのはとても幸運なことだった。

 

彼は私なんかよりも懸命(けんめい)に『悪い夢』に立ち向かう人だった。ひと月も一緒にいた訳じゃないけれど、私はもう何度もそれに心奪われてしまう姿(かれ)を見てきた。

彼はとても苦しんでた。全身が毛深くなっていく自分自身に、口元から鋭い牙を覗かせてしまう自分自身に(おび)えていた。

『人』でなくなることに……。

それでも、彼はそれと向き合うことを止めない。(かな)わないと分かっていて。苦しいだけだと分かっていて。

 

「ミリル」

 

初めては、あの日、(いかずち)に導かれて現れた彼の口から。その次は、暗い暗い夢の直中(ただなか)(うずくま)る彼の口から。私はその女の人のことを知った。

彼はその人を助けるために今も危ない仕事をし続けているのだと言う。

その姿に、私は強く()かれてしまった。彼が真っ赤な『炎』そのもののように映ったから。その人の名を口にして燃え盛る瞬間も、その人の名を口にして消え入りそうな瞬間も。とても、キレイだと思えてしまったから。

 

それは、ただただ隣で見詰(みつ)めていたいだけの「好奇心」なのかもしれない。真似(まね)をして強くなりたいという「克己心(こっきしん)」なのかもしれない。

自分自身の奥底から響く声はどんなに耳を澄ましてみても、ぼやけていてハッキリとは聞き取れない。

それでも、彼を想う気持ちだけは揺るがない。

彼は、白く気高(けだか)霊峰(れいほう)たちの外で見つけた、初めての『炎』なのだから。

 

彼の隣はこんなにも温かい。自分の中に『血』が流れていることに初めて気付いたような気分にさせてくれる。

 

この「幸せ」は他の何ものにも代えられない。

たとえこれから、この人の隣で(たたか)い、たくさんの血を見ることになったとしても。見よう見真似で牙を()ぎ、たくさんの命を()()ることになったとしても。これはもはや、運命だもの。

こんな『力』を持って産まれてしまった『化け物』には逃れる(すべ)もない――――。

 

 

寝返りを打つ彼の手を、私はソッと捕まえる。とても熱くて、とても使い込まれた手。

眠っているはずの彼が、私の手を強く握り返してくる。その『力』に私は「護られている幸せ」に溺れてしまう。

 

放したくない。いつまでも握られていたい。

そのために私は闘うの。彼が『悪い夢』に連れ去られないように。私が、彼を護らなきゃならない。

 

 

 

……でも、それでも、やっぱり分からない。これって私の身勝手?私はただ、この人の「幸せ」を良いように口実(こうじつ)にしているだけなの?

 

教えて、エルク……。

この手は、どうしたらいいの?

 

放したくない。でも、握っていられる自信がない。

だって、『私』はこんなにもこの人で一杯なんだもの。すると今度は私が、この人に麻袋を被せてしまうかもしれないじゃない。

そうすれば、この人は「私だけのものになる」。

ねえ、私、間違ってない?

いつか、この人の「幸せ」に()りつく『悪い夢の欠片(かけら)』になってしまう日が来てしまうようで、怖いの。

いつか、この人が放つ炎の中で傷つき、憎んで……。呪いの言葉を吐きながら死んでいくような日が来てしまうようで、とても、怖いの。

 

ねえ、エルク……教えて……。

アナタは今、幸せ?

その中に、私はいる?

 

彼の手を伝って、私の心にも真っ赤な『炎』が映り込む。彼がまた、『彼女の夢』を見ている。

 

 

 

――――私は、それが少し許せなかった。




※黒パン
一般にライ麦を使って作ったパンのことを指します。(小麦で作ったパンよりも色が黒くなるので)
ライ麦は小麦よりも寒さに強いので寒冷な地域で主食のように扱われていたそうです。
ライ麦で作った生地はグルテンに乏しく、発酵の際にできたガスを外に逃がしてしまうので、小麦のパンよりもドッシリと固いパンになるのだそうです。


※リリー
リーザ(Liza)もリリー(Lily)もエリザベス(Elisabeth)の愛称の一つです。
パンディットとリーザとの関係の近さを表現するために、流用させてもらいました。リズ(Liz)でもいいかなって思ったけど、リリー(Lily)の方が花の「百合(ユリ)」の意味もあるし、合ってるかなって思いました。

なんて解説をしようと思っていたら、迂闊にも、リーザのスペルは「Lieza」なのでした。
……まぁ、いっか(笑)

※パンディット
「リリー」のついでに検索してみたら、ヒットしました。
「パンディット」はインドで、「僧侶」や「占い師」を含む、識者に対する尊称のようです。……まあ、関係ないと思うけどね(笑)

※奪る(とる)
一般に、「奪る」と書いて「とる」と読むことはできません。漢字検定では間違いなので気を付けてくださいねー。

※克己心(こっきしん)
自制心。自分が生んだ欲望や邪念に打ち勝つこと。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。