――――穏やかな村だった。
目を開けると、もはや馴染みの天井が目に映る。
少し固いベッドが、私とは違うリズムで浮き沈みを繰り返す。
「エルク……。」
顔を倒せばそこには彼が向こうをむいて眠っていた。
その寝息は一定で、目を閉じ、耳を澄ましているだけで心が落ち着いていくのが分かる。そこには彼の優しさが染み込んでいる気がした。あの村にいた誰とも違う表情をしている気がした。同じ「優しさ」なのに、何かが違う。
忘れたことなんかない。私のたった一つの故郷。私のたった一つの家。
あの日以来、私は寂しくなったら目を
積極的に……、必死に目を開けて、今を見渡している。
ソッと、その
――――そう、あそこは穏やかな村だった。
白く
チーズと黒パン、そしてイモのスープ。それが私たちの毎日を
広がる土地に緑は薄く、耳に届く声は少ない。
あの白く
けれども村の皆は私と違って、何者にも揺るがない彼らにすっかり心を預け切っていた。顔色を
それでも私は村の人たちが好きだった。
優しくて、愛し合っていて、物知りだった。でも今思えば、強い人は一人もいなかったように思う。
あの人たちは村の外の人たちを「狼」だと信じていたし、自分たちを「羊」だと思い込んでいた。そして、白く立派な
だから皆、黒い魚を追い払うことも、麻袋を
ただただ、身を寄せ合って。ただただ、寒さを
もちろん私もあの日、「狼」をこの目で見てしまった。皆の言っていることが本当なんだと信じる他なかった。思い知らされた。
だから私も、麻袋の身内や実験施設の子どもたちから目を
でも、今なら分かる気がする。
私たちは、
私たちは白いオモチャ箱にしまわれた「人形」。黒い人たちはそれを知っている「悪魔」。
寒さを凌ぐどころか、「寒さ」さえ感じない私たちだからこそ、あんなことがあっても同じ土地で、同じように生活していられたんだ。
その光景が、今の私には身の毛もよだつ画に思えた。
もちろん、その中で平然と、
――――ある日、私は黒い人に連れられて一つの部屋に押し込められる。
薄暗く、底冷えのする鉄の部屋。
そこには、一匹の狼がいた。
正真正銘、本物の狼。
赤く大きな瞳。大きく逞しい四本の足。一度開けば、私のような子どもなんて
一目見ただけで、この子にはとても強い『力』があるんだと理解できた。そして、私はその『力』の
だけど、その気配は一向に現れない。それどころか、私が話しかけるよりも先に
少し
私は、誤解していたこと。失礼な想像をしていたことを狼に謝る。けれども、それで狼が私を
狼は私の
だけど、その時点で
その温かさに寄り掛かってでしか眠ることができなくなるくらいに、その狼を信じ切るようになっていた。
そうして次第に、白くて
――――あの日、そうやって私たちが逃げ込んだ鉄の部屋に、一人の男の子が転がり込んできた。
真っ赤なバンダナと、真剣な表情の中にも少し幼さの残る顔付きが印象的だった。
「お前を殺す」
それが彼の口から聞いた初めての言葉。そんな言葉を簡単に口にできる彼に「黒い人」たちの影を見てしまった。私は彼を
でも、それもまた私の思い違いだった。
彼は私なんかよりも何倍も強くて、何倍も優しい人。彼の住む町で出会ったお
彼は私なんかよりも
彼はとても苦しんでた。全身が毛深くなっていく自分自身に、口元から鋭い牙を覗かせてしまう自分自身に
『人』でなくなることに……。
それでも、彼はそれと向き合うことを止めない。
「ミリル」
初めては、あの日、
彼はその人を助けるために今も危ない仕事をし続けているのだと言う。
その姿に、私は強く
それは、ただただ隣で
自分自身の奥底から響く声はどんなに耳を澄ましてみても、ぼやけていてハッキリとは聞き取れない。
それでも、彼を想う気持ちだけは揺るがない。
彼は、白く
彼の隣はこんなにも温かい。自分の中に『血』が流れていることに初めて気付いたような気分にさせてくれる。
この「幸せ」は他の何ものにも代えられない。
たとえこれから、この人の隣で
こんな『力』を持って産まれてしまった『化け物』には逃れる
寝返りを打つ彼の手を、私はソッと捕まえる。とても熱くて、とても使い込まれた手。
眠っているはずの彼が、私の手を強く握り返してくる。その『力』に私は「護られている幸せ」に溺れてしまう。
放したくない。いつまでも握られていたい。
そのために私は闘うの。彼が『悪い夢』に連れ去られないように。私が、彼を護らなきゃならない。
……でも、それでも、やっぱり分からない。これって私の身勝手?私はただ、この人の「幸せ」を良いように
教えて、エルク……。
この手は、どうしたらいいの?
放したくない。でも、握っていられる自信がない。
だって、『私』はこんなにもこの人で一杯なんだもの。すると今度は私が、この人に麻袋を被せてしまうかもしれないじゃない。
そうすれば、この人は「私だけのものになる」。
ねえ、私、間違ってない?
いつか、この人の「幸せ」に
いつか、この人が放つ炎の中で傷つき、憎んで……。呪いの言葉を吐きながら死んでいくような日が来てしまうようで、とても、怖いの。
ねえ、エルク……教えて……。
アナタは今、幸せ?
その中に、私はいる?
彼の手を伝って、私の心にも真っ赤な『炎』が映り込む。彼がまた、『彼女の夢』を見ている。
――――私は、それが少し許せなかった。
※黒パン
一般にライ麦を使って作ったパンのことを指します。(小麦で作ったパンよりも色が黒くなるので)
ライ麦は小麦よりも寒さに強いので寒冷な地域で主食のように扱われていたそうです。
ライ麦で作った生地はグルテンに乏しく、発酵の際にできたガスを外に逃がしてしまうので、小麦のパンよりもドッシリと固いパンになるのだそうです。
※リリー
リーザ(Liza)もリリー(Lily)もエリザベス(Elisabeth)の愛称の一つです。
パンディットとリーザとの関係の近さを表現するために、流用させてもらいました。リズ(Liz)でもいいかなって思ったけど、リリー(Lily)の方が花の「百合(ユリ)」の意味もあるし、合ってるかなって思いました。
なんて解説をしようと思っていたら、迂闊にも、リーザのスペルは「Lieza」なのでした。
……まぁ、いっか(笑)
※パンディット
「リリー」のついでに検索してみたら、ヒットしました。
「パンディット」はインドで、「僧侶」や「占い師」を含む、識者に対する尊称のようです。……まあ、関係ないと思うけどね(笑)
※奪る(とる)
一般に、「奪る」と書いて「とる」と読むことはできません。漢字検定では間違いなので気を付けてくださいねー。
※克己心(こっきしん)
自制心。自分が生んだ欲望や邪念に打ち勝つこと。