聖櫃に抱かれた子どもたち   作:佐伯寿和2

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汚れた歌姫 その二

事の異変に気づいたのはアパートに戻った時、扉を開閉した形跡を見つけてからだ。突入のような荒っぽさはない、しかしこちらが気づくように、わざと痕跡を残している。そんな丁寧な仕事だった。

慎重に扉を開けるとそこには、おそらく俺が帰ってきたのを察したのであろうリーザが立っていた。

「エルク……」

「遅くなってゴメンな。」

リーザは食事の準備をしていなかった。むしろ逃げる用意万端といった様子で待機していた。

そして、その手に握られた紙切れを見て、俺はまずひと安心した。

いきなり襲い掛かろうなんて姿勢がないだけ相手はこっちの行動を見誤っている。つけ入る隙があるということだ。

「あの……」

リーザはおずおずと手にしている物を差し出してきた。『0時、ビル・ベイクマンの店』2つに折られた紙切れには待ち合わせ場所と時間と思われるものだけが書いてあった。ビル・ベイクマンは、ついさっき俺が訪ねた酒場のマスターの名前だ。

差出人も宛名もない。だからこそ部屋を間違えたというのは考えにくい。

「エルクが出ていった後、少し経ってからドアの隙間に差し込まれていたの。追いかけようと思ったけど、パンディットが止めたから―――。」

驚いた。ただ命令を聞くだけの化け物じゃないのか。

 

ひとまずシュウではない。シュウが絡んでいるのかもしれないが、リーザに顔を見せなかった時点でシュウである可能性は低い。顔を合わせられない理由があるのだとしても、それだけ緊急な状況なら逆にこんな曖昧(あいまい)な接触はしてこない。俺たちの間だけに通じる痕跡(こんせき)もない。

つまり、俺たちのルールを知らないどこかの誰かさんってこと。わざわざ俺がいない時を狙ってくるとなると、争う可能性があって俺のことを知っている奴。同業の奴らなのかもしれない。

それに、店の名前でなく、わざわざ『ビル・ベイクマンの店』と書いてくる辺り、この土地の人間で、なおかつ敵でない可能性が高い。だが、初めからこんな不透明なコンタクトをとってくる奴なら関わらない方がいい。少なくとも今は。

「どうするの?」

そう、どうするかだ。リーザが気を()かせてくれたおかげで逃げる準備もそこそこ整っている。反対に戦闘になった場合、リーザを俺と化け物で守りきれるかというと心許(こころもと)ない。……逃げるか。

だが、漠然(ばくぜん)と逃げるだけじゃすぐに足がついちまう。色々と罠を仕掛けておけばそれなりの時間は稼げるだろうが……、リーザの機動力を考慮(こうりょ)に入れるとなると、やっぱり危ない橋は渡れねえ。

ということは……『逃げ』だな。幸い、こっちには使える駒が『一匹』いる。それをどう使うかだ。

 

すると、強い視線を感じた。

「ねえ、エルク。パンディットを(おとり)に使わないで。」

「……そうか。」

リーザは人の心が読めるのだ。詳しく聞けば、会話ほど鮮明ではないにしても内容は十分に理解できるという。そして彼女は連れているものを身内のように考えている。

つまり、初めから俺が守るものは一人じゃなく、一人と一匹だったということか。俺もそろそろ割り切らなきゃならないな。

「ごめんなさい。でも、もうエルクしか頼る人がいないから。」

「大丈夫。リーザが悪者(わるもん)じゃないことくらい分かってる。そして俺は正義の味方(ヒーロー)だからな。だったらやることは一つだぜ。」

まあ、俺の心情を簡単に言えばそんなところだった。それに何も囮にするだけがアレの使い道でもない。

 

「とりあえず、そういうことだ。今すぐここを離れる。そんで次の行き先なんだが―――、」

言っていて気づいた。サインがなくても俺とリーザ、リーザと化け物の意思疎通(いしそつう)ができるのなら、複雑な連携(れんけい)も難しくない。試しに次の目的地を頭に思い浮かべてみる。すると―――、

「プロディアス、エルクの家ね。」

完璧だ。これは使える。

 

だが、大事な実験体(リーザ)を捕まえるにしては向こうの余裕が気になる。

もしかしたら(すで)にリーザみたいな『力』を持った連中が()()()()いて、既に俺たちを取り囲んでいるのかもしれない。そういう懸念(けねん)はないでもない。

だが、今日一日歩き回ってみて、それらしい痕跡は見つけられなかった。

リーザも、それらしいものは感じ取ってないようだ。

 

そうなると逆に、探さない方が良いだろう。遠くを意識し過ぎて手元が(おろそ)かになっちまったら本末転倒だからな。

それに、もしもそういう敵が目の前に現れたなら、リーザが教えてくれるだろう。その時は問答無用で焼き払うしかない。先手を取られたら足掻(あが)きようのない力だけに、迷っていたら一発でアウトだ。

俺のイメージを読んだのか、リーザは複雑に笑って応えた。

「悪い、悪い。悪いようには使わないからさ……、ップ、アハハハ。」

言っていて可笑しくなった。リーザも一緒になって笑ってくれた。よし、心にゆとりもある。この調子ならまず最悪の結果は回避できそうだ。

 

「あの……、」

だがすぐにリーザの顔はいくらか(くも)った。

「エルクは、恐いとか思ったりしないの?」

「……それは連中のことか?それとも、その力のことか?」

僅かな沈黙があった。まあ、『力』のことで迫害を受けた人間が本音で話すってのが苦痛だってことくらい俺にも理解できた。

「心、読めるんだろ?だったらわざわざ言葉にしなくても、分かってんじゃないのか?」

「……そうだよね。嘘じゃ、ないものね。」

似たような顔をこれまでにも随分見てきた。彼らはそれこそ命の危険に(さら)されている人間だった。俺は常に守る側にいたから、それを笑顔に変えることだけを考えていればよかった。

だがこの子の場合、完全な味方はいない。だがそれも無理はない。人間ってのは()()()()()()()()()()()()()()()()()

考えてしまうのは仕方のないことだ。聞こえてしまうのは仕方のないことだ。俺だっていつ加害者に回るかも分からない。それが俺の本意じゃなかったとしても。

正直に言えば俺だって心を読まれるのはむず(がゆ)いと思う。だが少なくとも、今の俺はこの子を『悪』の対象として見ることはない。そんな余裕なんかない。でなきゃ、もう一つ俺の安眠を妨害する要因をつくっちまうからな。

「私も気をつけるから。」

それに、伏し目がちになった仔犬に、俺は昔から弱い。

「気にすんなよ。リーザだって苦労してるんだからよ。」

あいつ、元気にしてんのかな。俺は今も俺の帰りを待っているであろう同居人のことを思った。




※わんさか=人が大勢いる様子。有り余るほどの数が集まる様子。

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