今、『国の要人』という巨大な隠れ蓑を利用し、黒い息を振り撒く男たちが対峙している。
「いつもながらキサマの面には吐き気しか覚えんな。」
屋敷の主人は侍女から赤のボトルを受け取り、客人の顔を見るなりそう吐き捨てた。
「今少し辛抱しろ。直に、似合いの死に場所を用意してやる。」
詰られた客人は、主人の秘書を弄び、満足げな笑みを浮かべて待ち構えていた。
一人はアルディコ連邦の首都プロディアス、市長。
実質、彼が国の経済を維持していると言って過言でないこの連邦は、ロマリアを中心とした国々が開拓に開拓を重ねた末に築き上げた一大国家。しかしそのために、約200年という浅い歴史にも拘らず、世界のどの国よりも遥かに多くの血と悲鳴がこの国の天と地を彩ってきた。
海の外よりやって来た開拓者たちは、対立する原住民を蹂躙し、植民地化した。度重なる領土争いにより無数の国境線が大陸を切り刻んだ。これに終止符を打つべく、その100年後に「連邦」として独立を目指した過激な運動が始まり、ここでもまた数え切れない兵が夢に果てる。
そして、原野から都市群へと誇らしい成長を遂げた連邦は、不要になった多くの開拓者、独立運動勢力たちを、明日生きることもままならない無法者への失墜を強いている。
つい先日、女神の目前で「平和」と「安寧」を宣言したはずの大国が育んできた「陰気の充満する過去」は、国の内外に潜む反社会勢力を牛耳る現プロディアス市長の性格に不気味なほど当て嵌まっていた。
男は言う。
「この国は人間の血と涙で豊かになる。ワシはその手助けをしているに過ぎん。」
彼は王より命じられ、広大な大陸を手に入れた。しかし、ともすれば、大陸が「連邦」となるべくして彼をこの地へと引き寄せたのかもしれない。
一人は極東の島国、スメリアの大臣。
世界に『精霊の国』と言わしめるまでに「鎖国」を徹底していた島国は、この男の登場により何もかもが開け放たれた。物流も精霊も、その二つの影に隠されていたものも。
開国当初、万物に精霊が宿ると信じ、彼らの禁に触れればその加護を失うとされてきたスメリア国民にとって、諸外国の商業主義、軍事主義は直ちには受け入れ難いものだった。
しかし、電気の流通や優れた技術による機械化は彼らの、精霊への畏敬の念を薄れさせ、代わりに人間の偉大さ思い知る。
その見返りは大きく、数年後には、精霊の加護に帰依していた一部の豪族を除く多くのスメリア国民に歓迎されることとなる。
この『開国案』を提示した男は忽ち大臣へと上り詰め、スメリアの二番手となる。そして昨年、スメリア人を中心とした犯罪集団により国王が暗殺されてしまう。
専制君主制のスメリアにおいて、王位継承を名乗り出る血族のいない現在、大臣がこの権力を引き継いでいる。つまり、「大臣」と呼ばれるこの男は実質的「王」といえた。
『開国』の功績もあり、表向きには、これに逆らうものは今の国内には誰一人としていないと言われている。
誠実な萌葱色の強装束と、芳香漂わせる端麗な白檀扇を扱う妖艶な佇まいからは、それらを築き上げた小聡明さが滲み出ていた。
しかし、この二人は正真正銘、何百万という人口の上に立つ市長であり、大臣である。それに相応しい知識と経験も人脈も持ち合わせている。さらに、彼らには軍事国家ロマリアの「将軍」という裏の顔がある。
彼らに支配される人間たちは何も知らない。彼らの密会が、世界に何をもたらすのかを。
「それで、何の用だ。ワシの貴重な時間を割く程のことだ。まさか小言のためだけという訳ではあるまい。」
猟奇的な市長はドカリと椅子に腰掛けると、控える舌戦のために喉と舌を濃厚な赤で潤し始める。
「いやなに。近頃、貴様の不審な動向が目立ったのでな。その審問のために足を運んだまでよ。」
大臣は背凭れに深く体を預け、足を組み、市長のソレを誘うような物言いで応えた。
「何を言い出すかと思えば。目の前にあるその紙切れでは不満か?」
一気に飲み干したグラスに再び赤が注がれる。
満たされるグラスと、諸々の遊びで肥えた市長の身体を冷ややかな目で見遣る大臣は彼の冗談を鼻で笑い、言及を続けた。
「この程度の話を出せば儂が納得するとでも思ったか?」
彼の好む赤が、「この程度」という言葉に促され、彼の血を僅かに刺激する。
「……ワシはキサマにとって目障りな瘤であっても、王には絶対服従の従僕だ。言い換えるのなら、キサマの詮索は、王への不要な疑念を抱いているということになるが――――、」
グラスを傾け、再び開いた唇の中から覗く深紅の舌先は、男の本性を帯び、新たな口火を切ろうとしていた。
「それでも尚、ワシの秘密を暴くことに迷いはないと?」
男の『談議の声』は獣の『唸り声』へと変わっていた。しかし、萌葱色の貴人に物怖じする様子など微塵もない。
「……無論だ。」
真っ赤な言葉を荒ぶる闘牛の前に掲げることへの恐怖など、欠片も持ち合わせていない。
そして、獣の赤黒い瞳が貴人の歪む口許を捉えた瞬間――――
――――一体どれだけの人間がその身の熟しを予測することができたであろうか。
深く腰掛けた萌葱の貴人の手から、狡猾な匂い漂わせる扇子は消えていた。
身体の隅々まで赤で満たされた寸胴な獣が懐に右手を伸ばしたかと思うと、次の瞬間には牙を剥き飛び掛かっていた。
そして、二つは狙い違わず交わる。
骨張った貴人の手元から描かれた白い軌跡は獣の野太い首を、煮詰められたほほ肉でも刺すかのように、いとも容易く貫いていた。
獣の抜き放った禍々しいまでの鈍色の牙は萌葱の右手を、ハエを潰すがごとく卓上に突き立てていた。
「……キサマ、まさかワシの計画を軽んじているのではあるまいな。」
その間隙、その沈黙が長かったか、短かったかは誰にも推し測ることはできない。
それ程までに、『その時』、『その瞬間』は、二匹の悪魔が吐く息で完全に侵されてしてしまっていた。
「クハハハッ……、不満か?だが、案ずるな。そこを見誤る程、儂もバカではない。何処ぞの、豚とも猿ともしれん無能と違ってな。」
貴人の扇子は血糊と腐臭で穢れていた。獣の牙は濾過された死臭に蝕まれていた。
二人はそれらを抜き取ると、何事もなかったかのように居直り、変わらない殺意漂う言葉の応酬を再開する。
「そもそも、キサマはワシの遊びが気に入らんようだが、キサマにもその気があることを忘れてはいまいな。」
「儂に?何か根拠でもあるのか?」
「白を切るな。女神像が良い例ではないか。」
もちろん、翠色の男にもその意味は通じていた。それでも尚、その誠実な色とは裏腹な、紅の彼を揶揄うことを止めない。
「……よもや、件の『勇者』一行の話をしているのではあるまいな。」
「フン、それ以外に何がある。」
貴人の小聡明さが、獣の杯を渇かし、再び、聖杯を彼の血で満たす。
満たされる杯越しに、獣は翠色の奸賊の腹を見抜こうと試みる。
「スメリアを掌握した今、奴を生かしておく理由がどこにある?」
獣は布石を投じ、返ってくる波紋を待つ。
「さて、何故だろうな。」
そして、その言葉をこそ待っていた。
公式な会見でないとはいえ、曲りなりなりにも将軍同士が首を突き合せる場において、明るみに出せない『答え』を抱えているという『弱み』は、それだけ大きな『切り札』となる。今はそれだけで十分だった。
もとより、一朝一夕に全てを暴けるほど容易い相手でないことは承知の上。
自分よりも大きな獲物の首を確実に噛み切るには、まず弱らせることから始めなければならない。将軍はそれをよくよく心得ていた。
しかし貴人もまた、狩られることを愉しむように獣の台本を擦っていた。そして――――、
――――再び訪れる『沈黙』
この『沈黙』の中でさえ、二匹は雄弁に殺し合っていた。
今、この瞬間でさえ、獣は『生』を肥やし、貴人は『死』を増殖させている。それこそが、この二匹のためだけに誂えられた死闘の舞台だった。
『生の塊』であり、『死の塊』である彼らにとっての「殺し合い」は、たった一つの命を賭して争う人間や畜生とは、図式が根本的に異なっている。
この場にある、たった一つの首を切り落としたところで意味などない。
この場にある、たった一つの心を陥れたところで意味などない。
『生』は『死』を、『死』は『生』を。その存在そのものを完全に否定しないことには二匹の争いに終幕はない。
そして、それこそが萌葱色の唇が語る、台本の影に潜ませた真相であるかのように。
「貴様とて、大事な実験体が奪われたのだろう?奇しくも、小僧一匹に。」
その侮辱とも、自嘲とも取れる言葉は悪魔たちの本質を擽る。
「さらに、その実験体、実にお前好みの魔女だと言うじゃないか。」
「……だとしたら、どうだと言う。」
「その割には動きが緩慢なんじゃあないか。それともこれは単なる儂の思い違いか?」
獣の中の赤は、勢いを増す血と共に止め処なく『狂気』に変換され続ける。台本が、それを求めていた。
「無論、勘違いではない。だが、キサマのその問いが、ワシの問いに対する答えであることにも勿論気付いているのだろう?」
赤は少年を、萌葱は青年を。
嬲り、切り刻み、喰らい尽くすことが無上の慰みになっていた。
「……実に詰まらん決着だな。」
翠色の死に神にとって、目の前の口達者な獣を『力』で捻じ伏せることは決して難しいことではない。しかしそれこそが王への冒涜であり、彼もまた、そんな面白味に欠けた『結末』など望んでいない。
「決着?バカを言うな。」
獣は嘲笑を浮かべている。
「もう少し、待てば良いのだろう?ワシはワシのための処刑台とやらがやって来るまでは絶対に落ちん。そして、それを整えるのはキサマの仕事だ。……キサマは先刻、そう言ったばかりではないか。」
それは穏やかな口調で偽装した、獣の宣告だった。
すると、萌葱色の貴人はそれを聞くなり、性懲りもなく新たな話題を切り出す。それは貴人の中で再び湧き上がってきた欲求の現れ。
蠱惑的な「宣告」を、一時でも早く招き入れるために。芳醇な「狂気」を、もっと臭い立たせるために。