そいつは全てを知った上で、単身、ここに乗り込んできた。
「これは、アンデル大臣。生憎ですが、主人はただいま外出しております。」
すると、極東の出で立ちをした来訪者は、不機嫌そうに俺との間に扇子を挟むと、一言、ぼやいた。
「知っておる。儂の計画を詰まらん遊びに費やしおって。」
事前の連絡もなしにやって来たこの男には、それなりの理由があるのだ。
そして、この男の苛立ちは当然とも言うべき内容だった。
この屋敷の主人であり、プロディアスの市長を務める男。ガルアーノ・ボリス・クライチェックは今、先の「アーク襲撃事件」の後始末のために方々に出回っていた。その主な被害の対象になった女神像。
それは、この男がとある意図をもってプロディアスに贈呈したものだった。
そしてこの男の言う通り、俺の主人は誰の了解もなしに、それを泥人形か何かのように使い捨てにした。たかが二匹の獲物を誘き寄せるための疑似餌として。
つまりこの極東の大臣は、今回の作戦の失敗における償いと再考の責任をこの屋敷の主人に追及するために、わざわざ自国への帰還を遅らせ、屋敷まで足を運んだのだ。
おそらく、王から直接の叱責を受けたのだろう。ここまで不機嫌を顕にした男の姿を見たことがない。
「結果が見えていながら主人を止められなかった私の不徳の致すところです。どうか、ご容赦ください。」
言い終わるか否かの間隙に、俺はその不快な扇子で以て蝿を払うかのように頬を叩かれていた。
「お前の言葉なんぞに興味はない。」
「……大変、失礼を致しました。」
男は謝罪すら聞かず、我が物顔で屋敷の奥へと足を進める。
「主人を待たれるのであれば、応接間へ案内させていただきますが。」
俺は男に勘付かれないように平静を装って、その傍若無人な足を止めなければならなかった。
何故なら、コイツが進む先にはこの屋敷の心臓部があるからだ。いくら身内とはいえ、出来ることならそれは避けなければならない。……できることなら。
しかし、それはやはり、『秘書』ごときには高過ぎる壁のようだった。
「黙っていろ。儂はそう言ったつもりだったが、キサマにはそんなに難しい言葉だったか?」
男は、それそのものが呪術であるかのような視線で俺を縛り付け、再び歩き出す。
俺の知る限り、男は「大臣」という身分にありながら、従者を伴っている姿を見たことがない。
その理由が今、対峙してみてハッキリした。この男にとって、自分以外の人間は何をするにしても足手まといなのだ。『戦線』においても、『知略』においても。
アンデル・ヴィト・スキア。その名を冠するこの男はロマリア四将軍の一角を担い、スメリア国の大臣をも務めている。
しかし、そこにどのような理由があるのか分からないが、この男はその地位に甘んじているに過ぎない。この男にはまだ、余りある実力と権力を隠し持っている。
同じ四将軍で、プロディアスの市長であるガルアーノと同等の地位にありながら、限りなく我々の頂点に近い男。
俺の主人は常々、俺にそう言って聞かせていた。
そんな男の前で、秘書の俺は限りなく無力に等しい。
それでも与えられた職務は全うしなければならない。俺は俺の地位のために。
「いいえ、十二分に理解しております。ただ、主人の秘密を守るのも秘書の務めでありますので。」
首が飛ぶことも覚悟の上で執拗に男の足を阻み続けた苦労が、どうにかこうにか報われたらしい。
男は立ち止まり、初めて俺の顔を真っ直ぐに見た。そして、閉じた扇子の先で俺の顎を持ち上げる。まるで捕虜に拷問を仕掛ける執行官のように。高圧的に。
その力強さは、この男の容姿と限りなく反比例していた。
「……ならば敢えてキサマに問おう。」
男の目は、否定を許さない絶対的支配者の目をしていた。
「キサマの主人の仕事は既に終わっている。後は儂の言う通りに動けば万事は上手く運ぶというところまで来ている。であるにも拘わらず、あろうことか儂の邪魔をし、自らの愉悦に興じている。これは、どういう了見だ?」
男の視線は、ガルアーノよりも深く、ガルアーノよりも抗い難い『死の色』で俺の心臓を染めに掛かる。
――――しかし、ここで引けば、それこそこの男の宇宙よりも濃い『闇』に喰われかねない。
「そこまで我が主人のゲームがお気に召さないのであれば、敢えて同じ土俵に上がってみてはいかがでしょうか。」
「儂に、猿と赤子どものママゴトのような戯れに混ざれと?」
扇子は顎を滑り、首を差す。
「さ、猿でも躾ければそれなりの使い途がありましょう。しかし主人の顔を知らない猿は、ただの猿です。そして、優れた人間とは、得てして良い遊びと悪い遊びを心得ていると聞きます。」
さらに、さらに、男の扇子は喉に食い込んでいく。
「残念ながら私は、あくまでもガルアーノ・ボリス・クライチェックの部下です。あの方を貶めるようなお手伝いこそできませんが、あの方を上手く使って頂けるのであれば、私は大臣の計画に尽力致しましょう。」
言い終わると、俺は『死の芳香』漂わせる男の手から解放されていた。しかし差された喉は、ナイフの腹を押し当てたかのように、薄く裂かれていた。
それでも男は、俺の対応一つでこの茶番の幕が降ろされるのだということを仄めかす。
「なるほど、奴の子飼いだけはある。その小賢しさは猿そのものよな。」
「恐縮に存じます。」
苦し紛れのいい訳など、見抜かれるのは承知の上だ。今はただ、この男の気を引ければそれで十分なのだ。……いいや、十分過ぎることだ。
「賤しい獣臭さを誇るキサマに免じてやろう。……客間まで案内しろ。」
「感謝いたします。」
だがしかし、俺のささやかな要求を受け入れたとはいえ、スメリアの「影の王」とまで囁かれるこの男が次に何をするか知れたものではない。
擦れ違いざまに、屋敷の下女へと手信号を送り、ガルアーノの部屋の私物を一つ残らず隠し金庫にしまうように命令する。
すると、男は俺の組織力の甘さを鼻で笑い、嗄れた声で皮肉を零す。
「随分と優秀な部下じゃないか。」
……なぜだ?
信号は男の死角で行った。女が動き出したのは俺たちの姿が見えなくなってからだ。
だというのに、俺の後ろを歩くこの男には全てが筒抜けていた。
だが、今の俺にその動揺を表に出すことは許されていない。あくまで平静に、男を適度に刺激する人間を演じていなければならない。
「私の主人は片付けを嫌う質でして。子どものオモチャから某国の大臣を暗殺する計画書まで。部屋中にあの方の心象を悪くするものが散乱しております。すると、貴方様のような賓客をお迎えする我々、使用人の心労は溜まる一方なのでございます。」
このままでは、この男に何もかも暴かれてしまう。
……まるで時限爆弾を抱えているような気分だ。
「ならばなぜ、奴が片付けを嫌うか。それも知っておるか?」
この男はそうやって、俺の前に幾つもの火の輪を仕掛ける。それらを必死に潜り抜けるライオンを、待ち時間の座興にでもするつもりなのだ。
そして俺は、男が投げ掛ける如何なる問いにも答えることができてしまう。何故なら俺は、そうあるように命じられているからかだ。
「蜜に誘われてやって来た虫たちを喰らうことが、あの方の楽しみの一つだからでござ――――」
「そうして喰らった虫ケラどもの記憶が、あの男の慰みにもなっている。……自らの憐れな存在を肯定するために。」
男は、これから使うであろう俺の嘘に予防線を張るかのように、俺の答えを補足した。だが俺もまた既に、伏線は引いてある。
『本番』は、これからなのだ。
「……ククク、滑稽だな。虫を食んでいないと正気を保っていられない化け物。いや、実に愉快な絵図ではないか。」
「ご要望とあらば、その化け物が飢え悶える姿もお見せ致しましょうか?」
「どうするつもりだ?」
俺に手札を隠す余裕などない。まだ、ここで死ぬ訳にはいかない。
「簡単でございます。私があの方の代わりを務めれば良いのです。」
そう。それこそが俺の本職であり、俺の正体なのだ。
「キサマ、やはり影だったか。……しかし、自らその存在をあやふやにするとは、いよいよもってあの男に価値を見出せんな。」
「とんでもありません。あの方にはまだまだ遂行して頂きたい役目が山のようにございます。」
その一言が、伏線の効果を現した。
男の目付きが、俺という存在の真の姿を見極める、この男の本来の目に変わっていた。そして、最も近しいと思われる仮定を俺の前にチラつかせる。
「……果たして、キサマに儂らを食うだけの実力があるかどうか。見物ではあるな。」
負けじと俺は一つの扉の前で立ち止まり、男の興味をさらに後押しする。
「『野心のない水を吸って生きる大木は血を薄め、瞬く間に朽ちていく』、あの方が我々に課した命の一つでございます。」
瞬間、アンデル・ヴィト・スキアは、その絶対的強者の手でもって俺の顔を鷲掴む。込められる力は熊のような怪力。俺はただただ、それに耐えねばならない。
「いいだろう。……猿どもの申し出に乗ってやろうではないか。」
この男もまた、己の快楽に興じてしまう心の弱さを持っていた。そこにこの男の思惑があったとしても、それを仕向けたのは間違いなく俺なのだ。
ただ一つの問題は、この男が果たしてどこまでを「遊び」と捉えているか。それに掛かっている。
「ただし儂が勝利した時、キサマはあの男の足下に伏していることになるだろうがな。」
それを聞いて、俺は安堵した。この命など、俺の『野心』の前には小石程度の損害でしかない。
「お手柔らかに願います。」
そして、待ち望んでいた助け舟は絶好のタイミングでやって来た。
「クライチェック様、ご主人様からお電話です。」