――――ジメジメとした熱気が顔を撫でる。
瞼は重く、目よりも先に働き出した五感は耳と鼻だった。
ここには雷が空気を割る轟音はない。彼女の肩を焼いた硝煙の臭いもない。……少なくとも、あの甲板での一夜のような厄介事はここにはない。
ユックリと、全身の機能が目を覚ます。微動だにしなかった瞼にも血が巡り、呼び掛け続ける俺の声にようやく応え始める。
ぼやけた視界が、徐々にあるべき画を映し始める。それはまるで、水を零して滲んでしまった水彩画が逆再生されるように、散らばった色たちが本来の居るべき輪郭の中に戻っていく。
「……エルク、おはよう。」
「……リーザ。」
目に映る景色の全てが確りと固まって一番初めに目に入ったのは、彼女の笑顔だった。
「ここは?」
本音ではもっと彼女の笑顔を見ていたかった。けれど今の俺は、彼女を護ることを第一に考えなきゃならない。現在位置と、彼女の容体を把握することが最優先だった。
「……よかった。無事で。」
そう言って俺の頬に触れる彼女の手の平は、少し荒れていた。けれど、その優しい手つきはまるで母親のようで、目覚めたばかりだというのに安らかな眠りに就きそうになった。
「リーザ、ここは?俺たちはあれからどうなった?」
彼女の『好意』に申し訳なさも覚えつつ、彼女の手をソッと払い、身体を起こして周囲を見渡した。
「ユド。村の人たちはここをそう呼んでるみたい。」
そこは確かに、『村』と呼ぶに相応しい開放的な家屋の、籐で織られたベッドの上だった。同じように、収穫用と思われる籐で編みこまれた籠が、食欲を唆る色取り取りの完熟した果実で一杯にして、壁際に2つ3つ置いてある。
部屋の中に入る光や風も、草木や土の臭い混じる田舎臭さを覚えさせた。
「私たち、ヒエンから飛び降りた後、この島まで泳いできたの。」
島……確かに落ちる船からそれらしいものは見えてたっけな。
「……そうだったな。」
無意識に「あれから」なんて言っていたが、リーザに話を聞くまでそんなことスッカリ忘れていた。てっきり、あの甲板の上でドンパチをした翌日なんだと思っていた。
でも、違う。俺たちは、銀の船に辿り着く前に本格的にダメになって墜落し始めたヒエンから脱出したんだった。
――――愛機は俺の予想以上に我慢強い船だったらしい。それだけに、限界を迎えたソイツは途端に、糸の切れた人形のように力を失くして真っ逆さまに落ち始めた。
羽の折れた船の機首を持ち上げるなんて不可能だ。
船が傾き、船内の荷が導かれるネズミの群れのように船首側に押し寄せてくる。船内の荷重が前に掛かり、ますます船は前倒りになっていく。
船が錐揉みを始めて脱出できなくなる前に操縦桿を捨て、パラシュートを背負い、グッタリとしたリーザを抱き上げる。搭乗口は当然のように開かない。
急激な加圧が鈍器となってガンガンと頭を殴ってくる。
塞いでいた荷物を蹴り飛ばし、穿たれた壁の外を確認する。船体と分解する破片にぶつからず脱出しなきゃならない。出口に足を掛けた瞬間、何者かに後ろから引っ張られる。振り返るとそこにはボンベのチューブを捨て、予備のワイヤーを咥えたパンディットが傾く足場の上で踏ん張っていた。
見た目にもパンディットは十分に重い。背負うパラシュートの性能としては限界ギリギリだ。さらにワイヤーでの牽引となると重心を操るのにも一苦労に思えたが、そんなことも言ってられない。
「……分かった。悪いがあとは自分で頼むぜ。」
海面まで大凡5、600m――――。
ワイヤーの片方を受け取り、リーザまで一緒に締め付けないように体を一周させる。掛かり具合を確認している暇はない。もう一度だけ穴の外の状況を確認し、無謀としか言いようのない緊急脱出を決行した。
空を泳ぎ、船から十分な距離をとったことを確認すると直ちにピンを引き抜き、傘を開いた。
海面を見渡してみるが、サンゴ礁は見当たらず、深さも十分にある。……あとは着水後に傘から抜け出さ……ない……と――――
そこで俺の意識は飛んでいる。
こうして生きているからには無事に着水したんだろうが、この島まではどうやって……
「そういえば、パンディットは?」
今になって、彼女の周囲を見渡せば嫌でも目に入るはずのあの大型犬の姿がないことに気付いた。
「多分、少し離れたところで私たちを見守っているはずなんだけど。」
「多分?」
とりわけ彼女とあの狼において、その意思疎通はある程度離れていても、普通の会話と変わらない精度を誇っていたはずだった。
「まだ体調が良くないみたい。近くにいるのは分かるんだけど、少し聞き取りにくくて。」
体調が優れないと、その精度も落ちるのか。
「私たちが村の人から勘違いされないように隠れているみたい。」
どこまでも気の利く奴だ。
おそらく、海に落ちた後、俺たちをこの島まで運んだのもアイツなんだろう。
「……ああ、ええっと、この村。ユド、だっけ?村人は島の名前について何か言ってなかったか?」
リーザは顎に手を置き、視線を泳がせた。おそらく、朦朧とする意識の中で説明を受けたんだろう。
「確か、ヤゾフ島……だったような。」
「それ、多分、ヤゴス島だ。」
正式にはヤゴス諸島。アルド大陸、アミーグの南に位置する国籍のない群島。外との交流自体が希薄なこの島への正式な入島手続きはどの国でも取り扱ってはいない。
その島々中で一番大きな島を、俺たちは「ヤゴス島」と呼んでいる。
つまり、リーザがその名前を聞いたってことは、この島に俺たちと同じ文化圏の人間がいるってことだ。
「それにしても可笑しいわよね。」
「何が?」
「私たちに縁のないこんな島でも、私たちの言葉が通じるんだもの。」
……なるほど。そんなことは考えたこともなかった。
今の時代、ロマリアやアルディアなどの強国の恩恵を受けて息をしている国々は、彼らの提示する「共通語」を使わなければならない。さらに今の世界情勢の下に、旗を掲げている土地で彼らの恩恵なしに生きていられる場所などない。つまり、「言葉が通じない」なんて事態は余程辺鄙な土地にでも足を踏み入れない限り、出会うことは決してない。
そして、その「辺鄙な土地」、言い換えれば、地図の上で名前の無い「未開の土地」は現在、世界的不可侵区域に指定されている。その境界には必ず何処かの軍が警備をしていて、怪しい影があれば無条件で制圧、撃退の厳戒令が発布されている。
世界を飛び回る『賞金稼ぎ』でさえ、其処へ立ち入ることはない。毎年、命からがら逃げ延びた犯罪者や止まない好奇心に乗っ取られた研究者たちが彼の地を求めて命を落とすというニュースを耳にする。
そういう事情の上で言えば、リーザが奇妙に感じていることも納得できる。
……グウゥゥゥ
病み上がりで真面目に頭を働かせ過ぎたのか。ソイツは俺たちの間に無遠慮に割り込んできた。
「……」
「……」
鳴り止んで数秒、俺たちは何とも間抜けな顔で見詰め合った。そして俺は誤魔化すようにハニカミ、それを見たリーザは抑えきれずに苦笑した。
「ここにある果物は好きに食べていいって、この家の人が言ってたわ。」
「……悪ぃな。」
「どれでもイイ?」
「ああ。」
色の良さそうな二つを選び、リーザは流しへと持っていく。その粛々と歩く後ろ姿はまるで召使いのようにも見えた。
「そういや、リーザ、体調はどうなんだ?」
戻ってきた彼女から一つを受け取り、彼女の顔色を見ながら尋ねてみた。
「まだ少し足元がフワフワするような感覚はあるわ。」
意外だった。彼女の性格を考えたら、自分の不調は隠すかもしれないと思っていたからだ。
「それだけか?節々に痛みがあったり、吐き気があったりはないか?」
「うん。起きて直ぐは全身がヒリヒリしてはいたけど、今はそれもないわ。」
リーザの言う浮遊感はおそらく、急な高度変化で覚えた恐怖が感じさせる幻覚のようなやつだ。
「全身がヒリヒリする」ってのも、海面に叩きつけられた時の打ち身か、塩水に長時間浸かっていた際に起きた脱水症状の一つか、クラゲに刺されたかだろう。何にしても今はなんとも無いと言うなら、それは軽度の症状で治まったってことだ。
とにかく、減圧症の後遺症はないようで安心した。
「……ねえ、エルク。」
「ん?」
食べかけの果実を見下ろすリーザの瞳は、どこか思い詰めていた。
「……どうしたんだよ。」
その表情に俺まで食欲を忘れて、続く言葉に不安を覚え始めていた。
「もう、置いて行かないで。」
「え?」
「私、あんな強がりを言ったけど、やっぱりエルクに置いて行かれるのは堪えられない。……すごく苦しかったの。」
リーザは胸に手を当てて体を縮こませ、肩を震わせた。
「お、おい、大丈夫かよ。」
目覚めたばかりだからか。リーザが何にそんなに怯えているのか俺には分からないでいた。それでも俺は彼女に何かを仕出かして、彼女をここまで追い込んだんだ。その姿はまるで、『炎』に囲まれ蹲っている自分自身を見ているようだった。
「何言ってんだよ。約束したじゃねえか。ずっと傍にいるって――――」
言った瞬間に、銀の船を目の前にしたあの瞬間、自分の視界がどれだけ狭くなっていたかを思い出す。
俺は彼女を置き去りにした。纏わり付く疎ましい『炎』を握り潰すために、彼女に火の粉が振り掛かろうとしていることも顧みないで駆けだしてしまったんだ。
「……すまねえ。」
俯くリーザに届いているかどうかは分からない。こんなにも不甲斐無い自分が恥ずかしくて、届ける勇気も湧いてこなかった。
「俺、短気だからよ。すぐ頭に血が昇っちまうんだ。」
「……うん。」
辛うじて、リーザは返事をした。
「でも、信じてくれよ。俺はリーザを見捨てたりなんかしねえ。」
「……うん。」
反省はしている。でも、この気まずさはどうしたって自分の力では拭いきれない。
すると今度は彼女が、抱きかかえる身体を静かに起こし、腫れぼったい目を俺に向けて言う。
「……私こそごめんなさい。エルクがどんな気持ちで生きてきたかも知ってるのに、私ばっかり、我が儘みたいなことばっかり言って――――」
「止めろよ。」
彼女の謝罪は心に響いた。
「リーザを護るって決めたのは俺なんだぜ?それを、我が儘とか…、言うなよ。」
歯痒かった。どうすれば何もかも上手くできるのか知りたかった。
何もかも護りたい。何もかも助けたい。でも、俺はいつも誰かを犠牲にしてる。……そして今回もまた、俺は自分の『炎』で火傷をする。
「ごめん、エルク。私も同じ気持ちだから。私もエルクを助けたい。でも、やっぱり、どうしても自分を一番に考えちゃう。」
握り締めた拳に添えられる彼女の手は温かい。
「分かってる。だって私たち、似た者同士だから惹かれ合ったんだもの。」
温かい手は、添える拳と一つになることを求めているように力が込められていく。
「だから、私、信じてる。私……、エルクが好きだもの。」
迫ってくる黄金色の額に体は仰け反るけれど、握りしめる手に引き寄せられる。
そして、柔らかな唇がソッと重ねられる。
――――瞬間、『炎』とか『悪夢』とか頭の中でモヤモヤする何もかもが、風に舞う塵のように吹き飛んだ。
この身体も、空気の中に溶けてなくなってしまうような気がした。
彼女の温もりが、俺の何もかもを奪っていく……
名実共に、嘘偽りなく、俺は彼女に隷従する一匹の化け物になってしまった――――