シュウが仕事に出たまま帰ってこない。書き置きやメッセージもない。
一月姿を見せないのも珍しくないけど、今回に限って嫌な予感がした。
それに、俺たちは今夜中にインディゴスを出る。その前に打ち合わせの一つもしておきたかったんだが。
…今は夜の7時。
「ちょっとその辺、見回ってくる。1、2時間で戻ってくるから。」
緊急時の対処と信号灯の扱い方を教え、俺はリーザを家に残して夜の町に出た。
夜行性のインディゴスは昼よりも人で賑わう。小さな立呑屋から人が溢れる光景は昼の陰気臭い面をいくらかマシに見せてくれる。
さあ、どこを探してみるか。
とりあえずこの町で贔屓にしてるバーに行ってみることにした。
「なんだ、エルクじゃねえか。いつこっちに来てたんだ?」
程よく暗い。店内の広さに対し照明が十分な光量を発してないからだ。そもそもの照明の数だって少ない。
BGMも蓄音機が一つあるだけで、食器のぶつかる音の方がウルサイ。
それでも観葉植物やら水槽、開店中にも拘わらず積み上げられた椅子が壁の役割になって別のテーブルの話し声は聞こえなくなっている。
マスターに聞くと、「酒を飲むと人はどうしたって内緒話をしたくなるから」だとか「グラスの音一つで酒の味が変わるもんだ」だとかいう理由でこんな物静かな雰囲気にしているらしい。
それはマスターなりの気配りやバーテンダーとしてのプロ意識がそうさせているのかもしれない。
けれど、酒の味を知らない俺からすれば酒を愛してる奴らの背中が惨めに見えてしかたがねえ。
だから時折店内に響くキューが玉を突く音。玉と玉がぶつかる音。玉がポケットに落ちる音も、コソコソと隠れて人の裏を掻こうとするインディゴスの性格をよく表しているようでどこか物悲しく聞えちまう。
「3日前。ところで最近、シュウ見てないか?」
俺もシュウも好んで酒を飲む方じゃない。それでもマスター、ビル・ベイクマンと名前で呼び合えるのは、たまに無償でマスターの面倒事を引き受けたりしてるからだ。
厄介な客を追い払ったり、厄介な荷物を運んだり。依頼人との顔合わせの場所にも使ってる。
だから『シケタ客』以上『便利屋』程度の認識を持ってもらっている。
「なんだ、シュウ探してんのか?生憎、ここ数日は顔を見せてねえな。」
…諦めて帰るか。それとも、もう少しだけ探してみるか。
「それで、何にするよ。」
そう言ってきたビルは心なしか浮き足立っているように見える。
「いや、やめとくよ。少し急いでるからさ。」
「なんだ。せっかく良いモンが見られるってのに、見ていかねえのか?」
そういえば珍しく店の中がザワついていやがる。いつもは席の半分埋ってりゃ繁盛だって店がほぼ満席なんて。
この町もいよいよ本格的な職業難なんじゃねえか?
「なんだ、マジシャンでも雇ったのか?」
それともストリップショーか?客だけじゃなくスタッフ連中も奥にあるステージに視線を向けてソワソワしてやがる。
「この町には惜しいくらいのとびきりのショーさ。まあ、細けえこと聞かねえで見てけよ。」
すると、注文もしていないビールが寄越された。
「……トマトジュース。」
「いつまでも酒の味が分かんねえんじゃ、アルディアに轟く『炎』の名が泣くぜ?」
ビルはクツクツと笑いながらも手際よくドリンクを作って寄越した。
『炎』は賞金稼ぎとしての俺の異名だ。ここ東アルディアではそこそこ名が通っている。
そのお陰で今回も、同業者に追われずにすんだことを考えれば、まあ悪くない称号だった。
店内の様子を窺ったりビルと他愛もない会話をしていると唐突に、陰気な酒場に似つかわしくない甲高いヒールの音が店内に響き渡った。
「お、そろそろ始まるぜ。」
シケタ町の冴えない店だが、そのヒールが音を立てれば、店の四隅に溜まった埃が「気品」に変わって舞い上がってるように聞こえた。
酒の入った粗野なコールも、心なしか和らいでに聞こえてくる。
薄暗くて姿は見えないが、彼女の真っ赤なヒールだけは薄闇を切り取ったかのようにやけに映えて見えた。
優雅な足音とは裏腹に、淡白な歩調で長身の女がステージの中央に進み立つ。
降ろされたスポットライトを真っ直ぐに浴び、現れた短髪の美女はピアノに厭らしく片手を添えると、挨拶もなしに歌い始めた。
『And with the twinking of the light…』
……奇妙な感覚だ。
10m以上離れたステージからマイクを使ってるのに、カウンターにいる俺の耳元で囁いているように聞こえる。
歌の内容は、小洒落た町の恋する音楽家たちの心情を粋な言い回しで表現したものだった。
彼女の歌声は、まるで寝物語を聞いているかのようにありありと情景を浮かべさせる。
知らない歌だった。
彼女自身を題材にした歌なのか?
浮かぶ情景に現れる片想いの女は彼女と同じ姿をしていた。
そして、切ない情景の合間々々に、歌とは関係ない人間の影が見える気がした。
傷つき、泣いている女。
迫られ、奪われ、逃げている女。
彼女はずっと泣いてる。
片想いよりも残酷な、戦場よりも血に塗れたな運命が彼女の身体を深くユックリと、切り裂いていく……。
曲調はとてもシットリとした、グラスを傾けて一日の終わりを噛み締める男たちを労う優しい歌だ。
だけど、どうしてだか俺にはこれが悲劇を歌っているようにしか聞こえなかった。
歌を聞けば聞くほど、歌のために整えたであろう声で日常を過ごしている彼女の姿が頭にこびり付いた。
両耳に着けた大きめのフープイヤリングは天使の輪のように幻想的な輝きを帯び始める。
…非現実的な光景。
そう、彼女は本当はこの世にいない人なんだ。
歌う時だけこの世に姿を見せる「妖精」。
そう思わせるだけの歌唱力が彼女にはあった。
「誰だ、あれ?」
「まあ、黙って聞いてろよ。」
ビルは目を瞑ったまま、慣れた手付きで洗ったグラスを磨きながら歌姫の声に酔いしれていた。酒臭い男連中も口を噤み、歌に聞き入っている。まるで年代物のワインの香りを楽しむように。
それだけの価値があるってことは俺にでも理解できた。
学はない、でも彼女の歌声は俺が知ってるどの楽器よりも「命」に溢れていた。
聞いているだけで心の疲れが溶けて消えていく。
「夢見心地」、そんな言葉でしか表せない自分がもどかしく思えるほど、彼女の声は美しかった。
「…良い歌だな。」
歌姫のアンコールは鳴り止まなかった。歌姫はその後も2、3曲ほど歌い、惜しまれながらもステージを後にした。
「子どもでも分かるとなると、ますます大したもんだよな。」
睨め付けると、ビルは満足げな笑みを浮かべて話を戻した。
「つい先日、流れてきたばかりでな。試しに歌わせてみたら、これが大当たりよ。」
たった数日でこの人気。あの歌唱力なら納得できたが、彼女にはもっと別の『何か』が魅力としてあるような気がした。
「こんな町に流れてくるなんて、どうせ札付きなんだろ?」
「だろうな。詮索はしてねえが、彼女の周りにゃ常に怪しい連中がいるって話だ。この町の人間ならそれだけで十分な名刺代わりだろ?」
ビルいわく、裏口にガタイの良い黒服の男が迎えに来ているのだとか。身売りや犯罪組織の穏便なやり口としては、なに珍しくはない。それにしては歌のレベルが高過ぎる気もするが。
聖歌やオペラを聞いたかのような清々しささえも覚える。できればまた聞きたい。
この俺でさえそう思わせるほどに、彼女は本当に優れた歌手だった。
「なんだって構わねえさ。犯罪者だろうと貴族様だろうと、しばらくはあの歌姫に稼いでもらわにゃ。」
「そうだな。」
願わくばまたここに戻ってくる時までは。
彼女のいなくなったステージ上に、「歌姫」の姿を思い描く。
ライトアップされた彼女の、僅かに青みがかった短めの髪は、ガラス管の中で放電する青い稲妻のように繊細で危険な印象を覚えさせた。
「まあ、誰にでも言いたくないことってのはあるよな。」
「なんだ、ガキのくせ一丁前になこと言いやがって。」
「あ?」
「そういう知った風な口を利きたきゃ、まずはグラスの一杯でも乾かしてみるんだな。」
ショットグラスをチラつかせながらマスターは楽し気に言った。
「…暇な時にな。」
店を出ると俺は無意識に深呼吸をしていた。おそらく、中と外の空気が全く別物に感じたからだ。それは夢の国から出国する手続きのようだった。
「帰るか。」
時計塔を見上げると夜の8時半。リーザが飯を作って待ってるかもしれない。