男が、倒れていた。
雷鳴に引き裂かれた夜が落ち着きを取り戻し始めた頃、舞台上を覗き見るとそこにはまた、予想を裏切る光景が広がっていた。
そして、その光景の中心に立つ無傷の野鹿はまた、その瞳に別の色を宿していた。
野鹿の濃褐色の瞳に忍び寄るのは、無数の『夜』。
「一体、何をするつもりだったのだね?」
ゾロゾロと、野鹿を取り囲むように物陰から現れたのは、飛行船の周囲を彷徨いていた『黒づくめ』たちだった。
――――コイツらは、ヤバい
瞬間、俺はそう感じた。
甲板に上がってからついさっきまで、俺は何度となくこの舞台を見回した。だが、何処にも人影らしきものはなかった。雷野郎の『力』だって、船の至る所を焼いたはずだ。それなのに、コイツらは気配さえ感じさせなかった。
そして今は反対に、この漆黒の闇夜の中でさえ陰ることのない黒を纏ったこの存在感は、野鹿たちを上回る化け物として感じずにはいられなかった。
10数人寄り集まった男たちは皆、黒のスーツで身を固め、黒のソフト帽を目深に被っている。その姿はまるで、ジャケットを広げれば羽根に、帽子を取れば赤い目と黒い耳が……。そう、甲板の上に横たわる蝙蝠たちに……いいや、もっとヤバいものに化ける気がした。
黒づくめの一人が、落ち着いた足取りで数歩、野鹿に近寄った。
「君は死なない。何故なら君は我々の大切な客人であり――――、」
野鹿もまた、俺と同じ感覚のようだった。さっきまでは蝙蝠に狼をぶつけることに躊躇などなかったのに、今は飛び掛かろうとするソイツを必死に押さえ付けている。
彼らが近付いても、野鹿は退がらない。退がれないのかもしれない。狼だけが主人の安全を護ろうと唸り声を上げ、黒づくめたちを牽制し続けていた。
「そして、」
しかし、首輪の付いた犬には「興味がない」とでも言うように、進み出る黒づくめは毒々しくも甘い声で慄く野鹿を誘惑し続けた。
「――――、私たちの大切な家族になる人間なのだからね。」
突如として現れた役者の声は台詞は台詞染みていた。そこには演じる『意思』すら感じられない。
「さあ、どうするね?」
しかしその役者の声は、今までの誰よりも甘く、重く舞台を響かせる。空気に溶け込んだ男の声は、肺に絡み付き、吐き出すことも叶わない。
俺が掻き立てる『勇気』を踏み躙り、前へ、前へと進む。
「君がこれ以上、我が儘を言わなければ無駄な犠牲は出ない。」
男は登場から数分の内に、舞台の全てを掌握していた。
『犠牲』……、それは雷野郎のことなんかじゃない。間違いなく、今、この場に居合わせた俺のことを指している。
「勿論、その獣の同行も許そう。」
狼は睨め付ける黒づくめの視線に萎縮などしない。しかし、主人を押し退けて襲い掛かることもしない。
完全に、全ての決定権を一人の女の子に委ねている。
――――彼女は逃げられない。
俺は、どうしようもないこの現状を打開する手段が彼女にないことを覚った。
例えこの場を切り抜けたとしても、黒づくめたちの目はこの国の全てを見ている。
「我々が、君の身の安全を保障しよう。」
奴らは偽りの『正義』を笠に、あらゆる人間、あらゆる機関を味方につけて追い詰めてくる。
この国でマフィアは、警察よりも強力な権限を持っている。
世に現れる有能な人間は皆、彼らに取り込まれる。それは最早、この国では常識になりつつある。
そして、彼女が逃げ、見付かる度に『犠牲』が舞台上に横たわることになる。今、奴らが口にしたことは伊達でも酔狂でもない。
年端もいかない女の子が堪えられないような惨状を、繰り返し見せ付ける。そうして彼女から、逃げる『意欲』を削ぎ落としていくつもりなのだ。
蝙蝠を目の前にしても臆さなかった野鹿が、明らかな怯えの表情を顔に貼り付けていた。恐らく、黒づくめの言葉も碌に耳に入ってないに違いない。
しかしそうなると、ここでもまた――――、
「……そうか。そうだったな。人は、『結果』を経験して学ぶ生き物だということを失念していたよ。」
ビクリと肩を震わせる野鹿。
……そう。元から奴らのシナリオでは、『俺』という生け贄がこの無味乾燥な祭壇に捧げれることになっていたのだ。
「ルガータ。」
名前を呼ばれた大男がズイッと群れから一歩前に進み出ると、リーダー格の男はまるでよく知る旧友を呼びつけるように、馴れ馴れしく俺の名を口にした。
「『炎』のエルク。出てこないか。我々の姫がお前の踊る姿を見たいそうだ。」
バタッ!
金髪の女の子は躓き、前のめりに倒れ込んでいた。
彼女は立ち上がる間隙さえ惜しみ、リーダー格の裾を掴んで目を見開き、男に懇願するのだった。
「私、行きますから!言うこと聞きますから!」
「本当かね?」
「……本当です。もう、逃げませんから。」
女の子は、その小さな唇から吐き出される一言一句が、その身を彼らの用意する檻に縫い付ける呪いの言葉になることを知っているようだった。
「先程のような危険な真似も、今後しないと誓えるかい?」
「……はい。」
俺はまた、出るタイミングを逃してしまった。
「そうか、これで我々も安心できる。無論、君もだ。リーザ・フローラ・メルノ。」
男は金髪の女の子に手を差し伸べた。
「我々は君を歓迎しよう――――」
しかし、それが女の子に届くよりも早く、狼が割って入り、牙を剥く。
「パンディット、大丈夫だから。……お願いだから落ち着いて。」
彼女は言葉を染み込ませるように、熊のような体躯に手を添え、深く、深く、顔を埋めた。
「これは失礼。どうやら君の友人はまだ気持ちの整理がついていないらしい。」
「こちらこそ、すみません。この子には、よく言って聞かせておきますから。」
「……フム、二人は本当に良い友人なのだな。我々も君の友人に理解してもらえるよう、誠心誠意を込めて持て成さねばなるまい。」
それもまた、彼女への呪縛にしか聞こえなかった。
「君は先に行っているといい。私たちはこの散らかったゴミの後始末をしなきゃならない。」
「後始末」という言葉に、過剰に反応した女の子は思わず男の顔を見上げ、信用するだけ空しい男たちの言葉を確認した。
「約束は……」
男は手を胸に添え、あくまで紳士的な口調をもって女の子を宥める。
「『安心だ』と言ったばかりじゃないか。心配することは何もない。彼を手に掛けることもしない。この一命に誓おう。」
男の言葉に『嘘』の色はない。女の子もそれを読み取ると、狼の身体を支えに起き上がり、夜の群れの中へと歩み始めた。
……俺はまた、『彼女』に助けられた。
俺は、無様だ。
普段なら、これくらいの逆境にビビることなんかないのに。『炎』の中で見た光景がダブっただけで足が竦んじまってる。
物陰で蹲り、頭を抱え、聞こえてくる『呪詛』を懸命に追い出すことしかできないでいる。
――――すると、何処からともなく心悲しいオルゴールの音色が聞こえてくる。
その郷愁を誘う旋律は、どこかで聞いたことのある曲だった。
……とても懐かしい。そうだ、これはいつかの友だちが好きだった曲。けれどもそれは、俺にとって別れの曲でもあった。
耳鳴りのように鳴り始めた旋律は、俺の視界を万緑で染め始める。新緑の絨毯に、翠色の天井。そして、鋼鉄を思わせる濃い深緑の城壁。
それは延々、延々と続いた。走れども、走れども、それは変わらず俺たちを真っ直ぐに見据えていた。化かされているかのように、二人は『緑』の中をデタラメに走り続けた。
絨毯は悪戯に二人の足を取り、天井は二人の居場所を逐一囀る。そして、城壁は二人の進む先にイチイチ立ち塞がっては、二人の無力を見下し、北叟笑む。
「私はもうダメ……」
旋律は、『緑』の中で蹲って咽び泣く女の子までも浮かび上がらせた。
「アナタだけでも……、逃げて……」
女の子の手を引いていたはずの男の子は、幾度となく振り返りながらも女の子から遠ざかっていく。
「……お願い……」
『緑』の彼方から飛んでくる怒号に押し潰され、女の子の泣き顔は少しずつ歪んでいく。
「きっと……、待ってるから……」
――――オルゴールは鳴り続ける。女の子のか細い悲鳴を隠すために。
――――オルゴールは鳴り続ける。男の子の頼りない嗚咽を隠すために。
気付けば俺は立ち上がり、得物を両手に分不相応な舞台へと上がっていた。
もう板金を爪弾く心悲しいメロディは聞こえてこない。
別れの歌は、蹲る男の子の、耳を塞ぐ臆病な手の平から鳴っていたからだ。