間もなく、アザラシはキツネの小さな顎に捻じ伏せられたまま、動かなくなった。
化け物同士が争うことは珍しくなかったし、どちらかと言えば見慣れているはずだった。
それなのに、その化け物の後ろに非力な野鹿がいるというだけで、なんだか全く別の、『宗教画』を見せられているような気分にさせられた。
それはどうやら雷野郎も同様だったらしい。見てはならないものを前にしたかのように目を見開き、バカみたいに口を開けたまま固まっている。
俺だって唐突な野鹿の登場に度肝を抜かれたが、隙だらけの雷野郎を見て反射的に体が動いていた。
四方には蝙蝠たちが潜むのにお誂え向きの闇の溜まり場が幾つもあったが、奴らが俺に狙いを付けて動き出すよりも俺の得物が雷野郎に届く方が速いはずだ。
それに不思議と、背後から蝙蝠たちに襲われても「援護してもらえる」という安心感があった。
俺もまた、暗闇を利用しているからか。雷野郎はまだ『宗教画』に見惚れていやがる。
ここまで近付けたなら『力』を使う間も与えずに仕留められる。このまま終幕まで一気に持ち込んでやるよ!
だが、そんな俺の読みは少しばかり甘かった。
野郎まであと数歩というところで、途端に視界がグラリと傾いた。いいや、視界が揺れたんじゃない。体勢が崩れたんだ。
咄嗟に持っていた鉄パイプを奴目掛けてブン投げ、俺自身は無我夢中で受け身をとって野郎から離れるように転がり、そのまま物陰に飛び込んだ。
ハッキリと確認はしていないが、どうやら俺の得物は野郎に命中したようだった。声を荒げるバカがそれを教えてくれた。
「!?クソォッ、テメエッ、どこに隠れやがった!」
俺を燻り出そうと四方八方、滅茶苦茶に放電している。その放電が逆に俺の身を隠してくれているということも知らずに。……完全に冷静さを欠いている。
単なる眩暈とは違う。平衡感覚を失くしてしまったような感じだ。若干の吐き気もある。
あの取り乱し様から、さっきのは雷野郎の仕掛けてきた攻撃じゃないってのは充分に理解できた。……おそらく、アイツには本当に『雷』しか取り柄がないんだろう。ノロマを無視して俺は『闇の溜まり場』に目を走らせた。
まさかこのタイミングで、ただの体調不良なんてことはないだろう。
となると、これが噂の『超音波』ってやつか?見えないし、聞こえない飛び道具ってのは本当に厄介だな。直接、襲い掛かってきたら、今度こそ燃やしてやるのに。
『音』が相手じゃあ、俺の『炎』も役に立つかどうか怪しい。奴らが潜んでいる位置もハッキリしない。そのくせ、こっちは丸見えなんだろうけどな。
その上、野鹿はどうしてだか無防備に立ち尽くしている。
……さあ、どうする。
「チクショウッ!テメエら、奴はどこだ?!」
……まさか、蝙蝠を使って俺の居場所を探れるってのか?クソッ、反則じゃねえか。
ハッタリかもしれないことを考慮に入れ、俺は物陰伝いにもう一度、奴に近付く。すると――――、
「ギイィィイイッ」という窓ガラスを引っ掻いたような耳障りな音と、「ガシャアァン」というシャンデリアが落ちて砕けたような音が連続して闇夜の中を駆け巡った。
振り返り、表舞台の様子をザッと見渡す。
するとそこにはまた、俺ではない方に視線を奪われている男がいた。
「な、なんなんだよ。テメエはさっきから。」
その『瞬間』を目にしたらしい雷野郎はワナワナと震え、今度こそ戦意を喪失させようとしていた。
獣でありながら空を自在に飛び回る蝙蝠の、竜の如き強靭で巨大な片翼が氷り漬けにされ、地面に激突した衝撃で砕け散っていたのだ。
ギイィィ、ギイィィイイ、ギイィッイッ
……それは畏怖で染められた服従の声。地を這いずる一羽のそれは伝播して、忽ち仲間の恐怖が夜空に木霊する。
目を凝らせば、闇の沼から鰐のようにヌルリと顔を覗かせては潜る『狩人』たちの姿を確認することができた。生き残りは決して多くない。精々、2、3匹だ。
ハッキリとした『力』の差を感じ取った『無音』の彼らが、最大の武器である『隠れ蓑』を自分たちから脱ぎ捨て始めていた。
それを仕出かしたのはまたしても、野鹿が連れていた狼だった。どんな手を取ったのかまでは見ていない。だが、ソイツは闇に潜む狩人を一羽ならず、二羽も蹂躙したのだ。
そして、まさにアザラシのように陸をのた打ち回る狩人は、キツネの顎に頭を掴まれると噛み砕かれるでもなく、痙攣と共に息絶えた。
……不自然だ。得意の超音波を使うでもなく、無防備に狩人は殺られた。仲間の援護もない。
そして、けたたましかった彼らの警笛はいつの間にか聞こえなくなっていた。気のせいか、この場から飛び去ったかのように穏やかな夜風が頬を撫でる。
「……テメエ、何をしやがったんだ。」
雷野郎の声もまた、狩人たちと同じ色で染め上げられていた。
どうやら、本当に蝙蝠たちは奴の手を離れたらしい。
それが、耐え難い『恐怖』がそうさせたことなのか、新たな『主人』の命じたなのかは分からない。だが、ただ一つ確実なのは……、これは俺の出る幕じゃないってことだ。
一体全体、何がどうなってやがるんだ。
野鹿の狼にしてもそうだが、大凡4、5匹は従えていたであろう雷野郎も、俺にとっては「驚愕」としか言いようのない現実だった。
人間が、『化け物』を操るってことは犬猫を躾けるのとは訳が違う。例えるなら、麻薬で狂ってる無法者を意のままに動かしているようなものだ。それこそ、魔法か何か奇跡的な『力』がなきゃ、従わせるどころか、意思の疎通だって無理な話なんだ。
それなのに、目の前の二人は俺がこの五年の間に叩き込まれてきた『常識』を悉く打ち壊しやがる。
野鹿は――俺に向けた警告を除けば――、甲板に現れてから一言も言葉を発していない。戦闘は番犬に任せ、自分はただジッと、人形のような無感動な瞳を雷野郎に向け続けている。それは、逃亡を懇願してきた『少女』の目とは全く別物だった。
「ゆ……、許してくれ。」
俺は、姿を現すことさえ躊躇った。もしかしたら、ここに残った二匹の化け物は人間すら操ってしまうかもしれないからだ。
「裏切った訳じゃないんだ。」
「裏切る」?コイツら身内なのか?それにしては纏ってる空気が違い過ぎるようにも思える。
「俺は言う通りにやったさ。なのに、どいつもこいつも、俺の言うことを聞かねえんだよ。」
体裁も忘れて必死に命乞いする野郎に、野鹿はやはり『無言』で返し、狼の臨戦体制を解く様子もない。訪れる結末へ向けての「心の準備」をさせているように見えた。
「ち、ち、違うんだ!」
一歩、狼が足を前へ踏み出しただけで、野郎は声を裏返し、女のような悲鳴を上げた。
「違うんだ。俺は、姉さんを、姉さんを……、姉さんを遠くに――――」
――――そうだ。俺は姉さんを何処か遠く、平和な場所まで逃がさなきゃならないんだ。そこで静かに、幸せな暮らしをしてもらうんだ。
でも……、俺は逃げられない。ここで、死ぬ。奴らの皮を一枚剥げば、そこには溢れ出るくらいの悪魔がいるんだ。……悪魔しか、いないんだ。
「違うんだ。俺は……、俺は……、」
『無抵抗』の色を見せていた野郎の声から、『狂気』の色が滲み出す。震える両手からは、パシパシと空気を割る『力』が訪れる嵐を前に色めき出す。それでも野鹿は微動だにしない。まるで、格下の相手に分を弁えさせるように。見下すように。
俺もまだ、行動を起こすかどうか決め兼ねていた。
見たこともない化け物同士の仲間割れがどんな展開を生むか分からないからだ。二匹の背景もハッキリしない。正直に言えば、話が予想外の方向に進み過ぎて、まだ整理が追い付いていなかった。
何のことはない。俺もあの野郎と同じだ。
野鹿の『無言』に動揺しているだけなんだ。
それから目を背けようとする程に、『炎』は俺の身体に深く、深く爪を立てる。
――――息苦しい
『金髪の女の子』なんて世界中に何人いるか分からない。
それなのに、「逃がしてください」と懇願したあの野鹿の姿は、俺の中の『何か』を燻る。氷点下の『炎』が俺の肺をチリチリと焼いている。
俺は何時々々でも乱入できる姿勢を見せておきながらその実、足が竦んでいた。
今、この瞬間にも『脅威』が『彼女』を襲おうとする光景に、手を差し伸べることが、酷く恐ろしく感じられた。
そして、事件は俺の心の準備を待たないまま起こった。
「俺は、俺は……、俺はぁぁあ!」
容赦無く迸る閃光と劈く炸裂音に俺は思わず、怯える子どものようにその場に蹲った。
……それは、その雷鳴と全く同時だった。
パアァンッ
轟く咆哮に、一発の火薬の音が紛れ込んでいた。