――――それは、今までに一度だって出会ったことのない色と形をしていた。
俺は、求められるままに、懐に隠した全てをそれの前に曝け出し始めていた。
常にグラグラと機嫌を悪くしてる『炎』も、今は主人に甘える飼い犬のように『とろ火』の顔を見せている。
その瞳は、不思議な居心地の良さを感じさせた――――
殺す殺さないの物騒な仕事の最中に紛れ込んだ一匹の可憐な野鹿が、おっかなびっくり、鼻先でソッと俺の『炎』に触れたような気がした。
「……逃げるって何処へ。」
どうして『理由』でなく、場所を聞いてしまったのか。それは無意識のことだった。
「私は、故郷に帰りたいんです。」
見た感じ、都会から来たという雰囲気じゃない。どこかの山奥にヒッソリと構える農村の娘といった感じだ。
その山間の所々には雪が降り積もっていて、しかしそれでも足を取られることはなく、器用に駆け回る野鹿のようだった。そんな長閑な印象があるだけに、ソイツが余計に気になった。
「その化け物を連れてか?」
野鹿は俺の言葉にピクリと体を震わせ、答えに詰まらせる。
主人の前に立ち開かる化け物に目を移すと、逐一、俺の挙動を警戒しているものの、ソイツからはもう『熟れた殺意』は感じられない。
「……おっと、イケネエ。」
知らず識らずの内に、野鹿たちの『空気』に飲まれていることに気付いた。
なんにせよ、野鹿に「操られている」ような様子はなく、彼女を守っている――かどうかは疑問だが――化け物からも、今すぐに何かをやらかすという気配は感じられなかった。
「とにかく理由は分からねえけどよ、少しここで待っててくれねえか。こっちの用事を済ませたらすぐに戻ってくるからよ。……あと、分かってるとは思うけどよ、今この船は危ねえ奴が彷徨いてるから、できるだけ息は潜めてた方がいい。」
言い残すと俺は直ぐさま、その部屋を飛び出し、逃げ回るチンピラの追跡を再開した。
興味はあった。色々と話を聞きたいとも思った。
だが俺も、やさぐれた稼業ではあるが、一端の社会人だ。金に意地汚い大家がウルサイというのもあるが、引き受けた仕事の責任は最後まで背負う義務が俺にはあった。
特に今回は公的機関が絡んだ緊急の依頼だ。俺を紹介した大家と組合の面子もある。最善を尽くしておかないと、それこそ文字通り『袋叩き』に遭いかねない。
野鹿は部屋を飛び出す俺を呼び止めるでもなく、黙って見送っていた。まるで、留守番を言い渡された子どものように、ジッとこちらを見詰めていた。
……もう少し、優しい言い方があったかもしれねえな。でも、こっちも急ぎの用事なんだ。許してくれよ。
ほんの少しだけ『後悔』を胸に抱きながら、俺は船の中を駆け回った。
野鹿の件も含め、随分と時間を浪費をしている。もしも、雷野郎が寄り道せずに逃げの一手に絞っていたのなら、既にこの船を脱出していてもおかしくない。
それを肯定するかのように、機械音だけが辺りの空気を満たしている。
黒づくめたちの気配さえ感じない。
「それでも、奴は何処かで待ち構えている」そんな根拠のない確信が、頭のどこかにしぶとく残っていた。
それらは「嫌な予感」となって俺の胸の内を燻ぶり始める。
加えて俺は、今更ながらに野鹿たちへ淡い猜疑心を覚え始めていた。
野鹿の瞳を見た瞬間に感じた郷愁のようなものが『違和感』に変わっていた。
催眠術から解けた直後のような、居心地の悪さが脳ミソに靄をかけている。
「これがアイツの『力』って訳か?」
『魔法』なんてインチキが存在している世界に「不可能」なんて何一つない。……なんてことはない。あの女もまた、この世界の住人だったというだけのことだ。
その結論に至った時、彼女の瞳にもまた、『悪夢』の色が宿っているような気がした。
こっちの仕事を済ませた後、ついさっき交わした『約束』をどうするか。雷野郎を探しながら俺は頭の片隅で考えていた。
すると、甲板まで目前というところで情報にない痕跡に遭遇する。
「……おい、生きてるか?」
またしても作業員が一人、倒れていた。今度は完全に気を失っている様子だ。
そしてまた、違和感を覚える。
コイツはどうやら『感電』したショックで気絶しているらしい。制服から覗く肌には軽い火傷が見られた。それに若干、コゲ臭い。
もしも、コイツが事故でなく、あの雷野郎にヤられたのだとしたら、一人目の作業員をヤッた奴は別人だ。
一人目に遭遇した時に気付くべきだったのかもしれない。よくよく考えれば、あんな小物が暗殺者レベルに刃物を扱えるはずがない。あの作業員のそれはそんな玄人の傷だった。
ただ、あの傷に対してあの出血の量なら、ヤられてからそう時間は経っていないはずだ。雷野郎の仕業と勘違いしてしまうくらいだから間違いない。
……ってことはやっぱり、あの黒づくめたちはまだ、この船の何処かで何かをしている。
さらに、わざわざ自分たちの存在を教えるような真似をしているんだ。あの雷野郎のための伏兵って可能性は低くなってくる。
だったら一体何者なんだ?組織を裏切ったあの金髪を始末しに来たって口か?あの金髪は何者だ?
少なくとも、雷よりも厄介な連中に違いない。
俺は一人目にしたのと同じように、濡らした銅線を二人目に向かって放った。すると――――、
「アァアアァァッ!!」
銅線が触れるか触れないかの瞬間に、作業員から真っ白な火花が飛び散った。俺は飛び退り、天井を走るパイプの一つに掴まって異変が収まるのを待った。
「……」
放電が止み、作業員に近付いてみると男はもはや、息すらしていなかった。全身から肉の焼けた臭いが煙と共に立ち昇っている。
おそらくは「『人間』が触れたら放電する」ような魔法でも掛けておいたんだ。もしも、この方法でなんの反応もなかったら俺は、一人目と同様に応急処置をするために直接触れていた。
「もしかしたら、奴を先に倒せば魔法は解除されたかもしれない」
「けど、そもそも初撃で致命傷だったかもしれない」
「だとしたら、俺が奴を倒して戻ってきても結局死んでいたかもしれない」
「だからといって、下手に応援を呼んで二次被害が出たらそれこそ俺の判断ミスだ」
対処した後になって、悔やむのは手順書のないこの仕事ではよくあることだ。『正解』の行動があるとも限らない。『正解』でも殺す時は殺す。
「悪いな。」
それでも、できるだけ自分に非がないように思い込まないといけない。でないと……、やっていけない。
この仕事はそういう『役目』に適した人間を製造する仕事でもある。
「重要なのは、『憎悪』しないことだ。自分にも、犯人にも責任を擦り付けるな。そうなってしまったのは全て、『自己責任』の範疇だ。」
俺を育てた黒装束は、その手の感情操作はお手の物だった。というよりも、彼が感情的になった瞬間を見たことがない。常に、刃物そのもののような顔をしている。
「そうは言うけどよ、シュウ。」
タラップを駆け上がった先では、強い夜風が俺たちの気配を掻き消そうと唸り声を上げていた。
空には、俺の『悪意』を嗅ぎ付けて現れたかのような厭らしい満月がニヤニヤと俺たちを見下ろしている。その腹立たしい顔はどことなく、家賃の値上げを考えるビビガに似ている。
「ムカつくもんはどうしたってムカついちまうもんだぜ。」
お望みとあらば見せてやるよ。とっておきのエンターテインメントをよ。
自分でも分かるくらいに眉間に力が入っている。視界が研ぎ澄まされ――暗闇に囚われることなく――、刹那に奴の姿を見つける。
この苛立ちの全てを受け止めるべき矛先を。