――――ダメだ、乱れるな。
老い耄れの術中に呑まれてはいけない。俺は皆を乗せる船なんだ。
青年は気高い白銀の船を心に浮かべ、波打つ心を落ち着ける。
その時、青年の目に、相も変わらず不安げな表情を張り付けている楽士の顔が映った。
「ポコも、俺が何か間違っていると思うのか?」
この楽士の少年は――そう聞かずにはいられない――、なんとも情けない顔を作るのが得意だった。
少年は臆病な人間だった。幼い頃から強い者に虐げられてきた彼は、『意見』などという自己主張が、柄のない刃物に思えてならなかった。
「……僕には、アークやゴーゲンが話しているような難しいことは理解できないよ。」
目の前の青年もまた、少年を苛める『強い人間』という人種の一人と変わらない。
「でも、向かってくる人を皆、倒しちゃうのは何だか違う気がするんだ。」
しかし、少年は知っていた。青年は、無理に『強い人間』を振る舞っているだけなのだと。
先導者という立場に就いてしまった自分は、『強い人間』でなければならないと気負っていることを。
それはどことなく気弱な自分に似ている気がした。何より、青年はそんな少年を同じ『強い人間』として受け入れてくれた人だった。
「これ以上は上手く言えないけど、違う気がするんだ。……ゴメンよ。」
「親友だ」と言ってくれた人が同じ刃を握ってくれている。だから少年は常出来る限り、親友のためになることをしようと心掛けていた。
「……」
ポコの言動はいつも腑に落ちない。口数が少ない分、大事なことが曖昧だったりする。それでもポコの拙い言葉は、ゴーゲンの経験豊富なそれに劣らず「俺に欠けているもの」を教えてくれる。
そして俺は、どうしてもそれに応えたいという気持ちになる。
多分、大事なんだろう。『ポコ』という人間は、仲間の中でも特別な存在だと感じているんだ。
なぜならポコは俺たちとは違って、本当に『優しい人間』だからだ。
そう、10年前に家族を捨てた夫を今も想い続けている母さんのように。
青年は逼迫した状況下でも辛抱強く考え、少年の問いの答えを探す。
すると、妖艶な白磁の盃に酔わされた猿が、口下手な少年の言葉を補うように二人の間に割って入る。
「アーク、解ってやれよ。」
猿の声色は常より少し高く、常よりも懐が緩んでいた。
「闘って勝つだけじゃあ、組は育たねえ。……そういうことなんだよ。」
それも仕方のないことで、出番もなく待たされ続けた猿は随分な量の酒を呑んでいた。
「国を造ったり、世界を救うってのはそんなに敵を作るのが大事なのかよ?」
それでも、数年前まで若頭と呼ばれていた男には、これから自分たちがすべきことの全体像がよくよく見えているようだった。
「仲間をつくること」に抵抗がある訳じゃない。
『力』を分散させた組織と闘うのなら仲間は多いに越したことはない。俺たちを追跡する船に敵意がないのなら、まずは保護し傘下に加えようという判断にも賛同できる。そこに疑問はない。
だが、今の俺たちが、そんなに簡単に懐を許してしまっても良いものかどうか。俺はそれが気掛かりでならない。
今の俺たちはあくまで『国際指名手配犯』だ。そして、俺たちをこんな状況に追いやった『敵』は、全世界の政情を容易く動かすことのできる強大な敵だ。
ポコやトッシュの認識が甘いと言いたい訳じゃない。
「こんなところで要らぬ『正義』を気取って、追跡者を無駄に巻き込んでしまうのではないかと考えるのは、俺が臆病だからか?」
「アーク、そりゃあ考え過ぎだ。」
「考え過ぎ?これは人の命を懸けた選択だぞ。」
『闘う人生』、それを『幸せ』と呼ぶことはできない。闘いに参戦したならそれはもう個人の問題じゃない。友人も、家族も巻き込むことになる。
たかが「一年」。だが俺はそのたかが一年で、それが『真実』だと痛感した。
その上、俺たちは世界の命運を懸けた戦いをしている。これは冗談半分なんかじゃない。俺の承諾一つで、世界が滅ぶかもしれない。それは事実だろう?
それなら、俺たちに関わりを持とうとする者たち相手に慎重になるのは必要なことなんじゃないのか?
「……アーク、落ち着いてよ。」
少年に促されて、青年は今一度、雄壮な白銀の船体で揺れる自分の身を固める。
「……すまないな。」
分かってはいるのに。若さのせいなのか、すぐに熱くなる癖はなかなか消えてくれない。
「悪かったな。俺も少し熱くなっちまってたらしい。」
赤毛の酔いも冷めたらしく、俺を気遣っていた。
「だけどよ、これだけは言っておくぜ。」
赤毛は、彼の魂でもある刀を握り、それに言い聞かせるように語り始めた。
「俺にとっちゃあ、目の前の10人や100人を助けるなんざ楽勝だ。けどよ、今の俺はテメエの役に立たなきゃ意味がねえんだよ。」
口にしながら、鞘と鍔の間から微かに漏れる『殺気』には『無念』の色が籠っていた。
「テメエにはテメエにしかできねえ仕事。雑魚には雑魚にしかできねえ仕事ってもんがあるだろう?」
トッシュは故郷に盃を交わした100人近い義兄弟がいた。敬愛する義父も。
彼らと共に生きてきたトッシュだからこそ、駒の使い方も心得ている。その必要性も。
「適材適所」、そんなことは分かっている。
「それは、俺の采配が杜撰だといいたいのか?」
「そうは言ってねえだろ。……俺は、そうやって無理に肩肘張って考えた命令にゃ碌な結果が待ってねえって言いてえだけだよ。」
そうは言うが、考え無しの指揮に何の意味がある?
「分からない。ハッキリ言ってくれ。俺はどうすればいい。どう言えばお前たちは納得するんだ。」
従う意思がないのなら自分たちで勝手にやれば良いだろうに。どうして俺を頭に据えようとするんだ。
「あー、諸君。聞こえるかのう。」
その時、艦内に船長の声が響いた。
声色は低めだ。それだけで、彼の話す内容に大体の目星はついた。……要は、『時間切れ』なのだ。
「白熱した議論を交わしておるようじゃが、儂らを追ってきた船は今しがた落ちよったぞい。」
曲がりなりにも『先導者』の立場にいる俺としては『恥』としか言い様のない報告だ。
誰のせいでもない。皆を纏めきれない俺の力不足が招いたことだ。
――――若干の沈黙が、場に陰を落とす。
「どうする。様子を見に降りてみるか?」
無線から響く男の声が、やけに遠く感じられた。
「……いいや、いい。周囲に警戒しつつ、そのまま当初の進路を保ってくれ。」
大した事じゃない。ただ、目的も分からない追跡船が一機、海上に落ちたというだけのこと。
それなのに、何だ。この敗北感は。誰と争った訳でもない。ただ、身内で多少揉めただけだというのに。
「俺は『指揮官』として機能していなかった」それだけのことが必要以上に俺から魂を奪っていく。