紅い将軍はクツクツと昂る感情を口許から溢し、更なる熟考を重ねていた。
彼が『勇者』や『運命』に敗れる確率は決して低くはない。しかし、今の彼がそれらに対して『怖れ』を抱くことはあり得ない。
それは勝利を確信しての『傲慢』ではない。彼が、自身の存在こそが『恐怖』であると確信しているからだ。
彼は一個にして数多の『命』の塊だった。
心も体も完成した一個の『合成生物』。それは他者に造られた存在でもなく、先天的に備わっていた特性でもない。
それは彼が永い年月を掛けて勝ち得た『進化』の形なのだ。
まだ、彼が単なる『一個』であった頃、彼は確かに生物として正しい『戦慄』を覚えていた。
『生』を手放さぬために他者を喰い、『死』を遠ざけるために他者を滅ぼした。
そうして彼が食べ続けたもの、それは他者の『畏怖』だった。
鳥を食して翼を生やすように、途方もない数の『恐慌』を喰らい続け、いつしか彼は『恐怖』そのものへと進化していた。
故に、彼が自身の『終焉』を目の前にしたところで、それは姿見に映った自身を眺めていることとなんら変わりないのだった。
だがそれで彼の『進化』が、彼の『生』の変革に終止符を打つことはなかった。
エルクに出会うまでの彼は寧ろ、自分の『死』が訪れることを今か今かと待ち望む嫌いがあった。
「幾千、幾万の『怖気』を喰らった今の儂はそれに見合うだけの『死』が乗っているということだろう?」
彼は舌舐りをする程に、自身の『死の味』を妄想した。
しかし終ぞ、それに見合う勇者や神々は現れなかった。
そして、彼は少年に出会った。
10才そこそこの未成熟児が『復讐』と『悪夢』の板挟みに遭い、悩み、苦しむ様を見たその時の彼は、また一つ別の扉を開ける。
今の彼は殺人から政治経済、果ては歌手の育成にまで幅を利かすことのできる――それは王にも勝る――奇才と多才を備えた『猟奇的な喜劇王』へと見事な変態を遂げていた。
彼は『生』と『死』の食卓を時間を掛けて愉しむ。
彼はそれを意のままに操りたいと貪欲になる一方で、それらに裏切られることを心から望んでいた。
少しでも永く、少しでも永くそれらを味わうために――――。
このアルディアを手中に収めた儂がよもや、女神の首を落とされ、聖母の回収に振り回されるとはな。将軍という地位がなければこの首も一緒に落とされていただろうよ。
だが、王の信頼は間違いなく失った。
まぁ良い。もう暫くは奴らと遊んでいるのも悪くはない。
「市民に被害は出たか?」
「いいえ、ありません。損壊した女神像の破片は全て、対象を避けて落下したようです。」
……微かに精霊の臭いが残っている。
全く、役に徹しきれん『悪』の所業はどうにも後味が悪い。『アーク一味』を引き立てる『監督』の身にもなって欲しい。
しかし彼は事も無げにそれを成し遂げてしまう。
「見たか、これがアークという犯罪者の遣り口だ。」
紅い市長は低く、唸り声を上げるように語り始めた。
「奴らは汗水、いいや、時には涙さえ流して造り上げたこの町を踏み躙り、我々を嘲笑い、支配者を気取っている。」
苦々しく、重々しい市長の言葉は聞き取りづらい。しかし、そこに集まった人々に届かない言葉は一言たりともない。
「幸いにして、今回のことで大きな被害は出なかったものの、そもそもアークは我々の命など眼中にない。何故なら奴らは一国の王さえも虫螻の如く斬り捨てる悪魔だからだ。」
唸りはやがて熱を帯び始める。それは大気を媒体に、耳を欹てる聴衆に否が応でも伝わっていた。
「我々は黙って悪魔にこの世界を譲り渡すのか?いいや、我々が造り上げてきた町は我々のものだ。この国は我々アルディア国民のものだ!」
獅子の如き市長の咆哮は彼らを萎縮させ、誰が『王』であるかを再認識させた。そして、『王』の言葉は弱き『人』の心に『炎』を点し始めるのだった。
「殺せ!アークを殺せ!!」
彼の言葉は数千人の静寂の中に遍く響き渡る。
その苛烈な『王』の一言は、『人』の中に燻る『獣たちの最後の枷』を解き放つ。
「……そうだ、殺すべきだ。」
一匹の、何気無い一言はウィルスのように二匹、三匹と伝染する。
「……相手は国王殺しだ。殺されて当然じゃないか。」
「……奴らは悪魔なんだ。そうじゃなきゃ、こんな惨い真似ができるはずがない。」
焼け落ちた女神を見上げ、彼らは独自の解釈を上乗せしていく。
塵が積もり、山となる頃には、式典のお祭り騒ぎに乗じたために居合わせただけの野次馬たちの心にさえ現象は伝播していた。
『病』は止まることを知らない。
「殺せ!」
「悪魔を根絶やしにしろ!」
「一刻も早く!」
躊躇いがちだった非道徳的な言葉は、まるで神がそれを許したかのごとく正論として声高らかに叫ばれ始める。
「奴らの腸を引き裂き、野に曝してスメリアへの贖罪にしろ!」
それは市長の予想したままの、醜悪さと、獰猛さを顕していた。
「これだから人間遊びは止められん。」
変貌し、膨れ上がる民衆はどんどん真実から遠退いていく。そして市長が親近感を覚えるほどに醜く爛れ、一つの生き物へと成長していく。
式典は、成功を収めていた。
会場は、首を落とされた彼女に捧げるはずの讃歌ではなく、彼女に手を掛けた咎人を断罪する叫び声で満たされていた。
謂れのない被害を受けた彼らに、『犯罪者』への殺意を抱かせること。
それこそ、女神たちによる泰平を面白く思わない、紅い男の企みに他ならなかった。
そしてそれは、彼にとって易し過ぎる仕事だった。
メディアは彼の言葉を更に誇張し、アルディア国民の間では瞬く間に『アーク排斥運動』の意識が高まっていった。
同時に彼は、このアルディコ連邦、引いては全世界におけるプロディアス市長の印象の掏り替えも計っていた。
それが一時的なものでしかないことも理解している。だが、それで十分だった。
何故なら、彼らが書き上げた台本のハッピーエンドへの下拵えは既に完遂されていたからだ。
―――さぁ、逃げ回れ小僧ども。儂とHide and Seekを楽しもうじゃないか。