男は『技術』を身に付けたその日から、残された生涯を『陰』に徹するつもりで生きてきた。
それは砂漠で少年を拾った後でも変わらない。手助けこそすれ、馴れ合いはしない。支えられる事だけを熟し、自立していく姿を見守るつもりでいた。
だが彼は今、そうやって長年向き合ってきた『己』が唐突に他人のような表情を見せたことに若干の『驚き』を覚えていた。
男は、少年を殴り飛ばしていた。力の加減こそすれ、それは今の彼にとって『本気の一撃』に変わりはない。
受け身も取らずにまともに拳を受けた少年もまた、朦朧とする意識の中、彼から受けるはずのない『仕打ち』に目を白黒させていた。
「少し、そこで頭を冷やしていろ。」
その声は確かに『恩人』のもので、その言葉は確かに『育ての親』のものだった。
少年は、目の前の男が『彼』を装った『偽物』であるような気がしてならなかった。
殴り飛ばした男もまた、経験のない自身の行動に説明がついていなかった。どうして、そういう行動に出てしまったのか理解しかねた。
5年間付き合ってきた彼は、少年の『闇』を十分に理解しているつもりだった。だとしたなら少年の『陰』として、少女を放置し、『闇』の一端を担っているであろうシルバーノアを追撃するのが『筋』であるように思えた。
……いいや、違う。
『少女を護ること』もまた、少年が打ち払うべき『闇』の一つであることを、男は辛うじて思い出すことができた。それは男にとっても待ち望んでいた『救い』のように感じられた。
やがて、少年は自分の置かれた状況を把握するまでに回復した。同時に、鎮まったはずの『憎しみ』が急激に息を吹き返した。
それでも、今の少年には『理性』があった。男の言うことは正論で、自分の行動は確かに間違っているという『抑制』が掛けられる程度の。
『理性』に侵されまいとする『感情』もまた、牙を剥き出して唸り声を上げ続けている。
しかし、少年が力ずくで男に抗うようなことはなかった。
内側では、『炎』の勢いを大きく、大きく膨らませながらも、『育ての親』に逆らうことを身体が拒絶していた。
ただただ歯を食い縛り、憎らしさを面に出す以上に、少年が男に抗う良い方法が分からないでいた。
間もなく、小型飛行船は町の入り口に辿り着こうとしていた。
「落ち着いたか?」
何が解決した訳でもない。殴られた頬がジンジンと痛むだけだというのに、あれだけメラメラと少年を焼いていた『炎』は、不思議と下火になりつつあった。
「ああ、悪かった。」
『痛み』が、少年に自分を護り続けてきた『親の背中』を思い出させたのかもしれない。それが、聞き分けのない『感情』を宥めたのかもしれない。
そして、少年はまた一つ『彼』に恩をつくってしまったことを後悔する。
15という節目の年齢を迎えた少年はひたすら、『彼』に恩を返していくつもりだった。
借りたものすら返せない人間にも拘わらず、周囲に「一人前」と言われただけで、『できる』と勘違いをしていた。
いいや。だからこそ、なのかもしれない。
少年は、成長を見せない自分自身に腹立たしさを覚えていた。
「まずは俺の話を聞け。」
黒装束の彼は、少年から視線を逸らしたまま『自分の仕事』の話を続けた。
「お前の希望通り、『シルバーノア』はお前に追ってもらう。だが、それで『追うもの』が二つに増えるのは反って手間だ。『リーザ』は必ず手元に置いておけ。」
『彼』は優しかった。言葉も表情も乏しい人間だが、少年に沢山のことを丁寧に、根気強く教えられる人間だった。
その『彼』が怒り、殴った。それは少年に『罪悪感』を覚えさせるには十分な出来事だった。
少年は知らず識らずの内に、『彼』に沢山のことを気付かされていた。
「……リーザは『物』じゃねえ。」
「……そうか、それはすまなかったな。」
これもまた、分かっているようで分かっていない、大切なことだった。
船を降りる直前、黒装束は少年に少女の居場所に心当たりがないか再度尋ね、行動の目的、無事確保した後の段取りを簡単に説明した。
だがしかし、船から降り立った彼らを、「出来過ぎている」と漏らした黒装束の『懸念』がまた一つ、待ち構えていた。
「やはり件の逃亡者はお前たちだったのか。」
迅速な行動が求められる二人の足を止めたのは、彼らの同業者だった。
『直向きなハイエナ』と呼ばれる彼の名は、クーガー・ボルト・ビルバノッチ。
『ハイエナ』という名前とは裏腹に、彼の容姿は如何にも異性を惑わせるような、整った顔立ちをしていた。しかしそれは、彼の『信念』の上で必要なことであり、色恋に感けてのことではない。
『ハイエナ』の名は、『正義』に実直で『災害の種』をいち早く嗅ぎ付け、墓場まで追い回すような彼の性格からきていた。
その『ハイエナ』が二人を指して「件の逃亡者」と言った。
二人の間に緊張が走り、目の前の『敵』にどう対処するべきか各々、しかし―――5年間を共に生き抜いた二人は―――限り無く近似した思考を巡らせていた。
ハイエナは少年の顔色が変わるのを確認すると、勝ち誇ったような声色で話を進めた。
「ギルド連中が渋々俺に話を持ち掛けてきたのさ。」
彼は年相応の活躍を見せないエルクを『危険視』していた。
「持て余す若い『力』は、必ず『悪』を呼び込む」それが彼の持論だからである。
「なあ、エナート。リザベラが見当たらないようだが。大丈夫なのか?」
その言葉を聞いた時ほど、少年がギルド連中を呪ったことはなかった。
「……クーガー、リーザに何かしたのか?」
少年は、同じ『過ち』を繰り返していることにすら気づけていなかった。
5年間、『賞金稼ぎ』という常人以上であることを求められる仕事に身を置きながら、『少年』は未だに15才の『少年』のままだった。
『炎』が目の前にチラつけば頭に血が昇り、『炎』に『炎』で応えようとしていた。
その結果、『誰か』を危険に曝し、その度に『彼』の手を煩わせてしまうことも忘れて。
しかし、それでも『彼』は少年の『陰』として、何度でも少年の背後に立ち続けることを厭わない人格の持ち主だった。
「エルク、落ち着け。ギルドが『身内』で人選を誤ることはない。これはただの挑発だ。」
そうだった。ギルドの人間は、自分たちがどんな私情を抱えていようと仕事には忠実な連中だった。それは仕事を受ける側の俺やクーガーも例外じゃない。
それでもシュウは素早く小銃を引き抜き、目にも止まらぬ早業でハイエナに照準を合わせていた。
「クーガー、何のつもりか知らんが俺たちは急いでいる。乗るか降りるか、今すぐ選べ。」
シュウの『威圧的な行動』は、これからハイエナが徹底的に展開させるであろう『探り』を無視するためのもの。
なぜなら既に、シルバーノアは広場から離れようとしていたからだ。
「シュウ、それは俺の質問の答え次第……ってオイッ!」
物陰から飛び出してきたのは『野鹿』だった。真っ直ぐに俺の懐に飛び込んできたかと思えば、赤く腫れた目を俺に見せつけ、頬を勢いよく叩いた。
そして、『怒り』とも『悲しみ』ともとれない声で俺を詰った。
「……アナタは私を捨ててもいい。でも、私はアナタを護って死ぬわ。」
睨み付けたかと思えば、また俺の胸元に顔を埋めて呟いた。
「だから、私の目の届かない所には行かないで。」
母が、子に願うような。そんな切実な声に聞こえた。
それは『覚悟』というものの度を越しているように思えた。どうしてそこまで俺に構うのか、分からない。
……いいや、そんな訳ない。考えようとしていないだけ。砂漠で『彼』に拾われた俺なら理解できるはずだった。
そう。彼女には今、俺しかいない。『信用』とか『信頼』を預ける相手ではなく、自分の『命』を預けられる相手は俺以外誰も。
「エルク、急げ。見失うぞ。」
俺が沸騰した頭でグルグルと考えている内に、シュウはクーガーからここまでの経緯を聞き出していた。
促されて空を見上げると、白銀の機影はすでに米粒のように小さくなっていた。待機していた『市長』側の小型戦闘機が5、6機群がってはいるが、足止めになっている様子はない。
どうする、リーザがこんな状態なんだ。諦めるか?けど、それじゃあ、せっかくの手掛かりが……!?
「お、おい、リーザ。」
『野鹿』が、もたつく俺の腕を強く引いていた。
「シュウさん、あの飛行船を追えばいいんですよね?」
『野鹿』は、『狩人』とは程遠い眼差しで消え行く銀の船を睨む。
「……そうだ。ヒエンを使え。操縦はエルクに任せれば良い。」
聞き届けるや否や、返事もなく俺を引き摺り、彼女は走り出した。
クーガーから姿を隠していたらしいパンディットが、少し離れた所を並走していた。
ヒエンまでのほんの短い距離を、俺は彼女に導かれるように走った。
その後ろ姿は俺に、『覚悟』した人間の本当の姿を教えているように見えた。
どうやら少女は見立て以上の働きをしてくれているようだ。
初見では、少年の『闇』を少しでも明るくしてくれればとしか期待していなかった。だが、どうやら彼女は『エルクの闇』を根本から断つつもりらしい。
それが狙ってしていることなのか、成り行きのことなのかは分からない。だがそれは、『陰』であることに縛られている俺では、例え今後5年、10年を費やそうとも手を出すことすらできなかったことなのだ。
それを思うと、感謝に絶えない。
「……何を考えている。」
だからこそ、俺はこの男にそれを聞き出さなければならなかった。
この状況下で、ハイエナの『正義』なら少年の『悪夢』の一欠片になっている方が自然に感じられたからだ。
「……別に。ただの、気紛れだ。」
問い詰めるよりも先に、ハイエナは妙に疲れた顔をしていた。そして、俺がその気になるよりも早く、『陰険な正義』はポツポツと本音を吐き始めていた。
「ギルドから、『愛人を護ろうとしてる』と聞いた時は何の冗談かと笑ってやった。だが、懇々と説き伏せに掛かってくる奴らを見たら笑えなくなっちまってな。」
『正義』は、見えなくなった二人を追いかけるように、遠い目をした。
「……それ以上は口が裂けても言えねえな。」
そして一度だけ、長い瞬きをすると、彼は日頃見せる『獣』の顔に戻っていた。
迂闊にも俺は、その姿を羨ましいと感じてしまった。
『陰』であろうとする男にも、ハイエナのそれは辛うじて理解できた。
『ハイエナ』にもプライドがあり、家族があった。そんな人間が『情け』を知らないはずがない。
常より、非情でいなければならない『賞金稼ぎ』の仕事で掛けられる数少ない『それ』は、自分たちが『人間』であることを思い出す最後の砦のようなものだった。
それは、この式典の影の主役でもある青い歌姫にも同じことが言えた。
獣に戻ったハイエナは、何も告げずに去っていった。
その背中を見送る『陰』は、一筋の光が自分に射すのを感じ、改めて自分を諫める。
そして、二人の乗る船の離陸を確認すると直ぐさま、『陰』は『影』へと潜った。
――――アルディア湾上空――――
少年と少女が船に乗り込み、空へと昇った時にはすでに、銀の船の姿は消えていた。
少年は船の限界まで速度を上げて目標を探すが、一方では背後に控えている少女の様子が気に掛かっていた。
「……俺がこう言うのも何か変かもしれねえがよ、クーガーには何もされなかったか?」
それは今さら気にしたところで遅い話な上に、具合の悪いことを蒸し返す話題だった。
「エルクが飛び出した後、あの人は直ぐに、追いかけようとする私を止めに現れたわ。」
淡々としていた。怒鳴り散らしたいところを必死で我慢している様子が手に取るように分かった。
リーザによれば、クーガーはただギルドから請け負った仕事だからと彼女を安全にその場から逃がしただけらしい。必要なことを伝えると、それ以上は視線すら合わせなかったという。
何か余計な詮索をしてきた訳でも、黒服連中と口裏を合わせていた訳でもなかったという。
大凡いつもの『正義』と変わらないが、『ハイエナ』らしくはないように感じられた。
すると、リーザは変わらず声色を殺して俺の邪推を否定した。
「エルク、普通の人にも、遠ざけたい『悪夢』の一つや二つあるものよ。」
それは、暗に俺の幼稚な『考え』を卑下しているように聞こえた。
そして、視線を伏せたまま、声を殺したまま、少女は少年に伝えなければならないことを告げた。
「私は、この町まで私を逃がしてくれた時のエルクの『声』を忘れられない。」
それは少女の心の奥深くに突き刺さっているものだった。
「だから貴方が私を見捨てても、私は貴方を護りたいと思う。どんなに貴方が憎くてもそれは変わらない。だって――――、」
少女の瞳は、少年のそれを捕らえ、思いの丈をぶつけた。
「だって、私にとってたった一人の、私を想ってくれた同じ『化け物』だから。」
少年は僅かに寒気を覚えた。だが直ぐに『考え』を改めた。
リーザの言っていることは何一つ間違っていない。俺も、彼女も、同じ『化け物』。
棲む場所を追われ、化け物を奪われ、『憎しみ』に彷徨う孤独な『化け物』。
そんな二人が出逢い、『心』を通わせることができた。
そして今もまた、『悪夢』が俺たちの胸に『炎』を点そうとしている。
だったら、護らなきゃならない。彼女も、俺自身も。
少年は思う。
少女を護り、少女に護られ、二人の『炎』を二人で払おうと。
それでも、少年が『野鹿』のそれと同じ想いに至ることができるという明確な自信は持てなかった。
しかし、少年の成長を待つほど事態は優しくない。
――――銀の機影は、彼らの前に姿を現した。