少年は炎に護られていた。
だからこそ、自らを焼き払おうとする少年の手は掴まれ、啓し続けられてきた。
忘れてはならない
身を挺した者の心に抱かれ、お前は強い者を知らなければならない
涙した者の血を汲み、お前は弱い者を知らなければならない
護られた数だけ、護らなければならないことを
忘れるなかれ、我が魂を受け継ぎし『炎の御子』よ
―――しかし、名も知らぬ者の加護を甘んじて受ける者は多くない。少年もその例に漏れることはなかった。
さらに、『名も知らぬ者』の語る言葉は、少年の柔らかな心を深く、より深く抉り取った。
『名も知らぬ者』が語るそれは、少年の『過去』。
彼が自ら手に掛けた『それ』は、最も身近な者の『死』。命あるが故に燃え盛る肉親と親友の『悲鳴』と『命乞い』の怨嗟。
そこから『生』と『死』を正しく学ぶには少年は剰りにも幼過ぎた。
少年は『炎』を知らず、『炎』は少年を知らなさ過ぎた。
語れば語るほどに少年は『血』と『涙』から目を背け、耳を劈く『叫び』は曲解され、少年の心をジリジリ、ジリジリと炙り続けるのだった。
彼は知る―――、
他人が点けた炎は、罪を産む『悪夢の顎』。
己の身から零れ出る炎は、罪を遠ざける『懺悔の業火』。
―――少年は『炎』をそう、名付けた。
――――そして今も尚、少年の目に『名も知らぬ者』は映っていた。
それは……、どこかで見知った光景に思えた。
それは、俺を駆り立てる『何か』であったはずなのに、記憶に霞が掛かっていて思うように身体が動かない。全身のスイッチが入らない。
だが、瞬きをした刹那、空覚えだったその光景が、瞼の裏にありありと現れる。
あれは、女神の降臨を讃える聖火なんかじゃない。あれは、祭りを盛り上げる電飾でもない。
それは拷問の如く、何度も、何度も執拗に俺を追い回し続けてきた陰惨な『炎』だった。
人も森も空も、心さえも焼き尽くす『悪夢』だった。
そして、朱に染まる宙を悠々と泳ぐ白銀の魚も俺は、知っていた。
少女はすぐに気づいたが、反射的に手を伸ばしたそこにはすでに捕まえるべき少年の姿はなかった。
彼は地上5階の窓を突き破り、高さ20mはあろうかという中空に躍り出ると、地上まで真っ直ぐに続く壁を舐めるように駆けていく。
人間離れした動きで、グングンと遠ざかっていく。
背後から懸命に呼び掛ける少女の声など、追い付かせないほど速く、機敏に。
「行かないで、エルクっ!!」
―――少年は今、『過去』の中を走っていた。否定することで、あるはずのない『何か』を取り戻そうとしていた。
そして現在、望んで護ろうとしていたものを手放していた。
――――プロディアス近郊――――
時を同じくして、黒装束に身を包んだ男は町よりも一段高い台地の上にいた。
彼は少年と同じものを見、少年が思い描くであろう”情景”を察した。
そして、第三者である彼は、すぐにその「絵図」が誤りであることに気づいた。
……出来過ぎている。
それが男の、始めに出てきた『答え』だった。
アルディア湾上空を飛ぶ白銀の船の名は「シルバーノア」。辺境の島国”スメリア”の元王族専用大型飛行船、この世でたった一機残された船。
それを装った同型機であったとしても、この演出を見るエルクの目には「シルバーノア」以外の何ものにも映らないだろう。
そして、それこそが連中の目論みだ。
以前、エルク自身がシルバーノアの写真を指して仇であるようなことを仄めかしたことがあった。
アイツの記憶の中にボンヤリとその時の光景が焼き付いていたのだ。
それが今、断定に変わった。
連中は労せずして邪魔者を消そうとしている。エルクという『化け物』を使って――――。
不安を抱きながら、黒装束は最終点検の終えた機体のエンジンを掛けた。機体の名前は「ヒエン」、ビビガ所有の小型飛行船。
そもそもは町中の適当な地点で待機し、場合に応じて敵を狙撃する予定だった。
だが、彼の第六感がいち早く「狩り」の破綻を察知し、狙撃を諦め、現場からの離脱を最優先に切り替えたのだ。
しかし、現状は彼の直感を上回り、さらに複雑な展開を見せていた。
さて、どうしたものか……。
エルクが『炎』でシルバーノアを墜すにしても地上から離れ過ぎている。手頃な足場もない。
となればアイツは必ずこの船を取りに来る。
エルクの泊まっていたホテルからなら、乗り物を調達したとしても10から20分は掛かる。
だがエルクが、現段階でまだ船撃ち落とすことを諦めていないのなら、少し後手に回り過ぎたかもしれない。
何故なら、シルバーノアに着岸する様子がないからだ。降りる気がないのだ。
あれが連中の用意した「演出」であるなら尚更だ。
仮にアレの乗組員が降下作戦を取ったとしても、あの一機で制圧可能な目標物が女神像の他に見当たらない。
市長を狙うにしても、タイミングが悪すぎる。ここまで騒ぎを大きくしたならそれなりの警戒網が張られ、手が着けられなくなっているはずだ。
つまり、『Hit&Away』。用が済んだらさっさと引き揚げるのが一番自然に思える。
だとすれば俺に「待機」の選択肢はない。
だが、だったらどうする。こちらからエルクを拾いに行くか?
態々連中の目論みに嵌まるというのか……。
……いいや、それで良い。
どちらにしろ、今回はこれ以上の成果は見込めない。
連中もあの船も早々に切り上げ、尻尾も掴めずに終わるだろう。
だったら今は、「罠に掛かった」と興味を持たせておくべきだ。
あれが「シルバーノア」で、俺の考えが早計であったとしても、実際に起きている町への損害。世間の市長への信頼が甚大な被害をこうむることは間違いない。
そうなると「市長」と「シルバーノアの持ち主」が敵対関係にある可能性は高い。
船の攻撃に対し、連中が態とらしいくらいに無防備なことも、エルクにそういう印象を持たせるための偽装なのだろう。
だがやはり、「答え」を出すにはまだ早過ぎる。
その真偽を確かめる上でも、エルクたちには船を追わせ、俺は次の仕掛けに移るであろう連中の動向を探るのが妥当だろう。
……エルクが暴走したとしても、逃走中の船がヒエンごときをまともに相手をすることはあるまい。
小型飛行船に搭乗できる人数は6人と少ないが、代わりに飛行速度は一般大型船よりも勝っている。
しかし、目標であるシルバーノアは仮にも王族専用機。
一般機を上回る加速装置、もしくはそれに連なる退避行動を取る装置が備わっていると考えて間違いない。さらに、今やあの船は「幽霊船」だ。
いくらヒエンでも、エルクを撒くだけなら容易いことだろう。
問題は―――、
黒装束は視点を敵から味方へと切り替えた。
すでに小型船の離陸を終え、低空飛行でプロディアスまでの最短経路を辿っている。
問題は、正気を失くしたであろうエルクが、リーザを保護し続けているかどうかだ。
「シルバーノア」が罠であるというのも、俺が出した仮説に過ぎない。アレが囮で、本命はやはり「リーザ」ということも十分にありえる。
だが、エルクがあの船を相手にしたとして、連中も、国際手配にまでなった猛者たちを相手に、エルクが「全滅させる」とまでは思うまい。
ならば、エルクは「捨て駒」か?
……いいや、俺が把握している限りでも、連中の企みの一つに『人体の改造手術』があることまでは突き止めてある。
そして、連中は事あるごとにエルクを監視し続けてきた。なぜなら、エルクがそこから抜け出したきた「被験体」の一人だからだ。
しかし今の今まで、手は出して来なかった。……成長を待っていた?時期を見計らっていた?
何を?……「リーザ」か?
違う。「リーザの脱走」は事故だ。……そうなのか?同時期に起こった能力者の「ハイジャック」も、か?
……違う。
やはり、出来過ぎている。
理由は何にせよ、「リーザの移送」も「ハイジャック」も身内でやったことだ。
エルクによれば、ハイジャック犯は組織への反乱らしいが、貴重な被験体の管理がそんなに杜撰な筈がない。リーザのようなさらに特殊な『能力』であれば尚更だ。
「ハイジャック」も「リーザの行動」も連中の計画の範囲内ということだ。
ならば連中はハイジャックを使ってリーザの脱走を手助けしたことになる。
……何故だ?
リーザを逃がして連中に何の得がある?
エルクと引き合わせるためだとでも言うのか?「ハイジャック」はその――能力者を充てることで、極力、エルクが呼び出されるように仕向けた――陽動作戦か?
それならハイジャック犯の「単独」や「穴だらけの犯行」、「不明瞭な動機」も納得できないことはない。
……それでもまだ、何処かに見落としがある感があるな。
どこに?
……やはり「リーザ」だろう。
あの子の『力』は貴重だ。エルクに預け、まかり間違って死なせでもしたら……。
いいや。これもまた、奴らの「実験」なのだとしたら?
彼女の『力』がエルクという『化け物』にも通用するものなのかという。
こういう時のためにエルクを野放しにしておいたのか?
黒装束が仮説に仮説を打つけ、真実を暴こうと思索している間にも、事態は刻一刻と進んでいた。
空では青年が船長に命令を下し、銀の魚を反転させ、巣へ帰ろうとしていた。
そして焼け残った地上からは、それを逃すまいと『憎悪』の双眸を持って駆ける少年が現れたところだった。
「やはり……、一人か。」
黒装束は小さく嘆息を漏らしながらも、迅速に降下し、少年を拾う。
仮説の域は出ないが、連中の目的はエルクと「シルバーノア」の潰し合い。「被験体の回収」。当面は、この両方を視野に入れて動いた方がいいだろう。
「シュウ、あの船を追ってくれっ!」
「そのつもりだ。だが、その前にリーザを拾う。」
意識の外にあった名前を出され、少年は僅かにたじろいだ。
その表情を見届けた黒装束の男は、少年に続けて尋ねた。
「今、何処にいるか、分かるか?」
少年にも自覚はあった、叱責を受けて当然だということも。だが、今の彼は尋常ではなかった。
「それよりも、アイツだ。見失っちまう!」
その様子を見るほどに、黒装束の男は苛立ちを覚えていた。