市長の眼前は、瞬く間に『災厄』に呑まれていく。
男が『望み』を棄てかけたその時、それは正しく、神の如き『威光』を纏って彼の前へと姿を現したのだ。
「……突如、アルディア湾上空に銀色の機影が出現。アーク一味の使う『シルバーノア』に間違いないかと。」
それは『突如』という言葉の通りだった。誰の目に触れることなく唐突に、それは『幽霊船』のような非整合性を纏った出現を果たした。
いつの間に?何時から?何処から?どうやって、ここまで潜伏して来られた?
「奴らがここまで近づけた原因は何だ。」
男の傍らに控えていた一人は黒のハットを深々と被り、薄暗い声音で主人に答えた。
「"瞬間転移"も"不可視"も使用した痕跡はありません。おそらくは"沈黙"を応用したものではないかと思われます。」
例の大魔導士とやらの入れ知恵か。あの術にこんな応用ができたとはな。
深紅の男は崩壊の中心にいながら、敗因を模索し、悠々と宙を泳ぐ銀の魚に見惚れていた。
「ガルアーノ様、退避を。」
銀の魚は皮肉にも『女神』と同様の蒼白い光を纏い、そこから舞い散る雷の花弁は、容赦なく『彼女』を焼いた。
『博愛』と『勝利』を語るはずの美しい首は銅を離れ、宙を舞う。そして、焼かれた『彼女』の瓦礫は産まれたばかりの信者たちに降り注いだ。
その惨澹たる光景を目の前にして、男は無意識に鈍く、重たい声で失笑していた。
……そんなことは、どうでも良いではないか。
『アーク』、そのたった一言が止まりかけていた男の心臓に再び『命』を与えていた。『彼』という『魂』がその言葉を待ちわびていた。
固まっていた筋繊維が悦び喘ぎ、男の身体を小刻みに震えさせていた。
「そうか……、これがお前という人間のやり方か。」
目紛るしく変わる舞台に飲まれ、『呪縛』から解き放たれた『愛すべき市民』が虫のように逃げ惑う中、男だけは待ち望んだ福音に下卑た感謝の言葉を捧げていた。
ただ一人、苦々しくも狂喜に歪んだ顔で天を睨んでいた。
「ようこそ、アーク・エダ・リコルヌ。人類に残された最後の『勇者』よ。我が領土への侵入を歓迎しよう。」
男は笑い、昂っていた。彼の中の『市長』もそれを許していた。
『彼』は起こりうる被害の規模を既に予想し終えていたからだ。そして、それは彼が築いてきた財を著しく損なうものであるからだ。
『彼』もまた、『人生』を謳歌するためだけに生まれた一個の『命』であるからだ。
女神の肉片は広場に遍く降り注ぐ。彼女を焼き終えた光の花弁は、狙い違わず、彼女の御膳立てを果たした黒服たちを一人、また一人と焼いていく。
だがしかし、彼女の最も近くにいるはずの深紅の男は、一片たりとも彼女の肉を被ることはない。黒服たちの本核であるはずの彼は一片の光も浴びることはない。
急変した現場に対応する黒服の一人を捕まえ、彼は嘯いた。
「ガルアンへ伝えろ。『撃ち落とせるものなら落としてみろ。今日は酒が飲みたい気分だ。』」
彼もまた、北叟笑んでいた。
「『人間』の安全はいかがいたしますか。」
「全て任せる。『勇者殿』に罪のない人間を殺す勇気など持ち合わせていないだろうがな。」
言いながら、彼は自身に向かって問答無用の言葉を投げ掛けていた。
「今はまだ、その時ではない」熱く煮え滾る欲望に、自らが築き上げてきた全財産を投じるべき『瞬間』は、今ではない。
彼はその悦楽の瞬間を見極めるもう一つの愉悦に興じている最中だった。
彼は決して運の良い方ではない。しかし、人並み外れた執念深さと用心深さが彼の『実力』を底上げしていた。
現状を把握するでもなく、男は『使える駒』を弾き出し、次の下拵えに取り掛かっていた。
「グルナデはシャンテを連れてエルクを迎えに行け。」
彼が一つ賽を投じれば、従う幾百の部下が動き、その数だけ被害者の『運命』が動いた。
彼にもようやく、その『力』を存分に発揮する時が来たのだ。
「今は、その前座に過ぎない」彼は重ねて自らを律する悦びを噛み締めていた。
――――アルディア湾上空――――
大海を舞い、閃光を放つ魚の頭に、二つの人影があった。
「ゴーゲン、間違っても一般人には当てないでくれよ。」
一つは利発な青年。
時折、そこにいない『誰か』へと指示を飛ばす彼は、舞い散る雷と降り注ぐ瓦礫から一時たりとも目を離さなかった。
「ホッホッホッ。お前さんこそ、後始末を誤ったりはせんでくれよ。『人殺し』の汚名なんぞ一つあれば充分じゃからな。」
一つは見るも痛わしい老醜。
しかし、今にも折れてしまいそうな細枝の指先から溢れ落ちる蒼白い光は、地上の黒い悪魔を一体、一体確実に焼き払っていった。
「よく言う。『人殺し』だけがお前の罪状じゃないだろう?」
悪怯れもなく棚上げする老父を横目で見遣りながら、青年は彼の言葉を鼻で笑い飛ばした。
しかし、老父に意に介した様子は見られず、長尾鶏のように長く地に着いた白髭を梳かしながら、青年の問いに流暢に答えた。
「儂がなんぞやったかのう?儂程の天才がしでかしたのなら、いつ何時、場所を問わず、この老い耄れの目と耳に入るはずなんじゃがな。とんと覚えがないわい。」
老父が指先を一振りすれば、彼らの背後に迫る戦闘機が数機、粉微塵に砕けた。
「またトボケるのが上手くなったんじゃないか?まるで本物のジイさんみたいだぜ。」
燃え盛る小さな舞台を見下ろし、十分と判断した青年はまた、見えない『誰か』に向かって何事かを告げた。すると、地上で躍り狂う炎たちは一斉にその姿を晦ました。
「何を言っとるのかサッパリじゃな。」
老父の『演技』は今に始まったことじゃない。
「そうやって演じるお前に俺たちは騙され続けているだろう?」
『愛想笑い』のように皮肉めいた笑みを浮かべ、青年は敢えて老父の『遊び』に付き合っていた。
「儂はただ年寄りらしく、無知な子どもたちにお伽噺を聞かせているだけなのじゃがのう。」
よくもまあ、次から次へと言葉が出るものだと半ば呆れた青年は口を噤み、眼下に広がる光景に視線を移し、焼き付けていた。
「お前さんこそ、『犯罪者』が板についてきたんじゃないか?」
そう。彼は自分の『行い』の全てが『正しい』と断言することができなかった。しかし――――、
「何だって構わないさ。俺はやるべきことをやるだけだからな。」
青年の横顔は夜の影に埋もれながらも、その内では『意志』という名の揺るがない光源を宿し、光輝くことを忘れなかった。
「やれやれ、これからも忙しくなりそうじゃな。」
「ハハハ、最後まで付き合ってもらうぜ。この物語の『主犯』はアンタなんだからな。」
「大賢者に向かって、ここまで乱暴な口を利くのは『シルバーノア』の粗暴な乗組員ぐらいじゃな。」
彼の虚言妄言は物語の『核心』を隠している。
それを知りながらも、青年は老獪な策士を信じ、舞台に背を向け、次の作戦を練るために船内へと降りていった。
「願わくば、儂一人の咎で全ての話に片が付けば良いがの。」
船体を舐める暴風に蹌踉めくこともなく、不動を決め込む老父は堕ちた女神の亡骸を見下ろし、遠からず訪れるであろう自分自身の姿と重ねていた。