エルクは『仕事』に集中していた。
人の数が多過ぎて、私には外の『声』が上手く聞き取れない。でも、エルクの瞳はハッキリと黒服たちの異様な動きを捉えているのが分かった。
エルクがそうするように、私もまた支度を整え、静かに『その時』を待つ。
彼は、町のあちこちに瞳を飛ばして、何処から攻め入るか決め倦ねていた。
彼は、勝つ戦略を模索している。
『自暴自棄』、現状を知る誰かが彼の行動を見たらその全員が口を揃えて言うかもしれない。私も、確かにその通りだと思う。
でもその姿は、今までの彼と比べたら一回りも二回りも大きい人間に見えた。
『頼もしい』そう、心から思えた。
それに、彼は信用できる人だ。それはこの数日の間で何度も実感することができた。彼に全てを打ち明ければ、最後まで力になってくれるに違いない。私も彼の手助けができればと心から想った。
―――だからこそ、怖かった。
彼はまだ15才。ついさっき見せた癇癪のように、ここぞという場面で綻びが出ないという保障はない。もしもそれが、特別な状況下だったら?
彼は私を見捨てるかもしれない。
私自身――彼と同じように――、ここまでの出来事と背負ってきた過去に向き合う心構えができていない。流されるばかりで、向き合ってこなかった。
そうすることで『悪夢』の中を、ただただ生き永らえてきた。
こんな状態で今、彼への『信頼』も失ってしまったら、私は必ず『彼ら』に対して無防備になってしまう。
それこそ自暴自棄になって、『彼ら』にされるがまま、身を任せてしまうかもしれない。
その先に立っているのは、幾百、幾千の『化け物』を従えた女。『命』を貪り、首輪を着ける非道な魔女。
それでも私は自分の命を断つことはしないだろう。
……結局のところ、私だって自分の命が惜しいんだ。だから今まで生き延びてきた。
それもまた、彼と同じように。
私たちは想い合っている。それなのに、命惜しさが私たちの間に壁を作っている。
似ているから信じられる。そして、似ているからこそ、怖い。
――――本当に、どこまでも見えてしまう彼が怖かった。
気づけば窓の外では最高潮を迎える催し物が、町の人の心に火を点け始めていた。エルクは黙ったまま、歓び栄える町を見守っている。
私への追及も反論も諦めたその横顔からは、不安に怯える微かな『嗚咽』が聞こえた。
それでも私は彼を嗾けた。
何故だかは分からない。けれど今回は……、何とかなる気がするのだ。
それは『虫の知らせ』のような曖昧なものだけれど、それでも確実に、何かが好転し始める兆しを感じていた。
彼を、そこまで導かなきゃならないような気がしてならない。
「……始まったな。」
形ある答えを見つけるよりも早く――日が落ち、パレードのネオンや会場のアップライトが目立ち始める頃――、『悪夢』はやって来た。
―――女神像前広場―――
式典の会場を盛りたてるその歌姫の『声』には、民に福音をもたらす女神を讃えるに相応しい、美しさと温もりがあった。
お祭り騒ぎに肖って集まっただけの野次馬たちの心にも、『歌声』に浸る内に『石の女神』への、あるはずのない『信心』が沸き起こってくるのだった。
彼らは思う。この女神像は、この町に訪れる『禍』を退け、『幸運』をもたらすものなのだと。
そう、信じ始めていた。
女神の懐に抱かれた玉は、彼らの『信仰心』に呼応するかのように淡い翡翠色の光を発し始める。
光は訪れた民を分け隔てることなく包み込み、内へ、内へと沁み込んでいく。
すると彼らの瞳もまた、翡翠の発色を示し、遣えるべき主人の姿形を判別する力を手に入れていく。
その様子を、堕ちていく観衆の目の色を壇上から見下ろす男は、落胆していた。
……つまらん。
ここまで順調に事が運ぶとなると、もはや茶番だな。
彼にとって、勝ちの見えた勝負に甘んじることはどんな形の『勝利』であれ、興醒めなもの。
血の色のスーツに身を包んだ博奕打ちは項垂れていた。
彼の想像する『支配絵図』の中には、数多の血繁吹きに欲情し、水揚げしたばかりの臓物に食欲を唆られ、歓喜する自身の姿が描かれていた。
『木馬』や『処女』が響かせる阿鼻叫喚の輪唱に酔いしれながら肉を引き裂き、苦悩を舐める悦びがあった。
それは、一種の『帰巣本能』なのかもしれない。
しかし、彼は予定調和のように与えられる『地獄』などに興味はない。あくまで彼が心から望むものは、『非現実的なそれ』だった。
身の内で燻る『黒い感情』が掻き乱される日々を欲していた。
怒り、憎しみ、苦悩の末に胃を満たす『血』や『臓物』を無上の悦びとしていた。
それこそ、男が『人生』に求める全てとも言えた。
しかし今、市長に群がる愛すべきプロディアス市民は、彼の『人生』に一銭の貢献もしていない。
そして、もはや意思のない『木偶人形』である彼らは、市長のされるがままに命を散らそうとしている。
それが男の、『使命』への情熱を欠いていた。
……どうしたというのだ。『救済』をしに来ぬつもりか?『復讐する』相手が未だに分からぬとでも言うのか?
お前たちに『怨み』を植え付けたのは何のためだと思っている。何のために疎ましい身内の手助けをしてやったと思っている。
このまま……、『何』も起こさぬつもりなのか?このまま儂の役目を終えさせるつもりなのか?
深紅に身も心も染め上げた男は、もはや聴衆の目を憚ることなどしなかった。
苦虫を噛み潰したような顔で、市長の勝利を約束する女神を見上げ、何処かでこの状況を見て北叟笑んでいるであろう仲間の一人を罵るばかり。
「やはり、『神』に願うなど他力本願も甚だしいということか。」
―――間隙、
女神の微笑みを享受する神聖な広場は一転して、破滅の旗を掲げた『災厄』が人心に絶望の種を撒く畑へと姿を変えていた。