――――そこに、赤黒い宙はない。昼の陽光に映える清潔な、ホテルの白い天井があった。
目を覚ます時はいつも、『悪夢』が境界線を越えて追いかけてくるような不安を覚える。
「おはよう。」
だが、彼女の声色に『闇』の色は一片もない。……今回はどうやら無事らしい。俺はユックリと体を起こす。そして改めて気づく。
「……イイ匂いがする。」
まるで、ふっくらと焼き上がったばかりのホットケーキのような優しい匂いだった。
「少しコツが分かってきた気がするの。」
拍子抜けするくらい穏やかな空気に絆されて、張り詰めた緊張が僅かに解れてしまう。
彼女が差し出すカップからは絹のような肌理細かい湯気が、部屋の空気に溶け込むように昇っていく。
ココアのように甘そうな褐色それを一口含めば、ビターチョコレートのような苦味が寝起きの身体をシャキリとさせる。
「たった2日で上手くなったもんだな。」
魅力的なコーヒーだった。同じ豆を使っているはずなのに、俺が淹れたものとは大違いだ。
「だって、たくさん練習したもの。」
彼女は得意気に言った。
リーザはこっちの生活習慣を積極的に吸収していた。そこでもまた、彼女の人並み外れた適応力の高さを見せつけられる。
ぎこちなかった化粧も、ナイフの扱い方も。たった数日で、こっちの予想よりも遥か上のレベルに到達していた。
「ここにあるものが何でも新鮮に見えるの。ただそれだけ。」
彼女はごくごく自然なポーカーフェイスを決めていて、照れ隠しなのか謙遜なのか分からない。
「もう一杯、もらえるか?」
苦いけれど、不思議なくらいに飲み易い。
リーザは空になったカップを嬉しそうに受け取ると、ソソクサとキッチンへ向かった。
「俺が寝てる間、何か変化はあったか?」
外の雰囲気を見る限り大きな進展はないように見えた。だが、彼女にしか気づかない連中の小さな動きがあったかもしれない。俺は何気ない気持ちで尋ねた。
その時、ほんの一瞬だが彼女の表情が歪んだような気がした。
俺の目の錯覚なのかもしれない。そう思って流そうとした時、彼女の忠犬がピクリと耳を欹て、彼女の顔色を伺うような動きをしてみせた。
「どうしたんだよ、何かあったのか?」
「……ううん。何もなかったわ。……本当よ。」
何もなかったのかもしれない。だが、例のごとく何か隠している。
パンディットのリーザへの忠誠心が強いためか、話がリーザに関する時、パンディットの反応はとても素直に思えた。
そう考えると、だんだんとリーザの嘘の見破り方も分かってきた気がする。
だが、それは半人前な俺の浅知恵でしかなかった。
「エルク、お願い。」
二杯目のカップを持って戻ってきた彼女は、ポーカーフェイスを崩していた。
その表情を目の当たりにして――ここにきても尚――、自分が肝心なことを失念していると気づく。
「どうした?」
リーザはいつでも俺の『声』を聞いている。俺が彼女を疑えば疑うほど、彼女は俺との距離を拡げていくだけ。
俺は、彼女の詮索をするべきではないのだ。
「……私、整理がついたらキチンと話すから。だからそれまでは待っていて欲しいの。」
「『それまで』ってのは『いつ』のことだ?」
だから、こんな「無粋」は今回までだ。
生き残るために、俺は彼女から聞き出せることを聞いておかなきゃならない。でなきゃ、さっきのような小さな幸せも何もかも、奴らに根刮ぎ奪われてしまう。
俺の『声』は、彼女の視線をカップの中に落とし、黙らせてしまった。
「勘違いするなよ。責めるつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、今回の件がデカイ話なだけに、できるだけの情報は集めておきたいってだけなんだ。」
彼女にとって、この言い訳すら必要ない。全て、聞こえているのだから。
それでも、「口にしなきゃ伝わらない」と小さい頃からミーナに口酸っぱく言われてきたからか、そんな躾のようなものが習慣的に表に出てきていた。
それに、現状はどんなに贔屓目に見ても、『良好』とは言えない。
『籠城』という作戦は、俺みたいな根が無鉄砲な人間では不適切だからだ。しかし、今はどうしても動けない。
俺は少し、焦ってもいた。
「今は……、まだ。」
「何か俺に話せない理由があるのか?……内容までは聞かない。あるかないかだけでも言えねぇか?」
被害者に問い詰めるようなやり方も俺のスタイルじゃない。それでも、――――、
「……私も、まだ怖いの。ただ、それだけ。」
……心が、折れる。
仕方がない。俺が彼女を怖がってるのに、それを聞いている彼女が俺を怖がらない訳がない。
どうしたってまだまだ甘ちゃんなのだと思い知らされる。
「……ごめんなさい。」
「……いいや、悪かったな。」
――――それでも俺は、『彼女』を護らなきゃならない。今の俺にはそれができるはずたから。