「やれやれ、ようやっと出番かいの。危うく一眠りしてしまうところじゃったわい。」
老齢な従者が、幾重の年月を背負う重い頭をもたげ、青年に謳う微笑みを捧げた。
「そりゃあ、残念だ。そのまま逝ってくれりゃあ、こっちもボケたジジイの面倒を診なくて済んだのによ。」
粗暴な従者が可憐な刃を煌めかせ、青年に無比の豪気を見せつけた。
「止めなよ、トッシュ。ゴーゲンにはいつも助けられてるじゃないか。」
小心な従者が笛や小太鼓で身を固め、青年に永久の忠誠と改心を約束していた。
「いやいや、なかなかどうして、ポコ坊。人斬り包丁片手に人間の船で晩酌とは。最近の野猿は恐ろしいのう。」
今にも折れてしまいそうな古木の杖に顎を乗せ、老父はそれと分かるように嫌味たらしい甲高い声で赤毛の男を罵った。
「ジジイ、少し会わねぇ内に目まで腐っちまったか?」
赤毛の男は、暗闇の中でさえなお煌めきの鈍らない愛刀に息を吹き込み、気色ばんでいた。
ポコ、楽隊の身形をした少年は、啀み合う二人の間でオロオロと狼狽えている。
「ブワッハッハッハ……相変わらずじゃないか!なんだか逆に安心するわい。」
「チョンガラも、悠長なこと言ってないで止めてよ。」
チョンガラ。この卑俗な艦長と、彼の手伝いをする有能な操舵士もまた、青年のために苦悩に満ちた戦いへと身を投じる誓いを捧げた敬虔な従者だった。
「ポコや、いい加減二人のじゃれ合いに慣れてもいいんじゃないか?」
「だって、だって、前だって本気でケンカして大変だったじゃないか。」
ジジイと呼ばれた齢も定かでない謎の老父は『最強』を自負する魔導師だった。対して猿と呼ばれた赤毛の男は切っ先に『迷い』を寄せ付けない剣の達人だった。
以前、いいや、これまでに何度も彼らは各々が磨き上げてきた『力』をぶつけ合った。
しかし、それぞれの『力』を極めつつある彼らは、その大きな『力』を振るいながらも、壊して良いもの、悪いものの判別はついていた。
しかし、そうして壊した物の中には寂れた大聖堂もあった。
「うーむ、そうじゃのう。ワシの船で暴れられて万一傷でも付けられたら堪らんしのう。」
二人のケンカを見慣れた豪商はそう口にしながらも、彼らの実力を信頼していた。
「ねぇ、アーク。キミは止めなくていいのかい?」
頼りにならないと決め込んだ楽士の少年は青年に助けを求めた。
だが、青年もまた、一座の座長らしく団員の性格を知り尽くしたような一言を、柔和な笑みを添えて返すだけだった。
「構わないさ。本番の前に準備運動でもしておきたいんだろう。」
「ガッハッハッハッハ、お前さん、スッカリ先導者らしくなりおったな。」
楽士の少年も、二人のことは信頼していた。しかし、そうではない。そもそも彼は『争い事』が目の前で起きていることが我慢ならないのだ。
それを知ってか知らずか、壮年の豪商は満足気に笑い続けていた。
「我慢してやってくれよ、ポコ。あれは二人なりの挨拶のつもりなのさ。お前には少し刺激が強いかもしれないけれど。」
「……分かったよ、アーク。一人で騒いでゴメン。」
自分よりも一つ年下の青年。彼との間に交わした少年の約束は『忠誠』と『改心』。何事に対しても目を瞑り、すぐに被害者へと収まろうとする『弱い自分』を変えること。
青年は、自分で創った壁に阻まれ、身動きの取れなかった少年に光を与えた恩人だった。
少年は今度こそ、彼の傍で、彼と立ち並ぶことのできる人間になると誓ったのだ。
「おいおい、おいおい、猿や。お前さんのお山はここではないぞい?」
老父の言葉を皮切りに、周囲の公認を待っていたかのように二人の乱闘は始まった。
夕闇の中から高速で飛ぶ蛍があった。しかし、音すら立てない蛍の飛翔の先に、老父の姿は既にない。
赤毛の男は新たに現れた気配を感じ取り、蛍をもって追撃する。ところが、またしてもそこに獲物はなかった。
男は、現れては消える気配を追って右へ左へと彗星のごとき蛍を飛ばす。
「ムダよ、ムダよ。酔っ払った猿ごときにこの牛若丸は捕まえられんよ。」
その間隙だった。
男の従える蛍は花火のような火花を散らし、老父の持つ古木に止まっていた。
刹那の花に浮き上がる老父の顔には、『最強』を誇る自信の魔術を畜生ごときに捕らえられた屈辱と、好敵手への賛辞を合わせた、猟奇的な笑みが浮かんでいた。
「酔っ払ってんのはどっちだ?」
赤毛の男もまた、獲物を捕らえ、喰らわんばかりの鬼の形相で笑っていた。
二人は今、最高潮へと達する快感を覚えていた。
しかしまた、次の瞬間、城壁の如き白銀の刃が二人の間に立ち塞がっていた。
「感動の再会を邪魔して悪いが、そろそろ状況開始の時間だ。」
打ち水のように割って入った青年の言葉は、否が応でも彼らの『戦意』を収めさせた。
興が殺がれたらしい赤毛の男は無言で愛刀を収めると、徳利を持って客室へと引っ込んでいく。
赤毛の背中を半ばまで見送った青年は、一貫して落ち着いた口調でもって老齢の従者に号令を下す。
「ゴーゲン、頼む。」
しかし経験豊富な従者は、青年の言葉を行動には移さず、生まれた妬みをそのまま言葉に乗せて青年に返すのだった。
「まったく、これからが見せ場というトコロを。最近の若い者は趣を分かっとらんのう。」
青年は溜め息をつきつつも、老父の性格上、黙って従わないことくらい重々承知していた。
「こっちの仕事も充分お前の見せ場があるじゃないか。不満か?」
「そりゃ儂にとっちゃ、子どものお遊戯じゃよ。まったく退屈じゃのう。」
「ボケた爺さんはこれだから扱い難い。これはお前の出した案でもあるんだぞ。」
「いやいや、すまんすまん。お前さんにしては充分過ぎる作戦じゃったよ。」
「……まだまだ未熟だと言いた気だな。」
青年が慣れた調子で老父を睨め付けると、老父は少し機嫌を治したらしく、青年に厭らしい微笑みを返した。
「なぁに、乳飲み子の成長を手助けするのはジジイの享楽じゃよ。」
その『手助け』にどれだけの苦労を背負わされていることか。青年はまた一つ、溜め息をついた。
「ヨボヨボな腕で支えられるこっちの身にもなってみろよ。」
「バカなことを。年月を重ねた老木に背中を預ける以上の『安心』はなかろうて。」
老人の小言は分厚い魔導書に書かれた呪文のように、次から次へと、連々と読み上げられるのだった。
青年の「さすがは大魔導師様だな」というお決まりの皮肉を口にしたところで、老父の細やかな復讐は終わりを迎えたらしかった。
老父の『高笑い』はその合図でもあることを、青年はもちろん心得ていた。
「ホッホッホッホ、まぁ何にせよ、手っ取り早く済ませて儂はまた少し休むことにするわい。」
「いつも、いつも大変だね。アーク。」
ソッと、楽士の少年は青年に労いの言葉を掛けた。
「なに、小言を受けて余りある『仕事』をさせているんだ。感謝しかないよ。」
これもまた、『青年と老父』だけに許された言葉の交わし方だった。
「ホレホレ、そこ、邪魔じゃぞい。」
言うが早いか、老父の足場からは蒼白い光が溢れ出てきた。その光を老父は指先で撫でるように絡め取ると、その光で宙空に文字か絵か判別のつかないものを描いた。その間に、唇は緩か、かつ奇怪な動きで何事かを刻んでいた。
見守る者たちに老父の声は届かない。しかし、それは確かに受諾されていた。
「いつ見てもゴーゲンの出す光はキレイだよねぇ。」
「……そうだな。」
呑気な楽士の言葉は、これから起こるであろう出来事に対して青年が心の隅々に張り巡らせていた『緊張の糸』を優しく解きほぐしていった。
瞬間、止めどなく湧き上がる光は白銀の船体を駆け巡り、あっという間に施術を済ませた。
「ホレ、後はお前さんたちの仕事じゃぞ。」
老父は「ヨッコイセ」と、その場に腰を下ろすと杖に凭れ掛かり、スヤスヤと眠り始めていた。
「……相変わらず寝るのも早いよね。」
「年だからな。向こうと此方の境界が曖昧なんだろ。」
「アークも何気に酷いことを言うよね。」
「皆と付き合い始めてもう一年になるからな。癖の一つも伝染るさ。」
指針を確認し、老師と青年の寸劇も見届けた豪商は、重い腰を上げて会議室を出ていった。
「それじゃあワシは操舵室に戻るぞい。また時間がきたら呼びに来るからのう。」
「ああ、頼む。」
船は静かに進む。大海に潜む大波のように穏やかに、しかし確実に前へ、前へと。