家族のためにスーツを着こんで出社する男の人たち。
夜の仕事を終えてくつろいでいる女の人たち。
彼らを誘惑するように芳ばしい煙を上げる店々。
そのお溢れにあずかろうと待ち構える犬。
働き口を失くしてベンチの上で寝そべる老人。
その周りをウロウロする鳩。
それを狙う猫。
それを追い払うおばあさん。
それを宥めるお母さん。
それを煙たがるお父さん。
それを面白がる子どもたち。
――――窓の外には、私たちが生きてきた世界とは異なる世界があった。
『ホルン』―――私の村は、空を突くような幾つもの霊峰で閉ざされていた。
私たちはそんな『檻』の中で生きることに慣れていた。『檻の中』に引き篭もって出てこようとしない私たちを蔑む町の人たちにも慣れてしまっていた。
何世代も前から、村の女たちは『魂ある者たち』を従える『力』を持って生まれていた。それは、獣や蟲、人に止まらず、死者や怪物までもがその範疇にあった。『命』を持った全ての『彼ら』が女たちの『僕』に成り得た。
そんな異常な『力』を恐れた町の人たちは、私たちを『魔女』と呼び、忌み嫌った。
しかし、それでも私たちは構わなかった。
閉ざされた世界の中で生きている限り、私たちは何者をも侵すことなく、何者にも侵されず生きてこられたから。
小さな、小さな村は、『全て』が一つの家族のように生きていた。
男たちは村を雨風や害獣の牙から守り、女たちは働いた男たちの活力を養っていた。子どもたちは鞭を持って羊を追い回し、鍬を持って泥だらけになった。
それでいいのだと、皆が思っていた。
何も知らない私も、毎日を山や羊を愛でて過ごした。動かない霊峰。朽ちない草花。昇っては沈む月と太陽。村はこれでキレイに完結しているのだと思った。
これが全てなのだと、皆が思っていた。
あの日までは―――
―――それは人の通れる隙間さえないのだと信じていた山々の合間を縫って現れた。霊峰に囲まれた狭い空、私たちのための僅かな青い空を、一匹の『黒い魚』が我が物顔で泳いでいた。
それまでも時折、何事かの用事を抱えて村にやって来る『外の人』はいた。男たちも羊の毛を『町』に売りに行っていた。
けれどもあの大きな魚は違った。頼み事を持ってきた訳でもなく、商売を持ち掛けに来た訳でもない。
皆がそれに気づいてから数分後、空を漂う大きな、大きな魚からは無数の人影がフワリ、フワリと舞い降りてきた。
彼らは見たこともないゴツゴツした服装で身を包み、見たこともない銃で私たちを襲ってきた。
男たちはライフルを持ち、女たちは猟犬や鷹を嗾けた。
けれど、『黒い魚』から降りてきた彼らにライフルの弾は当たらなかった。猟犬たちを撃ち殺し、鷹を早贄のように串刺しにした。女たちの『力』さえ彼らには及ばなかった。
その俊敏さや獰猛さはまるで制御の効かない熊か狼のようで、村の大人たちはすぐに負けを悟り、逃がせる者を逃がした。
けれども、小さい村での集団行動が染み付いていた私たちには、散りぢりになって敵の注意を分散させるなんてことを考える頭もなかった。
それはまるで狼たちから逃げ惑う羊のよう。
その為に生まれた狼の群れから間抜けな羊たちが逃げ果せる訳もなく、私たちは一網打尽にされた。
さらに運の悪いことに、私たちは狩られることにも、支配されることにも慣れていなかった。
ある者は忍ばせていた短剣を振りかざし、ある者は眠っていた野の化け物を呼び寄せた。
……だから余計な死者がでた。
その日、村の人口は半数以下になった。
「必要な実験体はこちらで割り出す。死体でも構わん。運び出せ。」
死者50数名、強制移送者30数名。100人弱の村はそうしてほぼ壊滅した。
「なんと惨い……。」
『黒い魚』に見初められなかった嫗は、同胞であった者たちの惨めな姿を見て嘆いていた。
私は残された老人や男たちに紛れて有刺鉄線の向こうの『それ』を見詰めていた。
『それ』は言葉一つ吐くことなくゾロゾロと目の前を過ぎて行く。
『それ』に装着された首輪は、数珠繋ぎに十人、二十人を従えていた。両腕を麻縄で縛られ、頭を麻袋で覆われていた。『それ』はまるで、呪術で動く『屍体』のように映った。
そして、黙々と歩く『屍体』たちは袋の中で密かに咽び泣いていた。その声を私だけが聞いていた。
「娘は無事に逃げ果せたかしら……神よ、どうか、子どもたちだけは……父さん、私は良い娘だったかしら……来月、せめて来月まであの人と一緒にいられたなら…………お腹の子どもが動かない……ごめんなさい、ごめんなさい」
『それ』は突如として訪れた『不幸』に煽られながらも生前と同じように絶えず、真摯に同胞を想い続けていた。
けれども私は、自分の耳に届く『その声』に違和感を覚えずにはいられなかった。私の知っている『彼女たち』の言葉とはとても思えなかった。
『想い』は籠っているのに、『重さ』が感じられない。『愛』ある言葉なのに、『温もり』が感じられない。
どの『声』を聞いても、かつて『彼女たち』に覚えていた感謝や憧憬、敬慕が甦ることはなかった。
『それ』はかつて私と遊んでくれた『人の声』。『それ』はかつて私の看病をしてくれた『人の声』。かつて私を愛してくれた『人』、『人』、『人』…………
触れれば一緒に『向こう側』へ連れて行かれる。
私たちの反乱を警戒するこの有刺鉄線が、逆に私を守ってくれている気がした。
「まったく、惨いことを……。」
嫗と同じ言葉を吐いたのは、私の背後で目頭を押さえる壮年の男。けれど、そう感じていたのは彼だけじゃない。村の大人たち全員が、『同胞』の未来を奪った『黒い魚』に臆病な憤りを覚えていた。
私だけが共感していなかった。してはいけない気がしていた。
抱きしめていた人形と同じように、心を殺して『それ』を最後まで見送った。
『それ』を見送る私の心情を察したのであろう祖父は、『黒い魚』が村を去った後も『ホルンの民』である誇りを忘れてはいけないと私に説き続けた。
であるが故に、『外の人』とは関わってはいけないとも言い付けられてきた。
語る祖父の両瞼は殆ど塞がっていて、最近は特に蹴躓くことが増えたというのに――――。
私は祖父が大好きだった。私を愛してくれたし、私以外のものも同じように愛していた。
町の人たちが私たちを『魔女』と蔑んでも、心の底から彼らを憎むようなことはしなかった。
あの日までは――――。
今の私は、あの頃の私と繋がっている。
私は愛していた祖父の『言い付け』を守らなかった。だけど、それで良かったと心の底から思っている。
私は足許で丸くなっているパンディットを見下ろし、私の『不安』に気づいたパンディットは私を見上げた。
「オマエにも本当に救われたわ。」
群青の鬣を撫でると、パンディットはほんの少し、私の掌に体重を預けてきた。
この子は、気の遠くなるくらいの実験を重ねた上で生まれた、謂わば『兵器』のような生い立ちを持っている。
強化された体と、付与された異能の『力』。
それは今、彼の命を守る上ではこの上ない『武器』になっている。だからといって、彼はそれを手放しで喜んではない。
不必要な『力』を持て余し、不自然な『状態』に居心地の悪さを覚え続けている。
私はそんな憐れな子に助けを求め、私の『力』はそこにつけ込んだ。
パンディットが私の意のままに動いてくれたあの時、私は初めて、自分が『魔女』であることを自覚した。
「……ゴメンね。」
群青の鬣と純白の毛皮の狼は、そうと知ってなお私を愛してくれていた。
エルクは私の『力』がどんなものか、だいたい勘付いている。どれだけ強い影響を与えているのかも。
エルクが私の『素性』を知ることは、これから私たちが生き残っていく上で大切なことなのだと思う。
エルクの仕事は私の『素性』を知ることなのだと知っていた。
それでも私は、できればエルクには気づいて欲しくなかった。
これは人の心を蝕む『悪魔の力』。
魔女に関わる人たちは『コレ』に気づかない方が幸せなのかもしれない。
もしも気づいてしまったなら、有刺鉄線の向こうを歩いていた『彼女たち』のように、言われるがままの『生ける屍』となっていたことに絶望してしまうかもしれない。
絶望へと追いやった私を呪うことも叶わずに――――。
窓の外に広がる立派な町は、太陽の角度が大きくなるに合わせて、大勢の人で埋め尽くされていき、賑やかになっていく。
この町は暖かい。暖かい光の裏側では、悪い人が蠢いている。それは私の国よりも悪質で陰湿なのかもしれない。
それでも、この目に映る町の人々は間違いなく笑い合っている。お互いを好き合って。
それは『檻の中の生活』が成り立っていた頃の私の村と同じ光景だった。
そして、あの図々しいまでに誇張された『神像』が引き連れてくるものも、私たちの檻を侵した『黒い魚』と同じもののように思えてならない。
そうしてまた、あの屍の『言葉』を聞かされるのかと思うと身体の震えが止まらなくなる。
声にならない『声』で泣きじゃくる『彼ら』を、死んだように見詰める自分がそこにいるかと思うと、恐ろしくて仕方がない。
彼の町と向き合っている私は今、どんな気持ちで彼らの笑顔を眺めているのだろう。
他人の心がよく聞こえる私は、臆病な自分の声がよく聞こえない。何のために他人と関わっているのか。何のために生きようとしているのか。
すると、服の裾を引っ張る私の優しい子がソッと呟いた。
励ましの言葉に促された私は、隣で眠る彼に目を遣る。そうして心が落ち着いていく。
「……そうね。オマエもいるものね。」
頭を撫でてやると、この子は無垢な子どものように喜んだ。その様子もまた、心地好い励ましになった。
……彼は穏やかな眠りに就いている。
私自身、自分の『力』がどんなものか、全てを把握していない。聞こえてくる『声』も、『心の侵食』も、私が意識してやってていることじゃない。
だから私は、自分の気づかないところでも何かをしているのかもしれない。
その自覚していない部分も含めて、私はこの『力』が嫌いだ。でも、もしも、その中に彼の『悪夢』を少しでも退けられる『何か』があるのだとしたら、それは私にとって数少ない『幸せ』へと育ってくれる気がする。
それを願って止まない。
「……あ。」
パンディットに目配せをし、私は部屋に備え付けられた簡易キッチンへと向かう。
カップとポット、それに蛇口。彼に言われた通り、直接または間接的に『口を付けるもの』を持参の洗剤で念入りに洗った後、お湯を沸かし、豆を入れたフィルターに注ぐ。そうして立ち上るホロ苦い湯気の香りで加減を計った。
美味しい淹れ方はミーナさんに教えてもらった。
「……おはよう。」
彼が目を覚ますほんの短い間、胸の高鳴りを抑えられない幼さを残していた自分が、幸せに思えて仕方がなかった。