大海原から昇る朝日は、今日の主役が誰なのか心得ているようだった。
朝陽を全身に浴びるその女もまた、『神』と呼ばれる自分に酔い痴れているように見える。
俺はそれが気に入らなかった。
「本物の『神』は称賛されない。大衆を魅了することもない。ただ黙々と、人知れず救いの手を差し伸べるだけだ。」
人を殺して金を受け取る生活を送ってきた恩人が口にした言葉は、誰より信用できた。
なぜなら、『神』の手を取り、生き方を改めた人間は彼の『標的』からその名が消えるからだ。
『命』はそういうものだと知った。
殺す者と殺される者がいて、逃れられない『死』に直面した時、そこには必ず差し出される『神』の手もある。
善悪は関係ない。そこに至るだけの理由がどちらの立場にもある。これは『命』の意味を成そうとするか否かの違い。
『死』は永遠の懺悔。届かない独り言。死んで救われることなんて一つもない。彼の『標的』にその名がある限り、そいつが生きていようがいまいが、そいつにとっての『命』の意味は死んでいる。
そして俺は彼の手を取った。『復讐』という『生』の機会をシッカリと掴んだのだ。
それに、今の俺が知っている女神はここにいる。
『石の女』がそうであるように、誰に侵されることもない純真無垢な朝陽は、彼女の飴色の髪もまた煌めかせた。
それはまるで、『金の卵』が繊維となって解けていくように美しかった。
俺は監視の役目も忘れて、しばらくの間、彼女の寝顔を見詰めていた。
ついこの間出会ったばかりなのに、俺はスッカリ彼女に気を許していた。それは俺に『違和感』を覚えさせた。
俺の生活圏に正体の知れない女と狼がいる。だけど、それを不自然に感じない。それが俺には不思議に思えてならない。
狼が彼女の傍を離れない理由もそこにあるのかもしれない。
――――いいや、理由は何となく分かっていた。
『それ』は気づかない内に、俺やパンディットの心に抗いようのない忠誠心を芽生えさせているのだろうと。
それでも、この寝顔を護れるのなら構わないと思えた。切っ掛けが何であっても俺はすでに、彼女に保護対象以上の『想い』を抱いてしまっているのだから。
それは穏やかだけれども力強く、俺の心に根差している。
俺はその『心』にこれからの生き方の全てを任せても構わない気になっていた。言い換えれば、それだけ強力な『力』なのかもしれない。
「エルク、おはよう。」
「……あぁ、おはよう。グッスリ眠れたか?」
少し前から起きていることには気づいていた。そして、俺の心を覗いていることも。でも、彼女相手では隠しきれないことだし、隠す必要もないことだった。
「うん、とても。エルクは?眠るんでしょ?私、キチンと監視してるから。安心して眠ってて。」
逆にリーザは本心を隠すのが上手だった。
朝日が大海原から完全に顔を出すと、女神の足許でせせこましく動き回るイベントスタッフや、会場の出入りを取り締まる警備員の姿が浮かび上がった。
経済大国プロディアスの一大イベント。動員される関係者も優に1000人を超えているのだろう。監視を始めた昨日の夕刻からすでに、飴玉に群がる蟻のように、目まぐるしい数の人間が動いていた。
要所、要所では黒服連中が周囲を警戒していたが、今の段階では連中に『事』を起こす気配は見られない。しかし、黒服を見掛けてから時間にして10数時間だが、奴らの統制のとれた動きにはかなり危険な臭いを感じていた。
何人か陽動がいるようだが、それを除いた連中の緻密な動きは無線機や指令塔の存在では補えるようなレベルとは思えない。
不審人物の監視、人員の移動・補充が『穴』の一つも見つけられないくらいに流動的だし、奴らには『死角』がないようにも見える。
それは、黒服全員の意識が繋がっていないと、現実に奴らがとっているような動きはできないものだった。そしてそれは、彼女と同じ『力』の片鱗ではないかと勘繰らせる。
油断すれば、俺たちに覚られることなく、俺たちの懐まで飛び込んでくるだろう。つまり、連中の包囲網から離れていても依然として『危険性』は高いということだ。
「昨日も言ったけどよ、今日一日はここに缶詰めだから。外出はしないでくれよ。」
食事は自分たちで用意したものがある。便所も部屋に付いている。いざという時のことを考えて、風呂は我慢してもらう。
「大丈夫、ずっとエルクの傍にいるから。」
まるで、俺がそう言わせたがっていたかのような台詞だった。だが……、寝ている傍らに誰かがいるという『安心感』は決して悪くない。
「悪いな。じゃあ、3、4時間程休ませてもらうよ。」
本当はオンとオフを使い分けて丸々一日起きているつもりだったが、予想以上に連中の監視には骨が折れた。
ゆえに仮眠もできることなら避けたかったが、有事の対応に支障をきたす訳にもいかない。
今は7時。パレードや余興などを含めれば、式典は15時から動き始め、21時には催しの全てが終わる予定になっている。
連中が式典で何かを仕掛けるのなら、観衆の注意が一方向に集まるスピーチの時だろう。そして、観衆の疲労や日没のことを考えれば、19時辺りが一番危険な時間帯になると考えた。
だから休憩するなら今の時間帯がベストなのだ。
「昼前には起きるつもりだから。もしも異変が起きても俺が起きなかったら、これで起こしてくれ。」
俺は荷物の中から小さな缶詰をリーザに渡した。すると、パンディットが珍しく彼女から数歩後退った。さすがは腐っても狼、直ぐに勘づいたみたいだ。
「これは?」
「特別な魚を発酵させたものさ。味は悪くないがメチャメチャ臭いんだ。だから間違っても興味本意で蓋を開けるなよ。」
「これを……、どうするの?」
「蓋を開けて枕元に置くだけでイイ。間違いなく直ぐに起きるから。」
もちろん、それで起こされたら暫くの間、鼻は使い物にならなくなる。俺だけじゃなく、おそらくパンディットも相当なハンデを負うだろう。
でも反対に、煙幕の要領で俺たちの臭いを誤魔化すこともできる。それだけの効果があれば、この3人ならまず最悪の状況には追い込まれないはずだ。
眠る前に部屋の中の設備の使い方をざっと確認した。リーザが今までにホテルを使ったことがないと言っていたからだ。
リーザは生まれて初めてのホテルに興味津々だった。
「ルームサービスも使うなよ。ホテルには部屋には近づかないように言ってあるから、もしも中に入ろうとしてきたならまず『敵』だと思ってイイ。」
ルームサービスの説明をすると田舎者丸出しで、いたく感心していた。
「私の故郷は田舎じゃないもの。」
彼女の頬は小さく膨れていた。
「でも、本当に凄いのね。ここに書いてあるもの全部用意してくれるんでしょう?」
サービスメニューには食事の他に、洗濯、荷物の配達、マッサージ、日用品の貸し出し等々が載っていた。
「私の国にも執事やメイドはいたけれど、一般人が払えるお金でここまでしてくれるなんて考えられないわ。」
「……使うなよ。」
よほど気になっていたのか、珍しく動揺していた。
「だ、大丈夫。大人しくしてるから。エルクが貸してくれた本もあるし。」
『プロディアスの歩き方』、俺が貸したのはただの観光誌。それも、俺がシュウから独立して間もない頃、心配性のミーナが俺にくれたものだ。
「これで勉強して、次にエルクと散歩する時、何処に行くか決めておくの。」
そう言ってリーザは俺の思い出の一冊を選んだ。
そもそも俺に本を楽しむだけの学なんかない。部屋にあったのは同じような雑誌と、教養のための本が4、5冊くらい。その中にある世界史はシュウから独立するにあたっての必須科目だった。
「国が変われば人も変わる。無知な旅人は国に喰われるただの餌だ。」
だから、他の本と比べて世界史の本だけはだいぶ草臥れていた。
彼女の故郷が何処かは知らないが、聞けばもっと彼女のことが分かるかもしれない。ほんの少し、彼女が故郷から来たのかを想像してみた。
リーザは俺が座っていた窓際の椅子に腰掛け、俺はリーザの使っていたベッドに横になった。
リーザは貸した本を読みながらも、ルームサービスのメニューを手放さなかった。
ベッドからはリーザの匂いがした。
バラやラベンダーのような清涼感のある匂いではないけれど、紛れもない『彼女』の匂いだった。
こんな状況にも関わらず、俺はほんの少し、厭らしいことを考えた。
横目でリーザを盗み見た。
何も知らない体と、田舎の臭いを残しつつも『女』らしい鼻や唇に俺は分かりやすく『男』として欲情してしまった。
リーザの『力』がある手前、すぐに戒めたけれど、彼女に読まれていない訳がない。もう一度横目で覗き見ると、彼女は平然と窓の外を眺めていた。
そして俺は後悔した。
リーザが俺にとってそういう『対象』になってしまっていることに少なからず不安を覚えた。
いざという時、俺は判断を誤るかもしれない。
『護りたい』気持ちが先走って、『悪夢』を繰り返してしまうかもしれない。本当に、彼女ための『化け物』になってしまうかもしれない。
「私だって、アナタのための『化け物』なのよ。」
窓の外に目を向けたまま、リーザは嘯いた。
「『悪夢』は、もう見ない。これからはエルクと一緒に沢山、幸せな夢を見るって決めたの。」
根拠はない。でも、彼女の声は『運命』すら変えてしまいそうな、自信を感じさせた。
「だから、今は安心して眠って。」
身体は、彼女の言葉に答えを返したらしかった。
俺はゆっくりと、眠りに落ちていく。『悪夢』など片隅にも巣食わない夢のような場所へ――――