青髪の歌姫は空のグラスを差し出してリーザを誘った。だが、リーザはそれに視線を寄越すこともせず、歌姫の目を真っ直ぐに見詰めていた。
「エルクも言ったのだけれど、私たち、そんなに時間がある訳じゃないんです。できればここで済ませられませんか?」
彼女の口調は、俺の耳にも怒気を含んでいるのが分かった。
「何をそんなに怒っているんだい?もしかして彼氏を粗雑に扱われたのが気に入らなかったのかい?」
女は一般人のリーザにさえ気安かった。もはやそれは、女の癖ともいえるケンカのスタイルなのだろう。
馴れ馴れしい言葉で相手の心を弛めて、隙を見せた瞬間に弱点を鷲掴みにする。その下拵えのために、安い挑発の応酬を持ち掛けようとしているのだ。
だがリーザは、その提案を敢えて無視した。
女の挑発に対してリーザが返した言葉は、嫐り合いの合意ではなく、相手の弱点に刃を押し当てる問答無用の一言だった。
「貴女は何をそんなに怯えているの?」
端から聞けば何てことのない言葉だった。それでも『貧乏人』に『裕福さ』を自慢するように、それはその人間の『禁句』を突いた、謂わば悪辣な一言ともいえた。
「……お嬢ちゃん、こっちの世界の人間とお喋りをするのは初めてかい?」
たった一言で、女はあの『虎の目付き』に変わっていた。そしてそれは俺に見せた時よりも遥かに濃い『警戒』の色を孕んでいた。
ただならない空気を感じ、俺は反射的に腰を浮かせ、素早く周囲に目を走らせた。だが、『奴ら』は誰一人として動こうとしない。
「えぇ、そうです。」
虎が牙をチラつかせても、リーザが取り乱すようなことはなかった。敢然と立ち向かう騎士のように凛とした表情で向き合っている。
虎は怯まない騎士の目を見ると、距離を詰めずに騎士への反撃の機会を探るように辺りを徘徊し始めた。
「お嬢ちゃんの目ではまだ見分けがつかないのかもしれないけどね、こっちの世界には涼しい顔で人を殺す人間がたくさんいるんだよ。」
虎は空のグラスを握りしめながらギラギラと騎士の瞳を覗き込んだ。
「そういう貴女はこっちの世界に帰ってくる勇気もないんだわ。だからエルクを怒らせて道連れにしようとしているんでしょう?」
聞き終わるか終わらないかの刹那、鈍い破裂音が鳴った。女が、握りしめていたグラスを粉々に握り潰していたのだ。
「小娘のくせに、なかなかケンカの売り方が上手じゃねえか。でもなぁ……、」
割れたグラスが女の整った手を切った。血が止めどなく流れているというのに女の表情はそれを全く感じてはいなかった。
昼飯時ということもあって店内は喧騒に包まれていたし、すぐに『関係者』がわざとグラスを割ったお陰で、俺たちのテーブルに視線が集まることはなかった。
二つ目のグラスが割れる音で、女は我に返ったらしい。
ポケットから取り出した皮手袋で傷を隠し、血を吸ったテーブルクロスにナフキンを被せた。目立つことを避けたいらしい女の冷静な行動は、俺たちにとっても好都合だった。
俺たちが本格的に『行動』を起こすまでには、まだまだ時間があり過ぎたからだ。こんなところで『正体』がバレれたなら、無駄な野次馬どもが動き出しかねない。そうなると後々が面倒だ。
一方で、人目を気にした女の素早い対処が、俺の目には不自然にも映った。
今さらじゃないか。『酒場の歌姫』はすでにこの町でもそこそこの人気を博していた。10人に聞けば1人は女のことを知っていた。
もしもこの女が本当に追っ手の目を気にしているのだと言うのなら、この場の『目』よりも、歌姫としての『評判』を気にするべきじゃないのか?
そもそも俺は、『奴ら』に居場所が割れていても逃げ切る自信がこの女にはあるのだと、思っていた。
なにより、『関係者』はすでにここにいるのだ。女もそれには気づいているはず。
……だったら、『歌姫』としての体裁を気にしているのか?……いいや、それも違う。
やはり大事な『何か』を見落としている。今までに一度も露呈しなかった『それ』の答えが今の不自然な行動の中にあったんだ。
粗相の後始末を終えた女の表情は、定番の『余裕のある顔』に戻っていた。だが、内心では変わらず煮え滾っているようだ。女は今まで一度も見せなかった紛れもない『殺意』を瞳に宿していた。
俺は忍ばせておいた短剣に手を伸ばし、虎が飛び掛かってくる瞬間を見計らった。しかし―――、
「……いいや、止めておこうか。」
「何だよ。先に啖呵を切っておいて、いざとなったらビビっちまったのか?」
出鼻を挫かれ、思わず挑発してしまった。だがすでに、俺の言葉じゃ女の関心すら引けないらしい。
俺には見向きもせず、リーザに対して居直ると、今まさに喉元に喰らいつかんとする唾液に塗れた牙を見せつけた。
「人間の潰し方なんざ幾らでもあるってことよ。刃物振り回すだけが殺し合いじゃないんだよ。そしてお嬢ちゃん、アンタのケンカ、望み通り買ってやるよ。」
女は『怒り』に狂っているように見えて実のところ、『それ』に焦がされることを楽しんでいるようにも見えた。「久しぶりの獲物」と表情が言っているようだった。
けれども、リーザには女を手に掛けるつもりなどなかった。彼女は女を助けに来たのだ。
しかしどういうつもりなのか、リーザは女のいう『殺し合い』を促した。
「それで、具体的に貴女は私たちをどうするつもりなんですか?」
「教えてやるのさ。アンタたちが欲しがってた『情報』ってやつをさ。」
「……どういうつもりだ?」
「ハハハッ、聞けば分かるさ。そしてこの話が終わればアタシの『役目』も終わりってやつさ。」
「とうとう化けの皮を剥ぎやがったな。」
女は『飼われている』ことを認めた。アッサリと。
それは女が、自分から『正体』を明かす覚悟を決めたということなのだと俺もリーザも理解した。
「それで、どうする。話を聞くかい?それとも、このまま聞かずに逃げ帰るかい?」
「バカか、テメエ。舐めんなよ。」
本当にどうしてだか、俺は求められてもいないのに、逐一女の言葉に突っ掛かってしまう。女もそれにウンザリしているのか、視線も寄越さずに重い溜め息をついていた。
「……本当、アンタだけだったらアタシ一人で十分だったんだ。」
俺は堪えた。女の言葉を耳で理解し、頭で考えないように努めた。リーザが、悶々とする俺の背中にソッと手を置いてくれたお陰でようやく冷静に二人のやり取りを見守ることができた。
「話を進めてくれませんか?」
だがリーザもまた、女と同じように相変わらず怒っていた。
歌姫は自分の仕事を自慢するタイプの女だった。
「どうして軍事大国がわざわざプロディアスに女神像を贈ったと思う?」
すぐに答えを呈示せず、「分からない」と言わせてからタップリと語ろうとしていた。
「……プロディアスの市長が裏でロマリアと悪巧みしようとしてるんだろう?そんな話、町の噂レベルだぜ。」
俺は、町の事情を知らないリーザに代わって端的に答えた。
「『噂じゃない』から『情報』なんだろ?だから、それが半分間違ってるってことも言ってやれるのさ。」
勿体つけた言い方は、俺たちとの最後の会話を噛み締めているからなのだろう。
「市民の期待にも十二分に応える質実剛健の市長。でもね、その本当の正体は立派な市長でもなければマフィアのボスでもない。……ロマリアの将軍の一人なのさ。」
それは突飛だが有り得ない話じゃない。ロマリアは軍事国家であるが故に、秘密主義国という一面も持っている。
現に、4人いると噂されている将軍の内、顔と名前が分かっているのはザルバド将軍のみで、他3人はメディアへの露出はおろか、その存在さえ疑われている。
さらに彼らの王、ガイデルは昨今姿を見せず、噂ではザルバド将軍が彼を亡き者にしたのではと囁かれている。
事実上、ロマリアを動かしているのは四将軍であり、君主制でありながら軍事国家と呼ばれる由縁にもなっている。
このささやかな内情さえ、幾人の尊い犠牲の上に得られた『情報』なのだ。辻褄の合わない噂だけなら山のように出回っている。
そんな折、他国で活躍するやり手の有力政治家が実はロマリアの身内なのだと告白されても、訝しみこそすれ、否定できる者は誰もいない。
「ロマリアってのはそういう国なのさ。奴らは相手の気づかないうちに、内側からジワジワと喰い破って支配するのがお好みなんだよ。『賞金稼ぎ』なんて制度を設けたのも、奴らの『計画』の一端。そして見事にその筋書き通りに踊ってるのがオマエらみたいな『力』に頼ることしか知らないバカな連中って訳さ。……さらに、その『計画』ってのが傑作よ。」
女は実に楽しそうに話す。話すことで、俺たちが『地獄』へと追いやられていく姿を想像しているのだろう。
「『人類キメラ化計画』それがあの腹黒い市長の親玉が考えてる『この世界の未来像』さ。」
内容はすぐに想像できた。
特殊な『力』を持った人間を化け物と掛け合わせたり、『力』のない人間を化け物へと改造したり……、要は『バケモノ製造工場』を造るつもりなのだ。
「その素体を一度に狩ろうって式典なんだよ。女神様の見てる目の前で。……なぁ、傑作だろ?」
思わず気絶しそうになってしまった。
女の嘲笑が、『悪夢』の呼び水のように感じた。
払拭しようと躍起になっていたあの『悪夢』が、『復讐』とでも言わんばかりに、再びこの現実に姿を見せようとしているのだ。
俺は慣れ親しんだ絶望を覚えた。
だが同時に、ようやくこの女の『何か』の正体が明らかになりつつある気がした。