振り向くとリーザが泣いていた。そこで思わずどうしたのかと尋ねてしまったのが間違いだった。
「ううん、違うの。エルクが羨ましかっただけだから。すごく、大切に想われてて。」
リーザの素直な感想は気恥ずかしく、否定したい気持ちもあったが、そうすることもまた恥ずかしい気がして、結局は黙って受け入れることにした。
逆に、欠伸をしながら眠る体勢に入ろうとしているパンディットに些か腹を立ててしまったが、これもまた飲み込んだ。
そんな一部始終の様子を見ていたビビガの溜め息は、明らかに「阿呆」と言っていた。
こうなると天の邪鬼な俺からしてみれば、ビビガの頼もしい言葉に素直に甘えたものかどうかも迷ってしまう。
「勝手に泣いちゃってゴメンね。」とリーザのフォローがなかったら、もう一悶着あったかもしれない。
「全く手の掛かる」と自分でも情けなく思えた。
俺は省いていたリーザとパンディットのこと。今の時点で把握している情報から模索した自分なりの考えをビビガに伝えた。
リーザの能力。その『結果』であるパンディット。ハイジャック犯と黒づくめの連中の関係。リーザの話から予想した連中の背景。一先ずはヒエンで高飛びして彼女を故郷に帰そうとしていたこと。諸々。
驚くことに、ビビガはお得意の茶々を入れることもなく、適当な相槌を打つだけで黙って俺の話を聞いていた。それは、『初めて』と言ってもいいくらいに珍しいことだった。
「悪いな、お嬢ちゃん。賢いアンタだから分かっちゃあくれると思うがよ、残念ながら!……この出来損ないの方が俺にとっちゃあ、アンタの言う大事な『家族』って訳よ。それを踏まえて聞いてくれな。」
「もちろん。」リーザは溌剌とした笑顔で答えた。
そうして椅子を一つ引き寄せ、煙草に火を点け、肺に溜めた煙を深々と吐くと、ビビガの言う『俺好み』の答えを吐き始めた。
「まず確認するがよ、お嬢ちゃんを拉致ろうとした奴らってのは、ほぼほぼ昔テメエを実験室にブチ込んだ奴らで間違いないんだな?」
頷く俺は、知らず知らず挑むような目付きになっていた。
「だったらテメエ、難しく考える必要なんかねえ。ヤラれたらヤリ返せ。お嬢ちゃんをエサにしてとことんやり合うだけだ。」
「ビビガ、テメエそれ本気で――――。」
「まあ黙ってろ。」
思わず口を挟んでしまった。だが、護るためにここまで連れてきたリーザを囮に使うような真似なんてできる訳がない。そんなの当たり前だ。
「テメエの言いたいことは百も承知で言ってんだ。だがよ、テメエがそう考えてること自体が見当違いだって言ってんだよ。」
ビビガはわざと話すペースを一定にしないようにしているのか、合間々々に深呼吸をするように煙を吸っては吐く。
「いいか。ハイジャック野郎はマフィアの指示でアルディアが招いた要人を人質にしやがった。」
ビビガは俺が曖昧に話した内容を断定的に語る。
「そして、利用されるだけ利用されて身内から消された。っつーことはだ。少なくともそこには、雷野郎を確実に消すだけの力を持った連中が集まっていたってことだ。」
俺は苦悶の表情を浮かべながら助けを請う雷野郎の顔を思い出す。
「その十人余り集まった超絶なヤカラ共は、不手際で逃げられた嬢ちゃんの回収も受け持っていた。そんな連中からテメエはいとも容易く嬢ちゃんを奪った。なのにテメエには一切のお咎めなし。対して嬢ちゃんには今でもその身柄に高額の賞金が掛けられている。この意味が分かるか?」
分かっていたが、口にしなかった。それには腹立たしさもあったが、俺の悪夢を肯定する意味も含まれてしまうからだった。
だがビビガは鰾膠もなく言い放った。
「奴らはテメエの力なんぞ鼻にも掛けちゃあいねえ。」
本物の『マフィア』の力は底が知れない。奴らがその気になれば、必要な人手の数も質も思いのままに用意できてしまうからだ。
それに、奴らが手にしている力の類いは金や権力、武力に止まらない。裏社会を統べる要である情報収集力があり、自分の感情も他人の感情も殺す非人道的力があるからだ。
「分かるか?いくらテメエが一人で奴らを叩こうと躍起になったところで、連中はテメエなんかを相手にするはずがねえだろって話だ。」
ビビガは今一度、煙で場の空気を整えた。
「断言してもいいが、このまま嬢ちゃんを故郷に帰せば、これまでの5年間と変わらねえ日々が続くぜ。オメエはまだ、マフィアの情報操作のエゲツなさを甘く見過ぎなんだよ。」
こればっかりは十二分に反省しなきゃならない。奴らは肥れば肥るほどに、『不可能』がなくなっていく組織なのだ。
「そんで、こういうネチっこい奴らは絶対にリーザは逃がさねえ。っつーことは結局、振り出しに戻るだけってことだな。」
全くもってその通りだ。自分がどれだけ目先のことしか考えていなかったのか、ツメの甘さ思い知らされた。
「加えて俺の憶測を一つ言わせてもらうなら、奴らの言う『要人』は『嬢ちゃん』自身だったんじゃねえかって話だ。」
俺は唖然としてしまった。
どうしてだか、その発想は全くなかった。リーザの力の応用力を考えれば十分にありえる話なのに。
「俺も、集めた情報を鵜呑みにしちまっていたがよ。話の流れからすれば十分にありえる話だ。」
『人質』という名目で上空に待機させられていた客船も、ハイジャック犯も、全ては黒服たちの行動を隠すための『囮』だったんだ。
「それで?聞くのも野暮だがよ、これからどうするつもりだ?」
逃げても無駄。だが、正面からぶつかっても玉砕するのがオチ。だったら、姑息に戦うしかない。それこそ、ビビガの言うように、『何か』を囮にして……。
俺は振り向いて『彼女』の顔色を伺う。
「エルク、私なら大丈夫。私、エルクのこと、信じてるから。」
その言葉は逆に俺の決心をグラつかせる。……でも、やるしかないんだ。悪夢を払い、リーザを護るためには。
「……リーザには悪いが、奴らが尻尾を出すまで少しここに留まることにする。その間に他の賞金稼ぎの協力が得られるかどうか当たってみるよ。」
「そうか。まぁ、結局は奴らを相手にした時点で死と隣り合わせは決まってるんだがな。」
マフィア対個人。質では対向できても、数では圧倒的に敵の方が有利なのだ。数の分だけ敵には手段があって、俺たちを始末するだけならいくらでもやり様はあるってことだ。
俺たちはその裏を掻くか、敵の力を上回る何かしらの手段を手に入れなきゃならない。
一個人が国家規模のマフィアを相手にしたところで、焼け石に水なことは分かっている。しかし今現在、それ以外に俺の信念を貫く方法はないように思えた。
「堪えるのも一つの手だと抜かしやがる奴らもいるだろうがよ、テメエがそれを真似てたらあっという間に禿げたちまうだろうよ。」
「だろうな。」
性格的に持久戦に向いていない。自他共に認める俺の欠点だ。
「とりあえず、これは一度覗いてみな。」
ビビガは無造作に二枚のチケットを机に放った。4日後に開催される女神像公開式典の入場券だった。
「まあ、なんにしても、ベッド、もう一つ用意しなきゃな。手伝ってやるから後で取りに来いよ。」
「あ?」
真面目な話が続いていた中で、突然このオッサンが何を言っているのか分からなくなった。
「オメエまさか二人で一つのベッド……、なんて思っちゃいねえだろうな?」
「な、馬鹿野郎!」
「テメエに春が来るなんて100年早いんだよ。」
「テメエに言われたくねえよ!」
ビビガは呆けたように口を開けたまま俺を見ている。
「オメエ、嬢ちゃんが来てからというもの、語彙までポンコツになっちまったな。 嬢ちゃんにホの字なのは分かるがよ、まったく、心配になるぜ。」
「黙らねえとテメエの大事なヒエンを消し炭に変えちまうぜ。」
俺は精一杯の悪意を込めてぶつけた言葉なのに、ビビガは「今回はこのくらいにしといてやるよ」と言いた気に手を振りながら席を立った。
「……ベッド、昼飯の後にでも取りに来な。」
立ち去るのかと思えば扉の前で立ち止まり、その汚ならしい顔を振り向かせて、かなり重要な話を溢した。
「そうだ。言い忘れてたが、昨日辺りからシュウがこの町に来てるらしいぜ。」
「シュウが?」
5日前に別件を抱えていたシュウは、「そう時間の掛かかる仕事ではないからすぐに合流できるだろう」と言っていた。
「俺んとこにはまだ顔出してねえし、仕事で流れて来たんじゃねえか?」
そうだろうか。シュウの言葉ではそんなに動き回るような仕事ではないようなニュアンスだった。
「ご飯、食べましょう。冷めちゃうわ。」
もしかしたらシュウもまた、俺たちと同じ連中に振り回されているのかもしれない。
「エルク……、」
見上げると彼女は少し怒っていた。
「気持ちの切り替えは大事よ。美味しいものは美味しく食べなきゃ。」
俺は本当に、護っているのか、護られているのか―――。
「ああ、そうだな。悪い。……リーザの作ったベーコンエッグ、美味しいぜ。」
俺は今、ハッキリと気付くことができた。つい先日、彼女に感情を『操作』されたと感じたそれが全く違うものだと。
彼女が笑えば、自然とつられてしまうこれは彼女の抑えがたい『魅力』だったんだ。