聖櫃に抱かれた子どもたち   作:佐伯寿和2

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拳に刻まれた歴史 その十一

たとえ、次の瞬間には隣人が殺されていてもおかしくないというような腐った世の中だったとしても、そこいらの凡人よりは地獄を経験してきたという自信がある。

それで負った傷の中には全快に一年以上をかけたものもあった。

そんな私でも「初めて」の恐怖には抗えない。それが「人間」という脆弱な生き物の弱点なのだと改めて実感した。

 

私たちを先導するように、魔女の狼が大きな体にかかる重力を感じさせることもなくヒラリヒラリ、スルスルと過酷な道を苦も無く進んでいく。

私は思う。ここは本来、あんな特別な生き物だけが往来を(ゆる)された地なのだと。

 

ゆうに直下100mを見下ろすことのできる絶壁。岩と岩の間をかまいたちのような鋭い風が駆け抜けたと感じたなら、次の瞬間には足といわず体幹そのものを狂わせられる。ひんやりと湿った空気は悪寒を誘い、襲う恐怖を水増ししていく。

「…きゃっ!……クソ…ッ」

道を踏み外し、情けない悲鳴が漏れそうになる度に、シャーヒダは歯を砕く思いで声を噛み殺した。これまで何十人と呪い殺してきた魔物の正体が「少女」であることを曝すようなか弱い悲鳴が、憎らしく思えた。

 

それでも少女は何度も足を滑らせ、何度も岩の出っ張りを掴み損ねた。その度に全身から血の引くような思いをし、僧兵と結んだ縄で命を取り留めた。

そして、プラプラと宙吊りになる自分は客観的に見ても金魚のフンのようで、屈辱を覚えずにはいられなかった。

あのデブでさえこんな醜態は晒してないのにっ!

 

そこにはグレイシーヌ国特有の墨の濃淡を感じさせる冷気(くうき)と、それで描かれた「景観」を象徴する静寂が揺蕩(たゆた)っている。

そして前触れもなく奈落へ転がり落ちる小石が――鹿威(ししおど)しが鳴るがごとく――、それら全てに波紋を落とす物音となって辺り一帯に響き渡る。

そんな幽玄さ漂う中、晒される失態、醜態はどうしようもなく浮き彫りになり、彼女は心をひどく掻き乱された。

「…少し休もう」

「そうだな」

「……」

正直、見下していた相手から気を遣われていることが(しゃく)で堪らない。だけどそれ以上に、自分の胸に手を当てて感じる鳴り止まない動悸が、覚悟のなさを露見させているようで恥ずかしかった。

それこそ、今ここで彼らを皆殺しにしてしまいたくなるほどに。

……だけど、

「水だ。喉の渇きは本能的恐怖を煽るものだ」

「……」

私は恐怖しているらしかった。わかってはいたけど、いまだに私の心がそんな感情に未練を持っていたなんてことに驚いてしまった。

この身には劫火(ごうか)に狂いながら命を落としたあの人たちが宿っているというのに……。

「……」

休憩中、忽然と現れた銀髪の狼が彼らのリーダーに何事かを言うとまた忽然と姿を消した。

その時、奴がこちらに目もくれなかったことに悔しさを覚えた。

 

あの冷徹な獣の目は私の脳裏に「あの日」を投影する。本来、私もその中にいるべき情景を。鮮明に。

私はあそこで耳にした全ての悔恨を清算させるため、アイツも利用する気でここまで生き延びてきた。

それなのに、この体たらくはどういうこと?王族としての誇りも捨てて、こんな(いや)しい姿に堕ちたというのに。たかが山登りでクズ共の足を引っ張るなんて!今までのことはママゴトだとでも言うつもり?!

歯痒さに耐えられず、手にした水筒を岩壁に叩きつけてしまった。

「……」

全員の視線がこちらに向けられた。その目に、また腹が立った。クズが水筒を拾ってまた差し出してきた。

「これ以上足並みを乱すようであれば寺に引き返す。いいな?」

くだらないことで民の命を化け物の餌にしようとしていたクズのくせに。自分の土俵に上がった途端キツネみたいな顔で見下して……、クソッ!

 

ある一点において人並み外れた能力を発揮するケースはそう珍しいことでもない。そういう奴は総じて勘違いをする。

あの自称「呪術師」も結局はそういう自惚れたお嬢様ってことだ。

顔の火傷に触れながら、俺は自分と同じことをしているバカを横目に見た。……それはそれとして、

「それで、シュウはなんだって?」

俺は、ごくごく自然に彼がアークを「リーダー」扱いしている姿に、違和感を覚えずにはいられなかった。

もともと軍人だったってのは聞いてたけど、「一匹狼」が売りだった彼が当たり前のように組織の一部として動いている姿は「奇妙」に映って仕方がない。

でも、それが必要だから彼はそうしている。それなら俺もそれに倣うべきなのかもしれない。そう思ってアークに指示を求めた。

「シュウは俺たちが山頂を目指しているのを見届けた監視が引き返していくのを確認したらしい。ヤグンの癇癪(かんしゃく)を警戒するために国境付近の動きを見に行くそうだ」

さすがに寺に部下を潜伏させていただけあって、ヤグンも経典の封を解く儀式が場所を選ぶことを知っていたらしい。

無条件降伏を勧告したにも拘わらず僧兵を強化しようとしている俺たちの行為は十分に「反抗的な態度」と取れる。つまり、いつでも「見せしめ」が始まってもオカシクないってことだ。

「なのに俺たちは呑気に山登りか。笑えるね」

バカ猿が早とちりしてるみてえだけど、俺はシュウの判断を信じた。

彼の力なら監視を殺すこともできた。なのに見逃したってことは――当然、定期連絡から異常を察知されるのを避けたかったってのもあるだろうけど――、まだ他にそれを引き延ばす手段があるってことだ。

そう思ってた矢先、アークは俺の想定とは違うことを言い始めた。

「そうだな。お前がそう言うなら、先に前線に行くか?」

「お、マジか?!いいねえ!やっぱり話せる奴が大将だと退屈しなくて助かるぜ」

「ふん、調子の良いこと言って俺たちに尻拭いをさせるなよ?」

「カカッ!誰がそんな勿体ねえことするかよ!俺が全部片付けておくからテメエらはのんびりピクニックしてろよ!」

そう言ってトッシュとポコとゴーゲンは魔法で前線に向かった。

 

「おい、マジでいいのかよ?あんないかにもバカをやる気満々な奴を先に行かせてよ。俺たちが着いた時には絶対(ぜって)ぇ、しっちゃかめっちゃかになってるだろ」

「はははっ、確かにそうだろうな」

「確かにって…、いったい何か考えてんだよ」

「そうだな、エルクもこれから嫌でもアイツと付き合わなきゃならないんだ。だから一つアドバイスをしてやるよ」

真面目なのか不真面目なのか。アークは笑いながら言った。

「アイツは何か考えて動けって言うとバカみたいに突っ込んでいくけど、逆に好きにさせておくと案外良い動きをしたりするもんさ」

「…それ、うっかり期待すると裏目に出るパターンじゃねえの?」

「あっはは!なんだ、わかってるじゃないか」

俺たちのリーダーが大声で笑う傍らで、イーガも「もっともだ」と言いたげに頷いてやがる。

「ホント、お前らよくそれで生き残ってきたよな」

とは言え、アークの人を見る目はシュウと同じくらい確かなんだ。だからこうやって人によって扱い方を変えるのも経験からきたコツなのかもしれない。

「時間がないんでしょ?!ダラダラとくっちゃべってないで出発しなさいよ!」

少しは精神的に回復したらしいお嬢様が怒鳴り始めた。

「そうだな。じゃあそろそろ行くか」

お嬢様に邪魔されちまって聞けなかったけれど。いったいアークは俺をどう使うのか。俺は密かにそれを期待していた。

 

そうして登ること約一時間。下から見上げた時は想像すらしなかった開けた場所にたどり着いた。

巨大なナイフでも走ったかのように、密集する山々の頂きが並んで切り落とされて一つの平地をつくっていた。

山と山の隙間には簡素な板橋が架けられ、その全ては中央の一番大きな山へと続いている。

「も、もう歩けないわ……」

「…ハァ、ハァ……」

さすがのリーザも本職の俺たちには敵わないという姿を見せていて、むしろ俺は安心した。

そして、彼女に並んで呪術師のお嬢様が息を切らせて蹲ってる。たけど、その疲労は若干性質が違って見えた。

リーザは体力的なものだろうけど、シャーヒダは違う。

まるで自分が操る亡霊たちに首を絞められているような、妙な汗をかいていた。

「”汝、(とが)と罪悪を見誤ることなかれ。息せよ。()御霊(みたま)の加護を(まと)う者なれば”」

肩で息をするお嬢様に近づいたかと思えば、イーガが唐突に謎々みたいな説教をするもんだから、お嬢様も苛立たしげに見上げるしかない。

「己を育てた者の行いを疑うな。自らの行い全てに勇気を持て。さすれば心身は常に平静を保つという教えだ」

「……」

「この山には己の深層を見つめさせる力がある。己を見失えば体は自ら谷へと落ち、過ちを償うと言われている。本来、お前はまだ寺で修練すべき身。しかし、私たちはお前の同行を許した。ならばその気概を見せてみろ」

「…ペラペラとよく回る舌ね。そんなに優位な自分に酔いしれたいわけ?そんなんだからここ一番で大切なものを護れないのよ」

「…ふむ、確かに一理あるな。感謝する、覚えておこう」

「……」

俺はアークやイーガのやり方に疑問を感じた。

シャーヒダが「呪い」を頼りに生きる人間だってんなら、そうやって「優しさ」を見せるのは本当に正義なんだろうか?

俺自身にしてもそうだ。今までの俺は「復讐心」を燃料にして『炎』を使ってきた。けれど俺は――それに気づいたのはつい最近のことだけど――それを別の感情で代用できるようになってる。だから()()()()()()

もしもこのお嬢様にそれができないなら、二人のやってることはある意味、それこそ呪いを掛けているようなもんじゃないか?

「大丈夫だよ。あの人はそんはに弱い人じゃないから」

言いながら彼女は俺の火傷をソッと撫でた。

俺はそれをされるだけで毎回、安らぎと興奮を覚えるようになっていた。彼女はそれに気づいているに違いない。

なぜなら、それが今の俺の燃料になっているからだ。

彼女の親愛なる弟が、俺の中の仲間を疑う雑念を追い出すように体を擦りつけて俺の冷えた体を温めてくれた。

 

……いつだったか。どこかで対峙した化け物が俺の炎を見てこう言ったのを思い出した。

「お前は世界に愛されている」

もちろん、俺はそれを否定した。ソイツが利用したミリルの幻を焼いて『悪夢』をより強く感じてた。

だけど、本当はアイツの言う通りだったのかもしれねえ。

こうして彼女と想いを交わし、支え合っている今だからこそ。シャーヒダと自分の違いを感じるからこそ、今の俺はアイツの言葉にほんの少し共感することができた。




※租(そ)
古語における二人称、「お前」の意味合いで使いました。
平仮名での使用例は確認したんですが、漢字表記が見つけられませんでした。
(平仮名だと読みにくいと思って、必死に検索してみたんです)
確か、こんな漢字だったと思うんですが……(^_^;)

※エルクの状態
私も忘れがちなんですが、エルクは「白い家」で重傷を負い、アークとククルに癒やしてもらいますが、左目から頬にかけて火傷が残っています。
(169話『巫女の砦 その四』)
また、スメリアのギルドで、ギルドから情報を奪った演出として、ギルド職員から左耳を撃たれています。耳たぶを落とされた程度で、耳そのものはなくなっていません(血の付いた耳飾りを証拠にするため)。
(182話『ラッパ吹きの行軍 その十三』)

ちなみにですが、シュウも「白い家」でシャンテの協力を得るために左手の小指を切り落としています。
(111話『悪夢たちは彼の後ろ髪を引く その十七』)

自分で設定をつくるとホント、頭から抜けてしまうんですよね。反省しますm(_ _)m

※マジですんません!
パンディットのこと、今まで忘れてました(T_T)
もしも、これより前の話を書き直す場合、報告あげます。

※「お前は世界に愛されているのさ」
178話「ラッパ吹きの行軍 その九」で敵モンスター(修験者)がインビジブルで不自然に強化されまくったエルクに対して憎しみを込めて放った言葉です。

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