プロディアスに入ってからは特に何も起こることなく、ゴールまでたどり着くことができた。プロディアスは基本的に『眠らない町』の一つで、俺のアパートに着いた時には21時を回ろうとしていたが、外はまだまだ賑やかだった。
扉を開けると、大慌てというような足音を立ててビーグル犬が駆け寄ってきた。
「ただいま、茶太郎。」
飛びついてくる勢いのまま、抱き上げて頭を撫でてやる。
「この子が茶太郎?はじめまして。」
家を4日空けても、コイツはキチンと迎えに来てくれる。今までもずっとそうだった。ミーナを家に呼ばなくなってから、悪夢で受けた古傷を舐めてくれるコイツは、俺にとって大きな心の支えになっていた。
「よろしくね。」
さすがにリーザは誰とでも打ち解けるのが早い。ただ、その後ろに控えているヤツはそう簡単にもいかないだろうと覚悟していた。
「エルク、大丈夫よ。」
リーザは問題の大型犬に前を譲ると、ぎこちないながらも両者は初対面の挨拶を交わしていた。
リーザが仲介したらしく、仲良しとまでは言わないが、お互いに受け入れ合っているようだった。
「そうか、それなら一先ずは安心だな。」
実際、どうしようか迷っていた。できれば油臭いビビガの部屋に大事な茶太郎を預けたくはなかった。だが俺の要らぬ心配で終わってホッとした。
「とにかく今日はゆっくり休もう。」
正直、クタクタだった。歩いて3日半かかる距離を、走ることで1日半に縮めた。しかもその半分はリーザを抱えていたのだから仕方がない。
「ごめんね、重かったでしょう?私もできるだけ自分で走ろうって思ってたんだけど、さすがにエルクの体力には敵わなかったから。」
「気にすんなよ。最近怠けてて体が鈍ってただけさ。それに、女を護るのも男の仕事だって言うだろ?」
体が鈍っていたというのは方便だが、男が女を護るって心構えは嘘じゃない。だが、今だから言える建前という点ではどちらも変わらなかった。
走っている時の俺はリーザを守ることで頭が一杯だった。ピリピリと周囲に目を配りながら、獣道すらない森の中を全力で走り続けた。待ち伏せが気になればパンディットに指示を飛ばして斥候をさせたりと、とにかく他のことを考える余裕なんてなかった。
ここでリーザを手放すくらいなら壊れても構わないと本気で思っていたくらいだ。
シュウやビビガに躾けられた俺が、そんな見境のない感情に身を委ねられたのは、俺がつけた『傷』をリーザが許してくれたからだ。
彼女の頑なな『拒絶』が解けた時、長い間悩まされてきた悪夢の何もかもを忘れてしまいそうなくらいの喜びを覚えた。
それは今でも余韻として胸の内に残っている。
「エルク。本当に、ありがとう。」
不意に、ソファに腰を下ろして気持ちを落ち着けている俺を、リーザは優しく、でも強く抱きしめた。俺は女の子と必要以上に接触することに慣れていなかったが、疲れているせいか、気持ちは穏やかなままだった。
「何て事ねえよ。」
リーザの体は柔らかい。触れ合う頬と頬がたくさんの言葉を交わしているような気がした。
俺は初めて女の人の包容力というものを知った。
『疲労』が名前を変えて体を温めていく。
とても、気分が良い。ベッドに横になるより何倍も。目を瞑り、リーザの温もりに全身を預けた。
「でもね――――、」
リーザの声は潤んでいた。
「私もエルクのためになら無茶をすると思うの。エルクみたく自分が分からなくなるかもしれない。でもね、絶対に『死んでもいい』なんて思わないで。」
耳元で告げられる彼女の告白は、俺の弱まった心の炎を熱く、熱く滾らさせてくれる。
「私だって、もっとエルクと一緒にいたいから。」
リーザの言葉を聞いた瞬間、俺は全身を掻き毟りたい衝動に駆られた。そうして自分の中の『負い目』を吐き出せるものなら今すぐにでも吐き出したい。なぜなら俺は、今でもほんの少し、彼女を恐いと思っているからだ。
心を読まれるという事実は想像した以上に恐ろしいことだった。それは実際に『隠し事』を見透かされて初めて理解できたことだ。
5年間、俺を縛り続けてきた悪夢は『弱い自分』の象徴で、他人には見せられない『羞恥』の塊でもあった。
『逃げられない』『引き返せない』『立ち向かえない』『護れない』どうしてあの頃の俺は何もかもから抑え付けられる弱い人間だったんだろうかと自分自身を情けなく思ってしまうくらいに。
常日頃、何気ない切っ掛けで俺は『それら』に囚われてしまう。もちろんリーザに出会ってから今までにだって何度もあった。
俺はできる限り平静を装うように努めてきたが、心も体も『俺』が忘れてしまった悪夢の実態を鮮明に憶えているものだから完全に隠しきることなんてできなかった。
その無様な『本性』の全てを見られているのかと思うと俺はどうしても彼女を「恐い」と感じてしまう。
俺が悪夢を克服しない限り、永遠にリーザの力に怯えを抱いていなきゃならない。
けれども、5年間手も足も出なかった『それ』に、『リーザ』が現れたからといって数日で片付けるなんてことできる訳もなく、できるだけ思い出さないようにすることで手一杯だった。
一方の、彼女を護りたいと思う気持ちもまた、紛れもない『本物』のはずだった。
だが今思えば、それは片付け方の一つのようにもとれる。結局のところ、自分勝手な感情なのかもしれない。だとしたなら、彼女が何と言おうと俺が彼女を護って壊れてしまうこともまた俺の『エゴ』だ。
まさしく俺は『化け物』のごとく、ガムシャラに森を駆け回っていただけなのだ。
そしてその『化け物』は、今となっては悪夢の次に強い『力』で俺を支配している。
リーザに嘘はつけない。
「それは多分無理な相談だと思うぜ。知ってるだろ?俺が感情的になりやすいのは。」
「今は口約束でいいの。『死なない』って言って。お願い。じゃないと眠れない。」
今だって、自分の感情の昂りを考えれば、できないことなんて分かりきっていた。それでも今はゆっくりと眠ってもらわなきゃならなかった。
「……俺は死なねえ。何があろうと生きてみせるよ。」
できる限り、自分自身に誓うように力を込めて一言一言を口にした。
聞き届けたリーザは無言のまま背中に回した腕を解いた。体を離し、再び対面する俺と彼女。絡み合う視線は、俺が経験してきた中で最も生々しく感じられた。
殺し合いよりも鮮烈で、悪夢よりも熱い。
「エルク、お休みなさい。」
そう言って見せた彼女の笑顔から目が放せなくて、俺は呆然とベッドに向かう彼女の背中を見送った。
俺は、賞金稼ぎとして育てられて初めての『恋』をした。いや、してしまったのだ。
恋をしてはいけないという訳ではないが、俺には必要がなかった。その前に解決すべきことがあったからだ。
だから戸惑っている。この気持ちに素直になるべきか。はたまた、一時の事と無視をするのか。けれどもそれは、決して俺を心から困らせるような悩み事という訳でもなかった。
むしろ不思議と心地好さを感じている自分がまたもどかしいと思うくらいだった。
強いて言えば、このどうしようもない『体の熱さ』を自分の中でとう納得させるのか。それだけが今すぐに答えの必要な、ただ一つの問題のようだった。