聖櫃に抱かれた子どもたち   作:佐伯寿和2

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拳に刻まれた歴史 その六

――――経典を奪還したイーガらが寺に帰還する少し前

 

寺の一番端の客間に一人の呪術師の姿があった。

彼女は炉の中で揺れる荒々しい紅蓮の雫を一心に見つめ、それに(なら)って揺れる瞳の内側の影を鎮めようとブツブツと何事かを唱えていた。

「…もう少しです。もう少しで我らの悲願が成就いたします。ですからどうか、今しばらく私に猶予をお与えください」

 

――――殺す、殺す……、

 

その二文字が彼女の心の中を縦横無尽に泳ぎまわっていた。

それらが空腹を感じた時、今やそれをおいて他に繋がりを示すもののない額の朱い印(ティーカ)に触れ、彼女は彼らの怨嗟(こえ)に耳を傾ける。

そうして瞼の裏に浮かび上がってくるものは、(いや)しい獣に噛み砕かれて地面に転がる親しい者たちの亡骸。(けだもの)と私たちの戯れを嘲笑い取り囲む炎たちは、散らばった血と肉を飲んで大きく、大きく育っていく。そして……、

「……うぅっ…」

それらに触れる度に頭痛が走る。けれど、これ以外に彼らを留めておく方法を知らない。

 

呪術師は黒染めされたローブで全身を覆い、体の内側から手を伸ばし、爪を立てる彼らを抑えつけていた。

 

…あの日以来、この苦しみはいつだって私の傍にあった。

炎天下の中、砂漠を彷徨い、河を見つけては砂を(ふる)って金を集めるような日々だった。復讐の対象を見つけ、少しずつ少しずつ力を蓄え、蓄えた力で一人を操ってはまた力を蓄える。この繰り返し。

術に失敗し、報復にやって来た人間をこの手で殺し、血を飲んで生き永らえた時もあった。

もしかすると終わりはやって来ないのではないかと。このまま、ただただ化け物となって死んでいくのではないかと、自分を見失いそうになる日も少なくなかった。

……そんな時、私は必ずあの人から与えられたナイフを見つめる。

このナイフで首を串刺しにする。それだけでこの醜い人生に終止符を打つことができたというのに。私はその選択を拒絶し続けた。

頭痛が私の人格を壊した。痛みが治まらなくて、眠れない日が続いた時は何かを殺していないと気が狂いそうだった。

 

だけど、それも、もう終わる……

 

ようやく、ようやく私の呪いが大成しようとしている。

だからこそ、落ち着かなきゃならない。あんな、名前と態度ばかりがデカい自称テロリストごときに動揺させられている場合じゃない。

 

呪術師は長椅子の上で足を組み、燃え盛る炉の中にチップ状の香木を()べ、立ち昇る煙を吸って心を研ぎ澄ませていた。

 

「…来た」

 

瞑想の最中、空気の変化を察知して一つ目の標的が寺に帰還したことに気づく。

空気を乱さず、おもむろに椅子から立ち上がると、その気配を見失う前に場所を移し、建物の陰から正門を見遣った。

「……老けたわね」

それが、幾度となく夢に見たお前の今の姿。赤く燃えるあの炎たちの傍にひっそりと立つ一匹の獣の正体。

お前は私を撃たなかった。それが憐れみか辱めか。それも今となってはもはやどうでもいいこと。

だけど、私の目に留まったからには逃がしはしない。あの悪魔と刺し違える杭になってもらう。

「……」

一瞬、男がこちらに気づき、視線を遣った。彼女の瞳から漏れ出すおどろおどろしいまでの腐臭が男の警戒心を駆り立てたのだ。

しかし、男は彼女の位置を捕捉するだけでそれ以上動く様子を見せなかった。……なぜ?

あれだけ鋭い嗅覚であれば私が何をしようとしているか予測できるだろうに……。

 

…それは憐れみか?それとも辱めか?

 

胸の内で囁く声があった。

「……お前も、憶えていたのね…」

呪術師はそれを感じ取った。あの地獄の中で唯一、言葉を交わした旧友との再会に震え、静かに笑った。

 

 

 

――――アークと合流したイーガらは道場にてリュウゲン王との話し合いの場を設けた

 

敷き詰められた石畳の中心に、ラマダの教えを説く文言と(いん)が描かれている。

それらを踏むことで徳を積むことができると考えている彼らは日々の鍛錬においてもこれを意識し、己の重心が地にあることを心身に刻み込む。

なぜならラマダの拳とは、不動の大地を起点に繰り出される大自然の御業(みわざ)でなければならないからだ。

たとえ、寺に在籍する者が全て極致には程遠い未熟な者たちあろうと、そこに二百もの僧兵が居並べばまさに地の神(ラマダ)の力強さが具現化されるかのようだった。

そして彼らはこの地で学んだ教えを日々、胸の内で唱え続けてきた。片時も忘れたことはない。

 

この肉体(からだ)は国を守る壁であり、矛であると。

 

「それで、なんで俺らが一番前に並ばなきゃなんねえんだ?」

あたかも居並ぶ二百の屈強な男たちを引き連れる戦場の将であるかのように、アークたちはその隊列の最前列に並んでいた。

「お前の言いたいことはわかるよ。でもこれはイーガなりの国王への主張なんだ。我慢してやってくれ」

「チッ、コイツらが背後に立ってると暑苦しくて仕方ねえんだよ」

 

「…シュウは?」

油断したつもりはなかった。彼が呪術師への警戒を呼びかけた時から、どこかで彼が動くことは目に見えていたからだ。

それなのに、ほんの少しリーザの「大」冒険(たん)に耳を貸していたかと思えば、そこに彼の姿はなくなっていた。

「シャーヒダ、襲撃してきた呪術師が妙な真似をしないように警戒してもらっている」

「マジかよ。なんで俺には一言も声をかけてくれなかったんだよ。ここにいたってすることなんか何もねえのに……痛っ、おい、何すんだよ!」

俺はなぜか機嫌を損ねたらしい彼女に思いっ切り耳を引っ張られていた。

「…お前たち、頼むから少しは緊張感を持ってくれよ。これだって重要な作戦なんだぞ?」

整然と並び、その時がやって来るまでピクリとも動く気配のない僧兵たちに対し、アーク一行は確実にだらけていた。

私語はもちろんのこと、その場に座り込んで酒を飲み始めるもの、杖に寄りかかって眠りこけるものまでいた。

「っつってもよ、ここで俺たちが口を挟むことなんてあるのかよ?」

「言っただろ?俺たちがここにいるだけで一種のアピールになるんだよ。俺たちがグレイシーヌに協力的な勢力だということ。それと、俺たちと寺の人間は降伏せずに戦う。その意思表示さえできればそれでいいんだ」

「ハッ、さすがは国際テロリスト様だな。王様に対してまで影響力があるなんて、いいご身分じゃねえか…痛っ!だからなんなんだよ!」

「エルク、そんな言い方はないわ。言い直して」

「え?」

彼女に言い返されるなんて思いもしなかったエルクは思わず言葉を詰まらせてしまった。

確実に、彼女は怒っていた。…なぜ?

どちらかと言えば彼女の立ち位置は少年側で、アーク一味に良い印象など持っていなかったはずなのに。今は明らかに真逆の態度を示していた。

恋人のその急変っぷりに少年は若干の動揺を隠せないでいた。

「ど、どうしたんだよ。急に」

「いいから。後で説明するから、とにかく言い直して」

「なんだよ、それ…。…わ、悪かったよ……って、アークテメエなに笑ってやがんだ、ブッ飛ばすぞ!?」

その様子はまるで躾けられる仔犬と飼い主のような場違いな光景に見え、青年は笑いを(こら)えることができなかった。

「いや、すまない。…ククッ、お前たちはいい夫婦になれるよ」

「ふ、ふ…、テメエ、バカにしてんのか!?」

「ちょ、ちょっと、エルク、さすがに声が大きいよ」

そうして怒りの矛先は、間の悪い楽士に向けられた。

その活き活きとした表情を見て青年は思い直し、僧兵たちに謝罪した。その時が来るまで彼らを自由にさせておくことにしたのだ。

 

十分後、騒がしい道場に銅鑼(どら)の音が厳かに鳴り響き、同時に、不敬な者たちへ野太い警告の声が飛んできた。

「リュウゲン王の御前である!」

そうして招かれた男は、ミルマーナ軍の刺客の目を欺くためか。王というにはあまりにも質素な出で立ちをしていた。

しかしその男は間違いなく、この寺の師範代と数人の侍女を従えるほどの権力者だった。

そして、彼らの重苦しい表情を見たアークは、早くもこの作戦の失敗を予感していた。

「ラマダの守り人たちよ。日々、鍛錬に励み、我が国の泰平を望むその姿、真に喜ばしい限りだ」

言葉とは裏腹に、その声色からは世界一の人口を誇る国の王とは思えない気の弱さを感じさせた。そこに、ありもしない無数の絞首刑の仕掛けを見るかのような悲嘆の表情を浮かべていた。

「だが此度、私がここにやって来たのはその方らに戦の準備をさせるためではない」

さすがに普段は立派な「王」としての役目を果たしていたのだろう。その意気消沈した彼の姿を見て、僧兵たちの間に動揺が広がり始めていた。

そして、間を置くこともなく刑は執行された。

「グレイシーヌはミルマーナに無条件降伏する」

「王よ、それは真ですか!?」「王よ、まだ間に合います!」「王よ、どうかお考え直しください!」

「王よ、王よ……」屋根のない道場だというのに、彼らの忠誠心を示す希望はそこに響き渡った。

しかしながら、「王」と呼ばれる男はそれでも彼らの首に縄をかける手を止めはしなかった。

「ついてはこのラマダ寺を解体、すべての僧兵はミルマーナに身柄を引き渡すことになった」

「な、なんと?!」「我々を見捨てるおつもりか?!」「バカな!」「ありえぬ!」

もはや彼に「王」の名を冠する礼儀さえ忘れ、グレイシーヌ国のいち民である彼らは、より明確な落胆と非難の目を国の象徴である御身へと向けた。

「裏切られた」それが彼らに共通する屈辱の色だった。

すると、今までイーガの不在を支えてきたであろう一人の僧正が一歩前へと進み出て、彼らの無念を言葉に変え、まるで背後の山へと呼びかけるかのように嘆願した。

「我らはラマダ僧兵。国の盾であるその宿命に従い、日々、修練して参りました。ならばせめて、たとえそれが捨て身であろうと、奴らに『ラマダ』の拳を刻みつけるのが道理ではないでしょうか」

いいや、もはや今の彼らにとって、守るべき道理すらどうでもいいことのように思えていた。そんなことよりも、このどうにもならない怒りを何かにぶつけないことには腹の虫が治まらないのだ。

しかし、彼らも気づいていた。彼らの中で最も『ラマダ』に忠実であろうとした男がすでに()()()()()()()()()()()ということに。

王もまた自らの命惜しさに民を売る男ではない。それも理解していた。

しかしながら、血の滲むような苦行を重ね、化け物さえも拳で打ち払う術を身に付けた彼らの証ともいえる誇り。それが空を切っていく無慈悲極まりない「世界」に、彼らの苦渋の決断に理解を添えることができなかった。

 

民の心情を理解しなかった日はない。王の険しい表情はそれを物語っていた。

「その方ら僧兵は強い。それを疑ったことはない。…だが、ミルマーナにはヤグンという悪鬼がおる。奴は列車砲なるものを造り、僧兵の壁を越え、民を焼き払うと宣言してきた。これが何を意味するか、お前たちにもわかるだろう」

仮に、僧兵が十の怪物を薙ぎ払ったところで、その間にたった一つの砲台がペイサス市の数百、数千の命を奪うだろう。そうして僧兵が命懸けで全ての敵を打ち倒した時、ペイサス市にどれだけの民が残っていると思う?

ペイサス市だけの話ではない。奴らの凶弾が届く範囲は全て、すでに奴らの捕虜となっていると言っても過言ではない。

「だったらその列車砲ってやつを先に潰しゃあいいだけの話じゃねえか」

「……」

口を挟んだのは赤毛の猿だった。王は一瞥(いちべつ)するもそれには応えず、それの飼い主に目をやった。

「アーク・エダ・リコルヌ…。噂には聞いていたが、よもやここまで年若い男だとは。さすがに驚かされたぞ」

「お初にお目にかかります、リュウゲン王。そして無礼を承知で申し上げますが、王は我々の目的をご存知でしょうか?」

「無論だ。お前たちはミルマーナ、ひいてはロマリアに巣食う悪鬼どもを一掃しようとしている。そうイーガ殿から聞いている」

「ならば―――」

「だが、それがどうした。お前たちは人類を守るために闘っているのかもしれんが、我々はグレイシーヌのために闘っている。お前たちがこの国の、ラマダの在り方をどれだけ理解していると言うのだ」

先ほどまでの打ちひしがれた声色はどこへやら。その表情はいつアークに斬りかからんというほどに殺気立っていた。

「そこの侍が言っていたな。列車砲を先に討てと。そのような幼稚な手を誰が許す?相手を誰だと思っている?かの将軍が今までどのようにして他国を攻め落としてきたか。お前たちは知らんのだろうな」

王は見下していた。人類を救うと言っても所詮、守る地をもたないものの寄せ集め。実際に悪魔を苦しめていたとしても、それは単に彼らが悪魔の巣穴でがむしゃらに暴れていただけに過ぎない。彼らが去った後、その地で呻くものの声にどれだけ耳を傾けているか知れたものではない。

猿の言葉がそれを十分に証明していた。

しかし、猿もまた一歩も引かなかった。なぜなら彼もまた、王には及ばずとも多くの命を預かった経験があるからだ。

そして、そこから学んだ答えはいたってシンプルなものだった。

「そりゃあ答えになってねえだろうがよ、王様よ。俺はやればいいってアドバイスしてやったんだ。それが難しいってんなら、それができるように頭を捻るのがアンタらの仕事だろうがよ」

――――仲間を危険に晒すものから殺せ。

それが敵の頭でなかったとしても。それがたとえ一匹の雑魚だったとしても。一番ムカつく奴から殺せ。

それが彼の答えだった。

 

しかし、リュウゲン王は徐々に怒りを露わにするだけで、彼の言葉に耳を傾けようとはしなかった。

「今、この国に敵の間者がいないとでも思うか?我らが少しでも妙な動きを見せれば、ヤグンは私の話を聞くまでもなく、かの凶弾をペイサスに撃ち込んでくるだろう。キサマはそれを止められるとでも言うのか?」

「バカか?テメエの言う国民ってのはピクリとも動きやがらねえ蝋人形か何かか?狙われるなら逃げればいいだろうが。逃げられねえなら戦えばいいだろうが。戦えねえなら護られればいいだろうが。コイツらはそのためにいるんじゃねえのかよ」

仲間を仲間として見ていない。かつての自分を見ているような気分だった。…いや、こんなに言ってやっても気づかない。自分(テメエ)よりもっと始末に負えないバカ野郎かもしれない。

「イーガ、だいだいテメエは何で黙りこくってんだ?テメエも闘う気満々だったんじゃねえのか?だからナンタラって本を取りに行ったんじゃねえのかよ」

猿はぶちまけた。その立場を理解できるがゆえに口を閉ざしてしまったバカな仲間のために。

「…まさか、イーガ殿、お主、経典を……」

「申し訳ありませぬ、リュウゲン王。私は同じ(てつ)を踏むのが恐ろしいあまり、愚かにも力に手を付けようとしてしまいました。ですが、もしも我らの命と引き換えに民の安全が保障されるというのであれば、私は王に命を捧げる所存です」

たとえ不在にしていたとはいえ、彼は紛れもなく寺の代表だった。その言葉一つで200人の命が動かせる。

その彼が決めていた。「命を捧げる」と。

「おいおい。イーガ、テメエ何とんちんかんなこと言い出してんだ?アークに斬られて血が足りてねえんじゃねえか?」

「…トッシュ、私は正常だ。そしてアーク、私はあらかじめお前に言っておいたはずだ。私は”ラマダ僧兵”だとな。よもやその意味がわからなかったなどとは言わせんぞ」

「……」

名指しされた青年はその言葉に導かれるままに一歩進み出ると、何を思ったか。腰の剣を捨て、甲冑を脱ぎ始めた。

「…ああ、わかっているさ。だから俺たちはもう一度お前を正気に戻してやるためにここにいるんだよ」

青年は自分を信じていた。一年間、彼と共に闘ってきた自分を。

そうして拳に布を巻きつけた青年は、あろうことかラマダ寺の師範代に対し、挑戦状を叩きつけていた。

「前に出ろ、イーガ。あの時の決着をつけてやるよ」




※道場
「道場」というと剣道部や柔道部が使用する「稽古場」的なイメージを持ちがちですが、
・仏さまが悟りを開いた場所
・説法をする場所、寺、寺院
という意味もあるそうです。まあ、どっちにしても王様との謁見の場に使うのは適してない気もしますね(笑)

※アークに斬られて血が足りてねえんじゃねえか?
186話『共謀者 その二』にて、アークが「ノーア」という賞金稼ぎに扮してキメラ研究所に潜入した時、アークの関係者である可能性を打ち消すためにイーガを斬る演出がありました。そのことです。

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