初めは『違和感』程度だった。だが立ち止まればそれは微かな『気配』へ、エンジンルームに近づけば近づくほど、明らかな『殺気』へと姿を変えていった。
気づけばその部屋からは、触れれば痛覚を刺激するほどの原因不明の冷気が漏れてきていた。
殺気の質で、この中にいるのがあの雷野郎じゃないことは確かだった。
だったらまずはこの部屋を無視して、まずその雷野郎を捕まえるのが筋だ。そんなことは分かっている。
そこに黒づくめたちの関係があろうとなかろうと、不確かな敵まで同格に扱っていたら、主犯を取り逃がしかねない。
あくまでも俺は『仕事』を与えられた側で、中身の優先順位を考える立場じゃない。それをするのは、状況に大きな変動があって、現場でしか判断できなくなった時だけだ。
だかこれはまさに、『その時』なのだ。もはや見逃して良いレベルなんかじゃない。雷野郎よりも深刻だ。
それにしても、なんて熟れた殺気なんだ。日常的に『何か』を殺していないと、こうは成長しない。そうだ、まるで俺の恩人がたまに見せる『それ』と似ている。
手こずることは間違いない。そうは言っても、いつまでもここで二の足を踏んでいる訳にもいかない。
思い切って一歩、部屋の中に踏み出す。すると一方の敵意が急激に膨れ上がった。爆発寸前といった感じだ。
もう一方は怯えているようにも感じられる。……どういうことだ?まだ人質がいたのか?
「余計な手間をとらせるなよ。ここで殺り合うなら、俺は躊躇わずにお前を殺す。」
口にした後、俺は鼻をひくつかせた。これは、獣の臭いか?油の臭いに紛れてはいるが、おそらく間違ってはいないはずだ。耳を澄ませば、エンジン音の中から微かな唸り声も聞きとれる。まさかとは思うが――――
船の揺れが、通路の光をチラリと部屋の中へと投げ込んだ。すると、闇の中から真っ赤な双眸がキラリと浮かび上がる。人間のそれじゃないことくらいすぐに分かった。話の通じるような相手でないことも。そして俺の危惧が実現してしまったとことを確信した。
「おいおい、なんでこんな所にいるんだよ。」
だったら、もう一方は何なんだ?どうしてそこにいられる?
空港が飼ってる番犬じゃあるまいし、いったいどこから迷い込んだんだ。部屋から漏れてくる冷気も、どうやらコイツの吐息のようだ。呼吸に合わせて冷気が押し寄せてくる。
これが雷野郎の切り札なのか?いやいや、このレベルの化け物をチンピラごときに飼い慣らすことなんてできる訳がない。
それ以前に、エンジンルームであんな奴に暴れられたら洒落にならない。人間社会に属していない分、能力者よりも質が悪い。状況次第では本当にこの船が沈むかもしれない。
船の外に誘き出すか。『飼い主』がいないのだとしたら?無闇に外へ引きずり出して、町に逃げられれば何人が犠牲になることやら。どうにかここで始末をつけなきゃならない。
中の状況を把握するため、手を伸ばして部屋の中のスイッチを入れてみるが、明かりは点かない。中にある配電盤を操作しているのかもしれない。……いったい誰がだよ。化け物か?人質か?もう、訳が分からねえ。
何にしても、これ以上睨み合っていても埒が明かない。鬼が出るか蛇が出るか。一か八か、懐の催涙弾へと手を伸ばす。
すると、今にもそれを投げ込もうとした時、予想だにしない声が俺の腕を掴んだ。
「お願いします。私たちをソッとしておいてください。」
若い女、というよりも、まだ幼さの残る声。それに彼女の言葉遣いはどことなく異邦人のようなたどたどしさがある。そしてそこに『殺意』など、欠片も含まれていないことは感じ取れた。
だが、女の子は「私たち」と言った。単純な捕食者と被捕食者の関係じゃないってことか?世の中には化け物を操る魔法や薬があるってことはもちろん知っているが、ここから感じ取った限りではその条件を満たしているようには思えない。
……だったら何なんだ。
「悪いけど、そうもいかねえ。これも仕事の内なんだよ。アンタが何者か知らねえし、どうするかも考えてねえ。だけどそのもう一匹は放っておけねえ。アンタも早く『それ』から離れた方が良い。」
するとまた、声の主は俺の予想していなかった言葉を返してきた。
「私たちはアナタの探している人とは関係ありません。その人なら甲板に上がりました。だから、見逃してください。」
関係ない。でも俺が何をしに来たのかは知っている。そしてソイツがどこに行ったのかまで。
矛盾しているように聞こえるが、不思議と嘘をついているようには感じられなかった。
それでも――――、
「言ったろ。俺はアンタの傍にいる化け物を放ってはおけねえって。」
「……お願いです。」
暗闇の中から掛けられる嘆願の言葉からは、今にも潰れてしまいそうな儚さを感じた。
迷った。あのハイジャック犯はもう逃げる算段を整えてしまったかもしれない。だが、最悪、『ハイジャック犯を追い払う』ことは達成した。俺の勘では、奴にこれ以上のことをするだけの根性とか賢さなんて上等なものはないはずだ。
あの力もおそらくは薬か何かで無理矢理引き出した限定的なもので、空の飛行船を落とすような真似もできないに違いない。
この場を逃げ果せたとしても、これだけの事をしたハイジャック犯がいつまでも隠れていられるほど、裏の世界は甘くない。
報酬の減額とビビガの賃金値上げは避けられそうもないが、ツテを使えば後追いでも十分尻拭いはできるはずだ。
だったら女の子には悪いが、俺が『賞金稼ぎ』である以上、この場を離れる訳にもいかねえ。
それに、「関係ない」と言った彼女の言葉に、もう一方のキナ臭い連中の正体が見えてきた気がしてきたからというのもある。
すると突然、前触れもなく部屋の中の明かりが点った。
「……ミリル」
明転とともに、俺は目を奪われていた。無意識に覚えのない名前を口にしながら。
……だが、違う『あの子』の髪はもっと色素の薄い、透けるような金色だった。肌も潤いのある乳白色で、ピンクの唇がよく映えた。青い目は温かな島を抱く海のように、キラキラと光を返していた。そんな女の子だったはずだ。
……いったい誰が?
俺はよく分からない、自覚のない感情と記憶に弄ばれていた。
「お前、誰だ?」
言い終わった後に、自分が間抜けな声を出していることに気づいた。
目の前の少女の髪の毛もまた、金色。絵で見た麦畑のように思わず穂先を撫でたくなるようなキラキラとした、長閑な金髪。肌は北の人間特有の雪焼けが目立った。白い肌の所々に見られるサーモンピンクのそれは、まるで唇や乳首のような色気があるように感じられた。
迂闊にも、いくらか見惚れてしまっていた。キレイとか、惚れたとかそういうものじゃない。ただ、とても『大切な人』のように、『守らなきゃならない人』のように思えてならなかった。
『繰り返さない』
そんな声が自分の奥底から聞こえてくるような気がした。
奥底に眠った感情が鎌首を擡げたせいか、『あの子』が俺の心を掻き乱したせいか、俺は本来の目的をスッカリ失念していた。
赤い双眸は真っ直ぐに俺を睨み、相変わらずの『敵意』を俺に向けていた。だが、どうしてだか、こうして相対してみると『危険』はないように思えた。
化け物なのだ。言葉の通じない、『殺意』の持ち主なのだ。危険がない訳がないのに、俺はすでに鉄パイプの矛先を下ろしてしまっていた。
『どうでもよくなった』と言っていいかもしれない。
女の子は静かに、疑わしげに俺を見詰め、何事かを考えている。
「お前、何者だ?」
もう一度だけ聞いてみる。しかし、彼女は俺の問いに答えない。聞こえていないのかもしれない。まるで、もっと重要な『何か』に囚われているように。真っ直ぐに俺を見る。
「お願いします。」
金髪の少女のそれは懇願の眼差に変わり、ヤサグレた俺の目を覗き込んできた。
「私たちをここから逃がしてください。」
それは、俺がこの世界のどこかで交わした、一番大切な約束だったような気がした。