ユックリと回るファンを見詰めながら、夢から覚めたばかりの俺の「視界」と「思考」のズレを少しずつ直していく。
寂れたアパートの一室。粗末な家具がチラホラと置いてある。通信傍受の機器や重火器を無造作に置いてある辺りが、無理に一般人を装うとしない彼らしい部屋だと思えた。
「エルク……さん。」
顔を倒せばそこには、重たい表情で俺の顔を覗き込む女の子の姿があった。
「すまねえな。いつものことなんだ。気にしないでくれよ。」
病人の「大丈夫」ほどあてにならないものはない。運の悪いことに、この子もそれを知っているらしかった。
俺を見る女の子の表情は一向に晴れる気配がない。
それは、この町の空の下ではどこか不自然な表情に見えた。
ここ、インディゴスは大国アルディアで二番目に大きな都市。国の玄関口で華やかなプロディアスの影でできた、どこかイジケた空気の漂う町。
そんな町に先進国特有の゛我れ関せず゛の性格はとてもよく似合っていたし、だから反対に、この子の表情が滑稽にも見えてしまう。
でも俺はこの町の余所々々しい空気も、頼んでもないのに心配するお節介な顔も嫌いじゃない。
「大丈夫だから。だって――、」
ユックリと体を起こしながら笑顔をつくってみせる。
「――、こんな仕事をしてりゃ悪夢の一つや二つ見るのが当たり前なんだよ。」
でも、「人を気遣う」なんて器用な真似は、根っからガサツな俺にはそもそも向いていなかったらしい。
…あの夢の後では特に。
「そう。」
頷きながら、女の子の顔はやっぱり少しも晴れない。
なんだったら、俺よりも苦しそうな顔をしているんじゃないか?
…チクショウ。
「シュウは?」
俺は、昨晩まで今後の打ち合わせをしていた家主の名前を出してみる。
「出ていったわ。仕事だって言って。」
ふと重く感じる頭に触れてみると、愛用のバンダナが絞ってない雑巾のようにグッショリと汗で濡れていた。
胸に手を当ててみて初めて心臓がバクバクと激しく脈打っていることに気付いた。
思っていた以上に濃い『悪夢』を見ていたらしい。
意識すると、フラッシュバックみたく脳裏にあの情景が蘇った。
情景がまた、汗と動悸をインスタント感覚で誘いやがる。
この子の表情が晴れねえはずだ。
表では平気な面をしていたって、頭の中ではあのクソガキがずっと悲鳴を上げ続けてやがるんだ。
あのガキはそれを目の前の女の子のせいにしてやがるに違えねえ。
『悪夢』の中のあの子とこの子を勝手に重ねてやがるんだ。
勝手に助けた俺を詰ってやがるんだ。
多分、『悪夢』が本気を出せば、俺の見てる「現実」なんて一瞬で塗り潰されちまう。
俺に抵抗させる暇なんか与えず。
そういう一切合切の過ちを罵るために、アイツは俺のコンディションを狂わせ、この子を不安にさせてるんだ。
…クソッたれ
「あの…、」
女の子はまだ俺を見ていた。
改めて見ると――初めて会った時にも思ったが――、どことなく野鹿を彷彿とさせる子だった。
手足には山を駆け回った自然な筋肉がついていて、遠くの木の実を探す高い鼻と大きな瞳。
そして、申し訳程度のそばかすが愛らしい。そう思えた。
「悪かったな。飯にしよう。」
「…はい。」
何か言いたげな様子だったが、俺は敢えてそれを無視した。
……言い方が悪いな。
俺は無駄に心配させまいと元気に振る舞って見せた。
それはそれとして、彼女の声は不思議と沈んでいる俺の気分を明るくさせた。
今でこそ、その声色は沈んでいるけれど、それでも、山間で羊たちを追い回してきたとわかるよく通る、澄んだ声はこんな時でも俺を魅了させた。
そんな野鹿の髪は、収穫を告げる稲穂のように朗らかな黄金色に輝いている。
ふと、彼女が危険とは無関係の、ただの「田舎娘」であれば良かったのにという妙な願望が過った。
だけど実際の彼女は、ご丁寧に「非常に危険」って名前の包装紙に包まれて俺の前に現れたんだ。
野鹿の名前はリーザ。
詳しい素性や経緯はまだ聞き出せていないが、2日前に彼女を匿ったことで俺は少し厄介な事件に首を突っ込んじまったらしい。
一流の傭兵や賞金稼ぎもできることなら目を逸らす。それだけでかいヤマだと、シュウは言いきったし、俺もなんとなくそんな気はしていた。
それでも俺は彼女を放っておくことができなかった。
正義感なんて薄っぺらいもんじゃない。
積もりに積もった『悪夢』を黙らせるため、俺の強さを見せつけるためにやったんだ。
あの時、あの飛行船の甲板で、奴らは俺に情けをかけようとしやがった。
あろうことか、俺は『悪夢』の中のガキみたく黒服たちに潰されそうなリーザを見捨てようとしてやがったんだ。
それに気付いた時、俺の手の中で聞き覚えのあるオルゴールが鳴り始めてた。
そして、その音色に乗ってやってきた『悪夢』はこう言いやがった。
「アナタだけでも、逃げて……」
…フザケんなっ!!
俺をバカにするのもいい加減にしろよ!?
そう思った時にはもう、俺の手は彼女の手を引いてた。
彼女を連れてシュウのアパートに逃げ込んだ時、シュウはそんな考えなしの行動を叱った。
…けれど、その行動自体を否定はしなかった。
理由はわからない。
わからないけれど、少なくとも彼はこの子の未来を一緒に語ってくれたし、その間は俺の手足になってくれると約束してくれた。
…もしもあの時、逆にこの子を見捨てていたらシュウは俺を否定してくれただろうか。
「ちょっと待ってろよ。すぐ用意すっから。」
人のために飯を作るのは久しぶりだった。
「うん。あ、はい。」
彼はほとんど家には戻ってこないから、ここにある食材といえば保存食ばかりだったけれど、冷蔵庫を開けると辛うじて2人分の卵とベーコンが入っていた。
「そう畏まるなよ。これから少しの間、一緒に行動するんだ。今からそんなんだとすぐに息が詰まっちまうぜ?…って、なんか食べられないものってあるか?」
「……ううん、ないわ。」
視線が合うとリーザはすかさず泳がせ、何かしら言いたそうに口籠もった。
「どうしたんだ?」
迂闊にも、俺はそう口走っちまった。
彼女の瞳は俺の言葉に従うように向き直る。そして、言った。
「エルクの見た夢、それってエルクの過去のことなの?」
また、冷や水をぶっかけられたかのような、胸を突き破らんばかりの動悸が俺に眩暈を覚えさせた。
どうして知ってるんだ?
誰が喋った?
シュウしかいない。
けど、どうしてそんな軽率なことを?もしくはこの女自身が――――。
疑問が疑問で答え、『悪夢』の薄ら笑いが俺の脳裏を埋め尽くす。
「シュウから聞いたわ。昔の記憶を失くしてしまったんだって。」
俺は手にしたフライパンを力のままに床に叩きつけた。
番犬が女の傍に駆け寄り、毛という毛を逆立てる。
言葉が出ない。息が詰まる。
デリケートなんてもんじゃない。
それは俺の逆鱗であって弱点なんだ。
俺自身何も分かっていないのに、ろくに整理もついていないのに、昨日今日会ったばかりの他人に突然触られてジッとしていられるはずがないだろ!?
だいたい、この女はどうして俺の『悪夢』に執拗く絡んでくるんだ!
思いつく限りの罵声を浴びせようかと思った。何なら立て掛けてある槍で滅多刺しにしてしまおうかとも思った。
でも、どうやらそれは単なる強がりで、実際の俺はその正反対の行動を取っていた。
フライパンを叩きつけたままの姿勢で全身が強張り、震えていた。
壊れた時計のように奥歯をガチガチと鳴らしていた。
恐かったんだ。自分でこの状況を招いたってのに、リーザが「金髪の女の子」というだけで、今さら俺はガキのように怯えてるんだ。
数秒後、あの魅力的な声が意味深な言葉を吐きやがった。
「施設には、そんな子が沢山いたわ。」
「……なんだって?」
少し上ずった気がする。
そんな俺を見て、彼女は殺気立った野性動物でも相手にするかのように声色穏やかに話し始めた。