アルディア空港8番ターミナル、たった一人の女を人質にとった若い男と、30人余りの警官隊と警備員の、命懸けの睨めっこは2時間を廻ろうとしていた。
『いったい何時になればこの状況から解放されるんだ?』
銃を突き付けられた男は緊張に喉を渇かせ、女は全身が強張り、助けを乞うことも忘れた。
『人質はたった一人。世間の目など、どうとでもなる。直ちに犯人を捕らえろ。』
一人の女と700人の乗客。比べるでもない。
しかし、30人はこれが現実にならないように祈った。そしてそれはたった一人の女の尊い命を想ってではない。
若い男の『力』が、あまりにもバカ正直に自分たちの「死の確定」を宣告していたかrだ。
『どちらが、より我々のためになると思うかね?』
そんな彼らを嘲笑うかのように、権力者たちは離れた場所から動かず、働かない知恵ばかりを巡らせていた。
「いつまでチンタラやってンだ!」
男には後がなかった。
「あと30分だけ待ってやる。それ以上、時間稼ぎをしようってんなら、すぐにこの飛行場もろともお前らを焼き払ってやる!」
逸る男は一層泥沼に嵌まっていく自分自身を自覚していた。ナイフを握る手も、女を押さえつける腕も滑らせてしまいそうな程に汗で濡れていた。
警官隊は男を刺激しないように距離をとってはいたが、決して射程の外には出ていかない。男にはそれが泥沼の正体のように見えてならなかった。
与えられた『力』は間違いなく最高のデモンストレーションになったはずだった。
手近な椅子や電工掲示板を焼き、警官数人に怪我を負わせて手品でないことを証明した。奴らが強行に踏み切らないように一般人はその対象から外した。
要求は空港のシステム凍結、それもたった一日の間だけ。ごくごく小さなテロ行為じゃないか。
それなのに、何がいけなかったんだ。
奴らの言う通りに動けば何もかも上手くいくはずじゃなかったのか?
俺はまた、バカな幻想を抱いていたのか?懸命に働けば幸せになれると信じたのが間違いだったのか?
俺は荒んだ環境の中で産声を上げた。自我に芽生えた頃には犯罪のイロハを教えられ、稼いだ金は全て両親に奪われた。
代わりに与えられたのはパンと水、そして優しい姉だけ。けれど、それで俺は満足だった。腹を満たし、喉の渇きを癒し、優しく抱きしめてくれる姉がいるだけで。
だが両親は稼ぎの少ない俺と姉をすぐに売り払った。スリや置き引きしか知らない俺は売られた先でも捨てられそうになった。だが、それでも姉さんだけは俺の味方だった。
役に立たない俺の代わりに身を粉にして働いた。罵倒も叱責も全て背負ってくれた。俺はただ、疲れきった姉を介抱することしかできなかったんだ。
姉さんはどんなに辛くても俺を捨てることだけはしない。庇って、庇って、愛してくれた。
だから俺は誓った。この聖母のような姉が幸せになるためなら俺は何だってする。
この世でただ一人、愛する人のためなら俺は自分を壊すことになっても躊躇いはなかった。
だからこそ、無意識に選んでしまった女が震えていることに、俺は少なからず負い目を感じていた。
今からじゃあ、上空に待機している船がロマリアへ引き返すのはかえって危険だ。周辺に損害ゼロで下ろせる場所ははない。
コイツらは意地でもここに降ろそうとしてくるに違いない。だからといって、俺だって引き下がる訳にはいかない。
これだけ派手なことをやっちまったんだ。俺に次の仕事なんかあるわけがない。それ以前に、奴らが俺を生かしておく訳がない。
誰が何人死のうと、知ったことじゃない。だが俺はこの場を切り抜けて、せめて姉さんだけでも逃がさなきゃいけないんだ。
この町はもうすぐ死ぬ。だから、姉さんを遠く、遠くに逃がさなきゃ。
男は手を合わせて祈る代わりに、歯を食いしばった。目に落ちてくる汗も拭わず、人質の喉を誤って切らぬように、堪え忍んだ。
待つことに意味がないことくらい、男にだって分かっていた。それでも男は待った。待つこと以外でこの問題を解決する自信がまるでなかった。
誰かに支配されることでしか動くことができなかったのだ。
焦燥に駆られる男は、取り囲む警官たちの手にあるギラギラと鈍く光るそれらが、ピクリとも行動を起こせないでいる自分を見てせせら笑っていることに気付いた。
彼らは、彼らの警官に聞き咎められないように男を唆していた。
『お前はいったい何に怯えているんだ?』『それだけの力を持っていて。』『そもそも堪えてに何になる?』『お前は既に作戦を失敗させたんだ。』『お前を始末する奴らが来るのを待っているようなもんだぜ?』『いいのかよ。そうしたらお前の姉も道連れだ。』『見たこともない地獄へ。』『所詮、お前は最後まで小物だったということか。』『クズが。』
奴らの言葉が数珠繋ぎに聞こえてくる。奴らが言いたいことは分かっていた。どんなに言葉を変えて不透明にしたところで、奴らはいつだって一つの言葉しか考えていない。男は思い出した。
『どうした。やらないなら、ヤるぜ?』
従うことでしか動くことができない男を、世界は愛した。人形である男を、弄ぶために。求めてもいない『愛』に男は抗えない。術も知らない。
そして今、悪魔たちの声を聞いた男は新しい主人を見つける。
だったら俺にできることをするだけだ。
『そうだ、お前の父親も言っていただろう?』『忘れたのか?』『何度も聞いたはずだ。』『忘れたのか?』『テメエが這いつくばってた時から』『何度も、何度も』『耳にしたはずだぜ。』『俺たちは憶えてるぜ。』『どうした?』『お前の大好きな姉だって』『言われてただろうよ。』『忘れちまったのか。』『だったら――――』
男は身震いした。言われた方が負けなのだと全身が悲鳴を上げた。血が、沸騰し始めた。
『――――教えてやろうか?』
うるさい、黙ってろ!俺だって憶えてる。忘れるもんか。俺だって、姉さんだって――――
「……役に立たなきゃ、捨てるだけだ。」
十分なお膳立てが、男のナイフを持つ手をガタガタと震わせる。そうして人質の首筋から流れ出た赤いものこそ、待ちに待った「逆襲の行進」なのだと男は全ての問題を解決した気になり始めていた。
「……1人ぐらい、死ななきゃ分かんねえんだよな?」
男のビブラートを利かせた言葉に人質も警官隊も、その場の人間全員の体が強張った。
放置し続けた現状に幾人もの後悔が交錯した。
そうして男の狂い始めた言葉が、瞬く間に「彼を終幕へと導く譜面」となって彼の世界を埋め尽くす。
そうとは知らずに男は指揮棒を奮う腕に『違和感』を送った。男の意思を受け取った『違和感』は直ちに、男の心臓から新しい宇宙を産み出すがごときスピードで導かれた先まで走った。
瞬間、男から解き放たれた力が、眩い閃光が、空気を割り、雷轟となって警官隊の悲鳴と共に舞台の隅々にまで響き渡った。
「……さあ、俺のために歌えよ。」
ビブラートは、より高らかに『狂気』を詠う。男の醜い生涯を賛美するように。
聞き惚れ、浮かび上がった男の笑みに、たった一人に捧げるはずだった愛の面影はない。