――――数千年前、フォーレス国、ホルン村
村に、初めて完全な『言葉』を交わす『女』が生まれた。
それまでも『心』を通わせるという前例があったために、村の人間はそれを特別視することはなかった。
女は自分の『力』の大きさを自覚していなかった。
女には人間と化け物の区別がなかった。
等しく「生き物」であり、等しく「命」だと信じていた。
村人もまた、化け物との共生を厭わなかった。
高山の中腹に構える村での生活が、争いを持ち込めるほど余裕のある環境でないことが不幸中の幸いだったのかもしれない。
一方、麓に広がる町の人間は土地を見下ろす世界の象徴のような霊峰らに、貧しい資源の中でも命と幸せを与える「神」を夢想していた。
いつしか、「夢想」を「探究心」に変えた人間が町を飛び出し、登頂困難な越境を試みる。
そうして、運命は交わった。
越境の最中、探検隊は『女』の村を見つける。
村人は彼らを快く受け入れ、旅支度を助けながら「山の厳しさ」を彼らに教えた。
…教えてしまった。
村人らの化け物への「想い入れ」は彼らの信仰する「教え」に背くものであり、排除すべき「異教」だった。
突然現れた余所者を丁重に持て成す村人の姿を知る彼らは、村の「異教」を裁けなかった。
時は経ち、山越えも成せぬまま探検隊は町に戻った。
彼らは酔った勢いで仲間内に道中の困難を愚痴った。村人らのことを漏らしてしまった。
「異教」の存在は信徒の密告によりすぐに教会の耳に入った。
力、民衆の信心を欲する教会がこの絶好の機会を見逃すわけがなく、高らかに「異教」の断罪を町に触れ回った。
国の不況も、隣人の病も全て「異教」を宿す魔物らの手による呪いだと。
尾ひれも脚色もかまわず、教会は自分たちの「正義」を民衆の心に響かせた。
村の実態を知らない町の人間は瞬く間に教会の意志に同調し、各々の凶器を手に村へと行軍した。
松明を片手に人々は大挙する。煌々と燃える無数の炎は、人間の心を増々赤く染め上げていく。
まるで一匹の巨大な蛇のように、炎は町から村へと不気味に伸びていく。
村に着くや否や、蛇は住人の声に耳を傾ける様子も見せず、容赦なく村を焼き払った。
「この世の悪よ!」
「聖なる光に焼かれ、滅びるがいい!」
「我ら神より遣わされし正当なる使徒がキサマらの蛮行を正してやる!」
謂れのない罪に焼かれ、泣き叫ぶ村。
神のフォークで悪魔の心臓を串刺し、神の鍬で悪魔の血で穢れた土地を浄化した。
『女』は悪夢を見ている気分だった。
どうしてこんな事態が巻き起こっているのか、一つも理解できなかった。
『命』は平等だと信じていたから。
『声』を交わせば支え合えると信じていたから。
村の大人たちもそう言っていた。
だから、フォークや鍬が彼らの血で濡れていることが理解できなかった。
「呪われし化け物ども、人の地から消え失せろ!!」
使徒が『女』の母を簡易の祭壇に乗せると、困惑する『女』の目の前で、命乞いをする彼女の声を無視し、その胸を杭で打ち抜いた。
黒々とした赤が、母の体を見たこともない化け物に彩った瞬間――――、
「あぁ……、」
『女』の視界が闇で満たされた。
「……ぁぁぁぁぁぁああああっ!!」
『女』は頭を掻き毟り、『叫び』は燃え盛る村を駆け抜けた。
傍らの化け物も、目に映る人間も全てが『叫び』に侵され、溶け合い、一つになる。
『女の叫び』が、この世に新たな『命』を創造した。
産まれ落ちた『命の塊』は、村人も町の人間も片端から殺し、殺した肉を貪っては『命』を太らせた。
大地を赤い膿にで満たし、空を紅蓮の大麻で満たした。
闇が血を浴び、世界が命を吐き続けた。
「アーッハッハッハッ!!命が、命が飛んでいくわ!綺麗…、血が、美味しいの!満たされるのっ!血がぁ!死ぬのよ、母さん…。シネシネシネェッ!アーッハッハッハッ!!」
『女』は、狂った
化け物は山を下り、町を襲った。
その耳に届く『悲鳴』を一つたりとも逃さなかった。
やがて、殺しては食べ、殺しては食べてを繰り返し、醜く爛れていく化け物は町の中心にある巨大な教会をも倒壊させると大地を震わせる喧ましい悲鳴を上げた。
勝利ではなく、呪いの悲鳴で町を満たした。
そうして、町は滅んだ。
残された人々は『女』を二度と招かぬよう「人と魔物の境界」をより厳格にし、霊峰の里を閉ざした。
――――現在、ホルンの村、リーザの家
「ワシはここの女たちが『魔女』と呼ばれている最中にも訪ねたことがある。少し内気なところもあったが、気の良い連中じゃったよ。」
老夫はどこから取り出したか。水タバコを吹かし、深い深い奥底にある記憶を吐き出した。
「しかし、世界は常に強い者の言葉に傾いていく。」
懐かしくも苦い今と昔を煙に溶かし、それを見詰めた。
「仕方のないことなのかもしれん。じゃが、それに抗うことも忘れてはならん。その為にワシらのような血を流す者たちはある。」
「血を流す者」、それは誰が決めるんだろう。
どうして私や彼もそこにいるんだろう。
私たちは『力』を求めてなんかいないし、ましてや大切な人を巻き込んだ戦いなんか望んでもいないのに。
それなのに『魔女』だけは増々強くなっていく。
世界を舞台に戦う人たちですら見過ごせないほどに。
そしていつかは……
「…その魔女はどうなったんですか?」
「ワシの情報が確かなら、今も生きておるようじゃな。」
「今も?魔女はそんなに長生きなんですか?ホルンでそんな人がいるなんて聞いたことがないですけど…。」
そもそも、老夫が物語の現場にいたということすら、少女にとっては信じがたい話だった。
けれども、ついさっき目にした「蒼い光」は彼女にそれを信じさせるだけの神秘的な力があった。
「さてな。直接本人に聞かんことにはワシにもハッキリとはわからん。」
それだけならまだしも、自分と似た境遇の『女』もまた、老夫と同じような時を生きていると言われれば、それはまだ少女に理解できるはずもなかった。
『魔女』を想い、雪山を登るための準備をしていると、おじいさんは真剣な面持ちで私に尋ねた。
「一つ、確認してよいか?」
「…はい。」
「お前さんも、もう知っておることかもしれんが、」
このタイミングで、その切り出しから、なんとなくおじいさんの言いたいことに察しがついた。
「これから向かう敵のアジトはおそらくお前さんにとって大きな試練になるじゃろう。」
…わかってる。
私も少しの間だけど、そこにいたんだもの。そこがどういう場所だか分かってる。
あの時の私でさえ、ソレを感じない時はなかったんだもの。
「お前さんを惑わすモノが、終始付き纏うじゃろう。」
そして、私がそれから目を背けてきたから、エルクを独りにしてしまったから、エルクはあんなになってしまったんだ。
「ワシらはソレらを殺しにいく。それで構わんか?」
おじいさんはまるで私の心が聞えているかのように的確な言葉で、私とソレを真摯に向き合わせる。
私はその言葉に一つひとつ丁寧に考え、答えなきゃいけない。
「…はい。」
その一つひとつが私の「運命の引き金」になる。
臆病な私を一歩、一歩進ませるための。
「それと、お前さんに一つプレゼントがある。」
「…プレゼント?」
おじいさんは私を外へと促した。
「お前さんは『魔女』としての素質には恵まれておるが、今回のように”化け物”が傍におらん時、お前さん一人では心許ないじゃろ?そのための保険みたいなものじゃよ。」
おじいさんは人差し指を立て、マッチ棒を擦るように地面を一擦りする。
すると、指先が薄い灰色の光に点った。
あの蒼い光とは違うけれど、どこか似たような、神秘的な温かさと力強さが感じられた。
「どれ、手を出してみなさい。」
差し出した手の平に光る指先を乗せると、光はおじいさんの指先から私の手の平へと雫のように滑り下りてきた。
生きているのか。光自身が蠢いてるようで、少しこそばゆい感じがする。
「握ってごらん。」
「……」
おじいさんの『声』に怪しいところはないし、言われるままにユックリと手の平を閉じてみた。
「…痛いっ。」
蠢いていた光が私の皮を噛んだ気がした。反射的に手を開くとそこにはもう光はない。
「……」
「心配いらん。呪いの類ではないよ。」
だけど、あの光が私の体の中に入っていったことには違いない。おじいさんのことは信じているけれど…。
私はただただ自分の手の平を見詰めていた。
「どれ、試しに一つ、何か想像してみなさい。」
「想像?…えっと、何をです?」
「何でもかまわんよ。兎でも鳥でも、椅子でも机でも。できる限り詳しく、頭の中で思い描いてみなさい。」
「…はい。」
言われるままに、私は今一番ハッキリと想像できるものを目を閉じ、思い浮かべた。
「…ホホウ、これは、お前さんの恋人か?」
「え?」
目を開けるとそこには人間とは程遠い形の、歪に美化されたエルクが立っていた。
「え!?こ、これは?」
正しく言うと、それは土でできた人形だった。
「ワシの専門分野じゃあないが、俗にいう”精霊”の力を借りた魔法じゃよ。」
「魔法…これが?」
私自身は何か『力』を使った感覚は少しもない。本当に、ただ頭の中で想像しただけ。
使った後の疲労感もない。
魔法って、こんなに簡単に使えるものなの?
「本来なら、小難しい知識や儀式がいるもんなんじゃがな。ワシぐらいの大魔法使いにもなれば、色んな工程を省いて『力』の一部を貸し与えることもできるんじゃよ。これでお前さんはワシがくたばらん限り、ワシを介してその魔法が使えるという訳じゃ。」
私の疑問を補うようにおじいさんは答えてくれた。
だけど…、
「…借りるってことは、その分、おじいさんの『力』が弱まるんじゃないですか?」
確かに私一人で相手にできる敵はすごく限られるかもしれないけど、いざとなれば『魔女』の力で洗脳することもできるだろうし、一人でなんとかできるような気がしていた。
むしろ、私に『力』を貸したせいでおじいさんが倒れることにでもなったら…。
だけど、それこそ少しばかり『力』が強いからと自惚れた私の、余計な気遣いだということに気付かされる。
「ホッホッホ、心配することはないよ。仕組みを教えることはできんが、ワシの『力』にも絡繰りがあってのう。お前さんに一部を貸したところでワシの無敵の『力』に罅一つ入ることはないよ。」
…そうだ。
ついさっき、この目で見たものがどんなものか。もう忘れてしまったの?
あの「蒼白い光」は私の知ってるどんな『力』よりも奥が深く、底が見えなかった。
狭い部屋に収められていたけれど、きっとアレはこの青空すらも満たしてしまうに違いない。
おじいさんはその光でできてる。
本当に、私なんかじゃあ及びもつかないような怪物なんだ。
「勘の良いお前さんのことじゃ。その『力』のだいたいの性質に気付いたかもしれんが一応、簡単に説明しておこうかの。」
また、おじいさんの指先が灰色に輝いた。
そしてまた、指先から雫のように地面へと滴り落ちる。
すると地面が巨大な棘となって勢いよく突き上がった。かと思えば、棘は目に見えない誰かに削られているかのように自らを造形して瞬く間に瓜二つの「アーク」になってみせた。
土人形の「アーク」は自分の片腕を剣に変えると鋭い一閃を振るってみせる。
剣は振るった勢いのまま肩から離れると、トラバサミに変形し、地面に落下すると何事もなかったかのように溶けて消えた。
片腕の土人形「アーク」もボロボロと崩れ落ちたかと思えば、12匹のケラックになって愛らしく敬礼をしてトラバサミのように土に還っていった。
「お前さんに宿した精霊はこの世にある鉱物に限り、岩であろうと鉄であろうと、あらゆる命令を発揮してくれる。」
そう説明する時にはもう、何か異常なことの起きた痕跡は何も残っていないかった。
「ただし、ここまで複雑な命令にはそれなりの鍛錬が必要じゃが、簡単な地形の変動であればお前さんでも問題なく使えるじゃろうて。」
それは、目の前にある変てこな彼の姿を見れば言われるまでもない。
「それ、空も白んできた。ワシらも目的を果たす時間じゃ。」
「…これ、どうやって戻せばいいんですか?」
私は自分で生み出した歪な土人形を指して言った。
それをおじいさんは、私の気持ちも全部わかった上で厭らしく笑ってみせた。
「ホ?別段、戻す必要もなかろう。」
「……」
「嫌か?」
「…嫌です。」
――――霊峰アルパスの中腹
小さい頃、村の女たちに連れられてフォーレスを取り囲むこの霊峰に足を踏み入れたことがある。
何が恐ろしくて、何が有益なのか。一つひとつ丁寧に教えられた。
あの時は何も考えなくてよかった。
周りにあるものはみんな「好奇心」の対象で、険しい「雪山」も、掻きわける雪が大変である以外は未知の経験に満たされた宝箱のように思えていた。
けれども今は、その雪景色の白さの全てが白々しく見えてしかたがない。
尊厳のある大自然を装いながら、その懐では沢山の命を弄んでいるんだ…。
私は、歩みを阻む無垢な雪山にまでも、一方的な「敵意」を覚えていた。
進む先にいるであろう敵の姿を私は知らず識らず睨んでいた。
「…勘違いせんように言っておくがのう、」
私の前を行くおじいさんはそんな私の殺気を感じ取ったのか。その声色は過ちを戒める憲兵のように、ことさら厳しかった。
「ワシの与えた『力』は厳密に言えば無限じゃあない。そもそも世界に存在してよい『力』の量は限られておる。つまり、どれだけワシの体に余裕があろうと、世界が『力』を許容しきれなくなった時、『力』は枯渇する。」
そこまで言われて私はハッと我に返った。
パンディットやケラックたちがいて、私自身『魔法』が使えるようになって、その上、神様のようなおじいさんが一緒にいて。
今の私たちに殺せない敵はいない。
知らず識らず、私の中の「目的」がすり替わっていた。
おじいさんの語っていた狂った『魔女』そのものになろうとしていた。
「ワシの言いたいことがわかるな?」
「…はい。」
その後しばらく、沈黙が私たちの間に横たわった。
「それとな、」
おじいさんの声は打って変わって穏やかになったけれど、その『声』は私を心の底から同情しているように聞こえた。
「お前さんのその『力』もまた、同じ世界の『力』の一部じゃ。それがどんなに恐ろしい『力』であろうと、”魔女”という言葉に囚われてはいかん。その”魔女”はお前さんらの『力』を妬む者たちがつくったものにすぎん。」
…あんな話を聞かされて、今まさにその通りになろうとしていた自分を知って、そんなに前向きな気持ちになれるものかしら?
「人はどんな『姿』であろうと、どんな『力』を持とうと同じ”人”でしかない。”魔女”などという生き物はそもそもこの世に存在せんのよ。厭らしい言い方をすれば、この世に一人として同じ”人間”はおらん。」
私には、次元の違う生き方をしているおじいさんの言葉の意味がよく分からない。
「昨日、ワシは”世界は愛のために生きようと藻掻いている”と言ったな。お前さんは”人を殺すことも愛か”と尋ねたな。」
今だって、いくら神様のようなおじいさんに言われたって、それだけは信じられない。
「あの時、ワシは”愛”について深くは語らんかった。なぜかわかるか?」
「…いいえ。」
「答えはすでにお前さんの中にあるからよ。」
「…私の、中に?」
自分の胸に手を置いてみた。そうしたところで私の中の誰かが答えてくれる訳でもないのに。
「暇があれば自分自身に問うてみるといい。“己”はこの世で最も良き相談相手じゃ。答えは必ずしも必要じゃあない。好きなだけ聞き、好きなだけ言い合うといい。」
「私…、よくわかりません。」
「フフフ。」
おじいさんはおじいさんらしくない普通の笑みを浮かべた。
「まだまだお前さんが”子ども”というだけよ。これから沢山の人と、沢山のことを話しなさい。理解できないこと、共感できること。同情すること、悍ましいと思うこと。沢山たくさん。」
沢山の人には会った。
「そして、考えなさい。彼らのことを。」
皆、自分の『悪夢』に翻弄されてた。
「そうしていれば、知らず識らず色んなものが見えてくるものよ。」
「……」
あの人たちにも『悪夢』以外の何かがあったんだ。
私が見えてないだけ。
…そうなのかもしれない。
「……」
目的地に近付くごとに重たい後悔と躊躇が募っていく。
けれども、止まっちゃダメ。
その先に、私の『悪夢』以外の何かがあるんだから。
私の手を引いて『運命』への道筋を教えてくれたおじいさんのためにも……。
あ……、
「あ、あの…」
「ん?どうした。」
雪山の中にいながら、少女は恥ずかしさで顔を赤らめていた。
「本当に今さらなんですけれど…、おじいさんの名前を、聞いてもいいですか?」
「…ホ?」
老夫は初めて、少女の言葉に「理解できない」というような顔を見せ、固まった。
やがて老いた時計が、雪融け水のようにゆっくりと動き出す。
「…ホッホッホ、そうかそうか。まだ名乗っとらんかったか。これは気付かなんだ。すまんすまん。」
そして、老夫はいつもの飄々とした調子で少女に応えた。
「ワシの名はゴーゲン。人は偉大なワシを崇め、『手品師』とも『蘊蓄ジジイ』とも呼ぶ。お前さんも、もしワシと付き合っていく上でピッタリの愛称を思いついたなら好きに呼んでくれてかまわんよ。」
「…ップ、フフフ……。」
「ホッホッホ。」
私たちは出会って初めて笑い合った。
「ゴーゲンさん、今までたくさん失礼なことを言ってごめんなさい。」
「気にしなさんな。長い人生、お喋りなジジイにイラつくことも間々あろうよ。」
おじいさんが手を差し出し、私は初めて闘うおじいさんの手を握った。
「私はリーザです。よろしくお願いします。」
か細くも、力に満ちた手を。
この雪山の寒気をものともしない、神様の手を。