――――フォーレス国の奥地、山岳地帯の村、ホルン
見晴らしのいい丘の上。
風車の羽がゆったりとした時の流れを告げている。
煉瓦の壁に藁や木材を用いた屋根。質素な造りの家屋が点々と建っている。
ミルクと羊毛をつくる家畜が各家庭ごとに数匹飼育されている。
大きな田畑こそないものの、そこは自立した立派な村だった。
ところが今、その村に人の気配は一つもない。
扉は開け放たれ、土埃だけが出入りする家々。
踏み荒らされ、SOSを発信するように花弁をはためかせる花壇。
手入れの忘れられた村の様々なものが、ただただ雪山から吹き降ろされる風に晒されていた。
柵の中に置き去りにされた家畜たちが空になった餌箱から目を背け、足元に生える雑草を静かに食んでいた。
天上から降りてくる太陽が白冠の霊峰に足をかけている。
徐々に温もりの削がれていく風が草原を駆け抜ける只中に、彼は寝そべっていた。
……ドォーン
「!?」
彼の耳は遠く遠くから風に運ばれやってきた微かな音を誰よりも早く聞き取り、立ち上がった。
峰々の向こう側で鳴り響く、火の神の槌が振り下ろされる轟音を。
音の方角から一つの可能性を覚った彼は、他の全てを置き去りにして一目散に駆け出した。
一秒と経たず、彼の足はトップスピードに乗り、風を押し退ける。
景色を撫でるように走る青白い影が、一直線に伸びていく。
彼の世界にたった一つ残された彼の居場所へと。
――――数分後、ホルンへと続く吊り橋前
たった今、舞台へと躍り出たかと思えば、一息吐く間もなく、彼は凶悪な怪物を相手に牙を剥いていた。
踏みつける足で悪魔の大鎌を根元まで押し込むと、柄を伝って悪魔へと襲い掛かった。
それに反応しようとするも、悪魔の動作はその全てにおいて彼に遠く及ばない。
彼は殺意の象徴を悪魔の喉元に突き立てると、熊が猫を噛み殺すかのように軽々と裂き、瞬く
間に息の根を止めてみせた。
その様子を絶対的領空から見下ろしていた一羽の竜が、肺で炎を生成し、胸を膨らませていた。
ところが、炎が顎にまで到達したかと思えば、大きな両翼に溜めていた揚力が前触れもなく消失してしまう。
どれだけ藻掻こうとも竜は空を舞えず、領空から掃き出され、急速に高度を落としていく。
視点も定まらず墜落していく次の瞬間には彼に背中を取られ、振り落すよりも早く、首を深く引き裂かれてしまう。
中空で命を落とした一羽を踏み台に、残る一羽へと狙いを定めると、彼は無防備にも足場のない舞台に飛び出した。
対する竜は一歩早く、彼に向かって高濃度の神経ガスを吹きかけていた。
しかし、ガスが本来の効力を発揮することはなく、急襲をまんまと許してしまう。
彼は竜の喉元に喰らい付くと飛び掛かる勢いそのままに、直径50㎝はあろうかとい野太い首を刎ね飛ばしてしまった。
二羽の空を統べる巨大な爬虫類は、彼らと比べれば小柄とも言えるたった一匹の獣の手で、落葉のごとく落ちていく。
力なく、崖の底へと。
彼は墜落する大トカゲから難なく地面へと降り立つと、大地にめり込まんばかりの勢いで四肢を突き立て―――それこそ悪魔や竜のような―――、聞く者の心臓を圧し潰すような咆哮を轟かせた。
『魔女』はなにも命じていない。
それは全て、彼自身の意思が描いた現実。
それが彼の、彼の存在を許す世界への全身全霊を込めた「命」の証明だった。
その一部始終を窺う男たちが森の中にいた。
彼らは自分たちのプライドに泥を塗った『魔女』と化け物たちへの報復を誓っていた。
悪魔と契約を交わし、肉体を改造した彼らはもはや、報復する相手と変わらない、「化け物」と呼んで差し支えない『力』を備えていた。
しかし、そんな彼らが10人、20人集まっても目の前に立ち開かる敵を相手に傷ついたプライドを満たすだけの報復が果たされることはない。
たった一度の咆哮が、それを覚らせた。
「……」
踏みしめる落ち葉の囁きと共に、彼らはその場から消え失せた。
たった一匹の狼が、悪魔や竜、改造人間の軍勢さえも退場させてしまった。
数多の命を刈り取る悪魔や竜の「力」ですらも、彼の目に映る、天秤の一方に掛けられた彼女の「命」の前には舞台の間隙に立つ端役でしかない。
「パンディット……」
ヨロヨロと立ち上がる少女に体を強く押し付け、少女もまた、彼を強く抱きしめた。
「ごめんね。独りにして、ごめんね。」
生き別れた兄弟のように、二人はお互いの命を確かめ合った。
「ホッホッホ、間一髪じゃったのう。」
老夫はいつもの調子で、何事もなかったかのように少女たちに歩み寄る。
彼と対峙していたはずの悪魔の姿はどこにもない。それどころか、争った形跡すら残っていなかった。
「感動の再会に水を差して悪いが、あれはお前さんの連れかのう?」
白い毛皮の甲虫と3匹の小人。
老夫は橋の向こうから懸命に駆けてくる4匹の化け物を指さして言った。
「…はい。」
私の身内である前に、おじいさんの身内でもあるずなのに。
どうしてわざわざそんなことを聞くの?
私がアークと会ったことを確かめたいの?
おじいさんの真意は分からないけれど、今はこの人の言うことを深く考えないことにした。
……何より、とても疲れる一日だった。
「皆もごめんね。私がバカなばっかりに…。」
チョンガラさんから預かった子たちはとても優しく、私の過ちを叱るよりも離れ離れの間に私に降りかかった苦労をねぎらってくれた。
「皆…、ありがとう。」
パンディットもそうだけれど、私は優しさに恵まれ過ぎている。
喜ぶべきことのはずなのに…、実際にとても嬉しいのだけれど。
これじゃあいけない。そう思わずにはいられなかった。
ふと胸に手を当ててみれば、「反省」が大きな欠伸をしながら私を見下ろしてるのがわかる。
「また同じことの繰り返しか」と呆れてる。
私だって、わかってる。
だけど、どうすれば良いか、わからない。
その答えを見つけるために彼の傍を離れてここまで来たのに。
全然、わからないの。
「ヘモォ~」
ケラックたちから随分と遅れて、どうにかこうにかヘモジーが私たちと合流した。
「お前さんは相も変わらずトロ臭いのう。」
「……ヘモォ?」
「まあ、ワシにも色々とやることがあるんじゃよ。」
驚いたことに、二人は会話していた。
「…おじいさん、その子の言葉がわかるんですか?」
私は遅れてやって来たその子を心配するよりも先に、その思いがけない光景の真相を問いただしていた。
けれども私だって今さら、おじいさんが私なんかに種明かしをしてくれるなんて少しも期待もしていなかった。
「ん?まあ、ワシくらいの年寄りなら|畜生の言葉の一つや二つ知っておるもんじゃろ。」
「…そうなんですか。」
「なんじゃい、ワシが『魔女』か何かと疑っておったのか?」
「い、いえ。ただ、なんとなく気になっただけです。」
聞いておきながら私は、それは知ってはいけない「真相」なんじゃないかと急に怖くなってしまった。
『力』を取り戻してもなお、私に「隠し事」ができるおじいさんの、見えそうで見えない「実態」が私にそう感じさせた。
少なくとも、おじいさんは『魔女』と何らかの関わりがある。
これまでの遣り取りで私はそう思った。
それは、目に見える遣り取りばかりじゃない。
今、おじいさんから辛うじて聞き取れるものの中に、とても馴染みのある『声』があったから。
悪魔たちの雄叫びにも似た、呪いや憎しみを花咲かせる濃厚な慟哭。
『魔女』さえも主食にしてしまうようなドロドロと耳に絡み付く叫び声が、私の『血』を震え上がらせていたから。
『声』は、私たちとは次元の違う戦いの様を語る。
延々と……。
おじいさんは、私たちには理解できないような憎しみに振り回され、それでもまだ生き残ってる。
延々、延々と……。
国と国の紛争というより、勇者と悪魔の戦いというより、もっと個人的で、『悪夢』ですら幼稚に感じさせる地獄絵図の中を、おじいさんは歩いてきたらしい。
裸足のおじいさんは、その烈火の大地に、たくさんの人を敷き詰めようとしている。
それすら許されてしまうような道徳に染められて、おじいさんは今も必死に喘ぎ続けてる。
おじいさんの歩む道の一つに『魔女』の名が刻まれているような気がした。
だから私は、おじいさんを完全に理解することが怖かった。
得も言われぬ恐怖から目を背け、お互いの理解もそこそこに、私たちはホルンへ向かった。
――――ホルンの村
入り口にはあれだけ大袈裟な門番を立たせていたのに、あれ以降、私たちを邪魔するものは一つとして現れなかった。
…あれは、なんだったんだろう。
黒づくめの仲間にしては―――初めは私が誰かも分からなかったみたいだし、分かった後も問答無用で殺しにかかってきたし―――、なんだか様子が違っていたようにも感じた。
けれども『魔女たち』と深い関係であることは間違いないと思う。
今のこの妙な静寂もそうだ。
魔女たちは、私の知らない誰かにずっと見られている気がする。
…昔からずっと。
その誰かが今の私にわかるはずもなく、居心地の悪さだけが足に付き纏う。
村に着いた私はその有様に、さらにうな垂れるはめになる。
「…ああ。」
わかりきってたことだけれど、こうもハッキリと突き付けられると、堪え切れない辛さに飲まれてしまう。
「無人の村とはなんとも侘しいものじゃな。」
風車が、意味もなく回っていた。
柵の中の家畜たちが私を見つけ、一斉にひもじさを訴えてきた。
放置され、枯れた田畑が主たちの不在を嘆いていた。
そこに血の跡がないことだけが、唯一の救いだった。
少女はそれぞれの納屋に入り、残っている飼料をかき集め、家畜たちの餌箱に入れた。
「さて、ワシは成り行きでお嬢ちゃんに付いて来たが、お嬢ちゃんには何か明確な目的があるのかのう?」
振り返る少女の顔にまた、諦めの色が漂っていた。
「わかりません。」
それだけ返すと少女は老夫に構わず、何処かを目指して無言のまま歩き出した。
「…ふむ。」
得意の詰問を控え、老夫は少女の行動を見守っている。
「……ここ、私の家なんです。」
「…ふむ。」
少女は他と変わらない造りの家を物思いに耽る目で見遣ると、脳裏を過る記憶に吸い込まれるかのように中へと入っていった。
「あの時のままだわ。」
そこに、少女にだけ分かる残り香があった。
たった一人の肉親。
食卓に、箪笥に、暖炉に、煉瓦の一つひとつにさえ染み込んでいた。
「おじいちゃん…。」
記憶の中の彼が出迎え、口酸っぱく繰り返してきた躾を少女に聞かせた。
――――いいかい、リーザ。村の外の人間を信じてはいけないよ。
とても、仲間想いな男だった。
伝統を重んじ、愛することを忘れない男だった。
しかし、伝統を重んじるが故に、愛の尊さを知るが故に彼は「伝統」の中で武器を掲げてきた人間たちを軽蔑せざる負えなかった。
自分たちに掛けられた呪いを彼らは理解しようとしない。
無理解は救いのない憎悪を育み、肥えた憎悪は彼らの呪われた血を憎悪の芽に注ぎ育てることを止めない。
少年だった頃、彼が目にしたものは今も彼の心に棲み付いている。
見上げる碧い空からやって来た黒い魚たち。
それは幼かった彼の『愛』を濁らせた。
そうして彼は大人になり、増えていく皺の数だけ老いていった。
授かった孫娘に、同じ人間である孫娘の幸せのために、彼は言い聞かせることを止めなかった。
――――人は人を殺す生き物なのだよ。自分を愛しすぎるが余りに。
残された村人はただ、閉ざされた平穏を望み、血の流れない日々を雪山に祈り続けてきた。
それでも運命は芽吹く憎しみを育むことを止めず、彼女のたった一人の肉親さえも連れ去ってしまった。
運命は、彼女たちを愛さなかった。
「…おじいちゃん、私、どうしたらいいの?」
口にしたところで祖父が返事をする訳もなく、俯いたところで涙が彼女を慰める訳もない。
色褪せていく記憶を止められず、少女は奥歯を強く、噛み締めた。
『何をそんなに悲しむことがある。』
「!?」
突如として、不気味な声が少女の家を満たす。
扉、窓、屋根の小さな隙間から山吹色の淡い靄が侵入する。
『お前たちは我々の肉に変わり、いずれ世界を染め上げる歴史の一節になる。これ以上に誉ある死が他にあるか?…ククク。』
「…誰?」
大量の靄は次第にいくつかの塊を形作る。
靄の中核に一際明るい光の塊が現れ、太陽の昇る刻の妖しい朧月をつくる。
月は脈打ち、太陽を焦がれる目で少女を見詰める。
少女はそこにハッキリとした、「身を焦がす視線」を感じていた。
『名乗る必要が?お前もすぐに我々になるというのに。それともお前は、臓物の一つひとつに名前でも付けているというのか?』
その一方的な会話を、老夫が遮った。
「コレコレ、紳士とあろうものがそんな品のない言葉で、その上、顔も見せずに淑女をエスコートするつもりか?」
コツコツと杖で床を叩くと、四つの朧月がつくる影が不意に起き上がった。
そして、包み隠していた影が剥がれ落ちると、中から現れたのは不潔で卑しい老婆だった。
「……チッ」
「これはこれは、無礼はワシの方だったか。まさか、お前さんもエスコートされる側だとは思わなんだよ。」
彼女の醜態を白日の下に晒した老夫は何一つ悪びれるところのない笑みを浮かべていた。
「…皆を、どこに連れていったの。」
現れた老婆を目にした少女は、血の気が引く想いをしていた。
…現れたのは老婆だった。
近付かれても『声』に気付かなかった理由。靄が少女を見詰める視線から異様な気配を感じた理由がそこに立っている気がしていた。
少女の顔色に気付いた老婆は老夫とそっくりな笑みを浮かべ、柔らかな少女の心臓にユックリとナイフを突き付けた。
「どうした、顔色が悪いな?」
「答えて。皆はどこ?」
「私の言った意味が理解できなかったか?お前に知る必要はない。お前はただ、黙って私に付いてくればいい。」
「…連れていってくれるのね?」
「ああ。だが、もちろんその前にお前にもあの『麻袋』を被ってもらうことになるがね。」
多くの『血』で濡れ、錆びついた刃が少女の胸を裂き、『甘い血』を求めた。
滾々と湧き出る『血』が味蕾豊かな舌に広がり、鈍色の『悪夢』で少女を満たす。
「…イヤ。」
「我が儘を言う年頃でもないだろうに。この村の人間はそうやって立派な魔女なる運命なのさ。お前もよく知っているだろう?」
「嫌っ!!」
悲鳴が銃声のように響き渡り、彼女の獣たちを一斉に嗾けた。
撃ち放たれた狼に2つの山吹色の靄が狼を包もうと霧散した。
すると前触れもなく狼の駆ける先の床が抜けた。
狼は動じず、弾丸の勢いのまま床下を駆け抜けていく。
そしてまた、老婆の目の前の床が狼を導くように口を開けた。
「なっ!?」
少女の悲鳴に放たれた狼が、真っ直ぐに老婆の首元を狙って飛び掛かった。
ところが―――、
空飛ぶ竜すら逃さなかった狼が、足腰の衰えた老婆の首を捉え損ねた。
「…まさか……」
狼は確かに老婆の首に狙いを定めていた。
そして老婆は、それを躱してなどいない。一歩も、その場を動いてなどいない。
「ククク、ようやく受け入れられたか?これがお前の望む答えさ。」
狼が自ら外したのだ。
『悪夢』が、少女を見て微笑んでいた。
狼の奇襲を難なく躱した老婆は山吹色の靄を自分の周囲に張り巡らせ、狼の素早い追撃への防衛線を敷いてみせた。
そして、靄の能力を熟知した老婆は同時にもう一つの命令を下していた。
だが―――、
「お前の力は強大かもしれん。だが、結局はろくに戦闘も知らん小娘よ。見ろ、キサマがこちらに気を取られている間にお前は自分の手駒を一つ失く…、」
『運命』は、老婆にも微笑んでいた。
「…なぜだ?」
皆が各々の戦意を持って敵に集中している最中、ピンクの大男だけはボンヤリと成り行きを見守っていた。
そんな極楽とんぼを老婆は見逃さなかった。
靄で大男を包み込み、靄の魔法でバラバラに切り刻む……はずだった。
ところが実際には靄に包まれてはいるものの、大男は血の一滴すら流していない。
それどころか、そのみっともない大口を目一杯開けると、掃除機のごとく霧状の化け物を無慈悲に呑み込んでしまった。
「そのヘモジーは、いったいなんなんだ?…グゥ、なんだこれは!?」
奇襲を躱し、有能な盾に守られていながら、老婆は原因不明の激痛に襲われていた。
「毒針だと?いったい何処から?」
現状を理解できず目を白黒させながらも必死に回復を計ろうとするその様子を、のんびりと観戦を決め込む老夫が笑っていた。
「兵法だなんだと語る前に『魔女』の本質を忘れたキサマにこの子を嘲る資格などあるものか。」
「…なんだと?」
「忘れてしまったのだろう?ならばもはや知る必要もあるまい。土台、知ったところでお前ごときにワシらの相手は役不足が過ぎるがな。」
「……」
「もしも、お前に助言に耳を傾けるだけの賢さが残っているのなら一つ忠告してやろう。」
老夫は自慢の、馬の尾のような長い眉を持ち上げ、光を忘れた瞳で老婆を睨んだ。
「疾く去れ。」
「……」
瞳は老婆の戦意を完全に揉み消してしまった。
老夫によって晒された手順を擦るように、老婆は影を羽織り輪郭を消していく。
「ちょっと待って!その前に私の質問に答えて、皆はどこ!?」
「…追ってこい。そこに全てがある。」
そうして、残った朧月が霧散するに合わせて影は完全に立ち消えた。