――――数時間後
目を覚ますと、陽はまだ十分に高かった。
おじいさんは何処からか集めてきた木の実を咀嚼しながらウツラウツラと船を漕いでる。
まだ時間は十分にあるとはいえ、夜になれば化け物たちが動き始めて見つかるかもしれないっていうのに。
…でも、この人にとって、野生の化け物たちなんて大した脅威にもならないんだと思う。
憶測だけど…、憶測でしかないけど、プロディアスの女神像を壊したは、あの意思を持ってるかのような雷を落としたのはこの人なんじゃないかと思う。
…私、どうしてそんなことを考えてるの?
もう、諦めたんじゃないの?
神殿に置き去りにした彼だって、きっと私じゃない誰かが手を貸してるわ。
彼は強いから、私の手助けなんかなくても自分の力で生きたいように生きていける。
目的を遂げられる。
私なんかいなくても……
「……おや、思ったよりも早かったのう。」
小さな焚火に寄り添うようにうたた寝をする老夫は、リーザが近付くと自動人形のごとくパチリと目を覚ました。
「心は決まったのかのう?」
「…別に私の命なんて、どうでもいいんです。でも、自分の命を捨てるよりも先に助けないといけない人がいますから。」
…嘘。
本当は、悔しかった。悔しくて堪らなかった。
彼は強いから。
私がいなくても彼は『悪夢』に打ち勝って幸せを掴むかもしれない。
私のことなんか忘れて…。
私は、思い返せば彼のことばかりなのに。彼は私でない誰かと一緒に明日を笑って迎えるかもしれない。
そう思うと、理解できない悔しさが込み上げてきて居ても立ってもいられなくなったの。
「ホッホッホ…。」
おじいさんが私の心を見抜いたのかどうか分からない。
だけど、その飄々とした笑いは、八つ当たりしたくてしかたがない私の怒りの矛先を難なく躱してみせた。
「結構々々。若者のすべきは、己の好きなように生きてみることからじゃて。」
おじいさんの言葉の選び方はどこか、私を苛立たせながらも、何処かへと導こうとしているように聞こえる。
それは多分、私の望むものというよりも、おじいさんの願望の方が強いんじゃないかと思っている。
つまり、私はそれに素直に受け入れるべきなの?それとも、拒むべきなの?
いまいちこのおじいさんと―――そういえばまだ名前も聞いてない―――どう接したら良いのかわからない。
少女の小さな戸惑いを余所に、老夫は懐をゴソゴソとまさぐるとガーゼと包帯を取り出した。
「まずはホレ、そのボロボロの身形をなんとかせんとな。」
「……」
「そこに座りなさい。手当てしてやろう。」
老夫は枯れ枝のように痩せ細っているのに、触れる指先は両棲類のように妙にしっとりとしていた。
その上、高齢にも拘わらず、手足に震えは一切見られない。
それどころか、その辺りの若者よりも器用に動かし、瞬く間に手当てを済ませてしまった。
「…おじいさん。」
「どうした?」
多分、この人は私が魔女だって知ってるんだと思う。
だけど今、私がその『力』を失くしてるっていうことは知ってるのかしら?
知った上でこんな挑発的な態度を取ってるの?
…これは言った方が良いの?それとも黙っておくべきだった?
少なくとも、敵じゃないと思う。
…ううん。敵だとか、そうじゃないとか。今は関係ないじゃない。
「一つ尋ねたいことがあるんです。」
これを解決しないと私は何にもできない。
こんな「小娘」の力だけじゃ倒したい敵の一人だって倒せやしない。
今の私にはあの『力』しか頼るものがないの。
私には、「フォーリア」を持つ資格なんてないんだから…。
「なんじゃ、遠慮することはない。なんでも聞きなさい。」
「…私、『魔女の力』を失くしてしまったんです。これって、おじいさんの魔法でなんとかなりますか?」
老夫は、その言葉を待っていた。
少女の口からその言葉を言わせる必要があった。そして見事、目論見を成した老夫は満足げな笑みを浮かべていた。
「どれ。手を出してみなさい。」
老夫は枯れ枝のような腕を持ち上げ、今にも折れてしまいそうな人差し指で少女の手の皺の一つを擦った。
「…ふむ。まあ、お前さんを一目見た時から大体のことはわかっておったんじゃが。これはまた見事に封じられとるのう。」
「今まで、こんなことなかったのに。」
リーザは自分の『力』を過信していた。自分の『力』は誰にも止められない。凶悪かつ凶暴なものだと思い込んでいた。
「まあ、上には上がおるということじゃな。」
「……」
老夫は自慢の髭を梳きながらひと時考え、少女に尋ねた。
「どこの誰にやられたものかわかるかのう?」
「…誰かまではわかりません。だけど、ホルンの村に行くために渡らなきゃいけない橋があって。その橋の入り口を塞いでた岩に触れたら、こんなことになっちゃったんです。」
「…ふむ。」
「どうにかなりそうですか?」
目許は眉毛に、口許は髭に覆われ、さらには顔全体に広がる皺だらけの老夫から表情らしい表情を読み取るのは難しく、少女はただただ彼の唇から出てくる答え信じるしかなかった。
「この場でなんとかできんこともないが…、まずはその岩まで行った方が話は早いじゃろうな。」
煮え切らない答えは、立ち上がったばかりの少女にもどかしさを覚えさせた。
「何か、ここで治しちゃいけない理由があるんですか?」
「いやいや、単にその方がワシが楽というだけのことじゃ。」
「……」
「これこれ、そんな顔をするでない。簡単に言うとるが、その『呪い』を解くのは中々に骨が折れるんじゃぞ?」
老夫は持ち前の剽軽さで答えた。
だが、彼の只者でない姿を見てきたリーザは、彼の言う「中々」が実は自分なんかでは想像もつかないレベルのことだということも理解できた。
「ごめんなさい。私、そっちのことは何も分からないから、つい。」
そして、それが自分のミスが招いた結果なだけに、それ以上執拗に迫ることもできなかった。
「ホッホッホ、気にせんでいい。それよりホレ、なおさら急いだ方が良いんじゃないか?」
そう言って老夫が地面に杖を突き立て引き抜くと、そこには不可思議な穴が生まれていた。
土が凹んでできた穴ではなく、何でできているかもわからない。底も見えない。
そして、老夫がそこに足を乗せると、ストローに吸われるヨーグルトか何かのように体が変形し、穴の中へと消えていった。
「…はい。」
近付くと海底にでも立っているかのような圧迫感を覚えた。
リーザには、彼の『力』もまた、「呪い」に満ちているように感じられてならなかった。
「……」
「……」
「ホレ、もう着いたぞい?」
「……え?」
そこは確かに、先日、彼女が逃げ帰った橋と岩のある場所だった。
「……」
訳が分からず、リーザは自分の全身を見渡し、自分の手足が、体がキチンとそこにあるかどうかを確認した。
「ホッホッホ、『転移』は初めてじゃったか。稀有な体験じゃろう?」
「…私、何ともなってないんですか?」
「心配せんでもお前さんは完璧な”お前さん”のままじゃよ。」
「……」
穴に爪先を乗せたところまでは憶えてる。
ううん、「憶えている」というほどの時も経ってない。爪先を穴に乗せた瞬間、「家の扉を開ける」よりも早く、景色は様変わりしてた。
それまで見てた景色が今も残像のようにボンヤリと目に映ってしまうくらいに。
化かされている感さえあった。
正気の目で見れば私はまだ森の中にいるような気がしていた。
…でも、実際に今の私の身の回りにあるものは何かが争った形跡と、所々に広がる「赤土」。死体はなく、ハエや虫が「赤土」に群がってる。
あとは町や村に続く路とその両側に広がる森だけ。
まるで、あそこからここまでの「道」がスッポリと切り落とされてしまったかのような―――
「……ウップ…!?」
「おやおや、酔うてしもうたか?」
私は木陰に駆け込み、その「違和感」を吐き出した。
「どうやらお前さんは五感が一般人よりも少しばっかり鋭いんじゃろうな。」
…酷い不快感。
「前」と「今」で感じ取った感覚が頭の中でグチャグチャになってる感じ。
今、自分がどういう場所にいるのか全く分からない。
考えれば考えるほど不快感が強くなる気がする。
「すまなんだのう。大抵の人間はそれほど影響しないもんなんじゃが…。」
おじいさんは、何処から出したとも知れない水を木の器に入れて差し出してきた。
「……」
「安心せい。毒なんぞ入っとらんよ。まあ、酔い覚ましの薬は入れとるがな。」
「…ありがとうございます。」
口を付けると、私はまたしても不可思議な体験をしてしまう。
見た目はただの木のお椀なのに、口を付けた途端、お椀から香草の匂いが立ち上り、含んだ水は口にしたことがないくらい澄んだ味がした。
たった一度ゆすぐだけで口の中の不快なものが全部洗い流されたし、一口飲めば次の瞬間には全身に力が漲るような感覚さえあった。
そして、器をおじいさんに返す頃には飲み残していたはずの水は失くなり、まるで天日に干したかのように綺麗に乾いてしまっていた。
「どうじゃ、少しは良うなったかの?」
「…はい、ありがとうございます。」
私はいよいよ化かされているんじゃないかと訝しんだけれど、取り敢えず今はお椀を返し、自分の粗相を謝った。
「いやいや、謝るのはワシの方じゃよ。町から飛んだ時はなんともないもんじゃから、つい平気だろうと思い込んでしまっておった。」
…わからない。
やっぱり、このおじいさんとどう接したらいいのか。
「ところで、」
私の具合が良くなったことを確認すると、おじいさんはフイと私からソレへと視線を移した。
「これが、お前さんの言う”岩”で間違いないかのう?」
おじいさんが見遣る視線の先に、つい先日、私を陥れた大きな岩が今も変わらず、なに素知らぬ顔でそこにいた。
「…はい、そうです。」
「……」
私は答えたのに、おじいさんは電池の切れた機械人形みたいに岩を見詰めたまま固まっていた。
「おじいさん?」
「あ、いや。すまんすまん、なんでもないわい。」
見惚れていることに気付いたおじいさんは照れくさそうに頬を掻いて誤魔化していた。
「それじゃあ、ワシもちいとばっかし本気を出すことにするかのう。」
ことさら高い笑い声を上げながら、おじいさんは足を肩幅に開き―――この時になって初めて、おじいさんが裸足だってことに気付いた―――大岩と向かい合った。
「ホレホレ、危ないからの。退がった退がった。」
おじいさんは一度だけ肩で息をすると、借り物の杖をかざしたまま聞いたことのない言葉で何事かを唱えた。
瞬間―――、
ピシャァァンッ!!
辺りに変化らしい変化はないのに、岩と同じくらい大きな窓ガラスを割ったかのような騒音だけが大岩を中心に一帯に鳴り響いた。
音に驚いた獣たちが悲鳴を上げながら逃げていく。
「…もうひと押しというところかのう。」
もう一度、聞き取れない言葉を唱えると…。
ピシャァァンッ!!
騒音は倍以上の轟音となって、木端微塵に砕け散る大岩から飛び出した。
「キャッ!」
同時に、地面が捲れ上がるほどの爆風、熱風、閃光が二人を襲った。
ところが、老夫と少女は透明な壁か何かに守られているかのように一切の被害を寄せ付けなかった。
目を焼くような閃光も、耳を劈くような轟音も、彼女たちに届く頃には海に沈む夕日とカモメの鳴く声に変わっていた。
…パラパラ……
舞い上がった土煙はなかなか落ち着かず、前が見えない。
すると、おじいさんはいつの間にか私のすぐ傍まで近寄っていて、催促するように私に話しかけてきた。
「今の内じゃ、とっとと橋を渡るぞい。」
「え、どうして?」と問いかけた瞬間、私の人生を狂わせ続けた『力』が、私の中に舞い戻ってきていることに気付いた。
「気付いたか?じゃあ、ワシの言葉の意味も分かるのう?」
「…はい。」
煙の向こう側から、ここにいるモノとは別の、大きな『声』の塊が近付いてきていた。
…それだけじゃない。
今、私の隣にいる人物が、どんなに恐ろしいものなのか。
私は知ってしまった。
魔法で直接ホルンの村に飛ぼうにも、岩を壊した反動で「おじいさんの力」やら「岩に込められていた力」やらが入り乱れていて、おじいさんの『転移』の魔法を邪魔しているらしかった。
岩に掛けられた魔法には強い意思のようなものが込められていたみたいで、おじいさんと同じく、私の耳も周りの『声』を事細かに拾うことができなくなっていた。
それなのに、まるで大岩の仇をとるかのように、新しい『声』が次々と私たちの前に現れた。
「何か凄い速さで崖の底から近付いてきます!」
「こりゃあ、ますます急いだ方がいいかもしれんな。」
『声』にぶつからないように気を付けて、私たちは橋の向こうへと駆け出した。
けれども、目の前にあるのはただの「吊り橋」、力強く踏みしめれば踏みしめるほどにバランスが悪くなって、私たちの次の一歩の邪魔をする。
それでも橋の半ばまで来た。
その次の瞬間。
土煙は私たちの予想よりも早く、そして一瞬にして吹き飛ばされた。
大岩を砕いた爆風に近い暴風が橋を壊さんばかりに揺らし、私たちの脱走の機会を完全に潰した。
「……」
晴れ渡り、空を見上げると、そこには二羽の立派な蒼翼の竜が私たちを見下ろしていた。
「何者だ。」
そして、前方には2体の黄褐色の大きな悪魔が立ち塞がっていた。
2m以上はある悪魔の全身は、岩肌のような硬質な筋肉に覆われ、死体から剥ぎ取ったかのようなボロボロの腰巻を着けている。
目や鼻が顔の大きさに比して極端に小さいのに、口だけはワニのように端から端まで裂けていて不衛生で鋭い牙が覗いている。
頭頂部からは象牙そのままの角を生やし、肩に届く青い髪はハリネズミのように逆立っている。
そして、彼らはリーザにヤゴス島の死神を想起させるような禍々しい鎌を背負っていた。
「岩の封印を解いたのはお前たちか?」
声色こそ悪魔々々しい重厚感に満ちていたが、発音はいやに人間臭く、リーザに余計な勘繰りを誘った。
「なに、足元に邪魔な石ころが転がっておったのでな。ちょいと退かせてもらっただけよ。」
「…何用だ。」
悪魔たちは私を見ると顔を強ばらせ、あからさまに殺気立った空気を漂わせた。
それに、そういう魔法が掛けられているのか。『声』はさらに聞き取りづらくなっていた。
「お前たちこそ何を―――、」
「村の皆に何をしたの。」
おじいさんの言葉を遮り、私は悪魔の威圧感を跳ね返す意気込みで言ってみた。
この『口』で言えば何かが変わるかもしれないと期待を込めて。
だけど、悪魔たちに私の『声』に反応した様子は見られなかった。
せっかく取り戻した『力』なのに。こんな時のために我慢してきた『力』なのに、まるで役に立たなかった。
「もはやお前には関係のないことだ。」
「答えて…、村の皆に何をしたの?!」
私の叫びも聞き流し、悪魔たちは背中の大鎌をゆっくりと構えた。
「お嬢ちゃん、何か武器は持っておるか?」
「…いいえ。」
敵を見据えながら答えると、おじいさんは徐に懐から短剣を取り出してみせた。
牢屋から抜け出したばっかりの私たちにそんな物を手に入れる余裕はなかったはずなのに。
そう尋ねると、おじいさんはもはや聞き慣れてしまった恒例の高笑いを交えて愉快そうに答えた。
「いやなに。牢の隅に捨ててあったものを拾っただけじゃよ。」
「……」
私は呆気にとられてながらも、剣を受け取り、鞘を腰に差した。
周到というか抜け目がないというか…。
そしてふと気付いた。
私はもう、剣を持って戦うことに抵抗がなくなっていた。
それが銃だったら今頃、10回は引き金をひいているかもしれない。
明らかに、前よりも積極的に敵を睨みつけるようになっていた。
「ここは足場が悪い。一旦、引き下がろうじゃないか。」
おじいさんに促され、にじり寄ってくる敵を前に踵を返すと、
「逃がしはせん。」
土煙を利用したのか。もう1人の悪魔が私たちの背後に回り込んでいた。
振り返った拍子に私はあることに気付いた。
「…おじいさん、」
「なんじゃ?」
こんな絶体絶命の中でもおじいさんの態度には終始余裕があった。
…それは多分、そういうことなんだと思う。
本当は私に武器を持たせる必要もないんだ。
ただ、おじいさんは私を試すために小芝居を打ってるだけなんだ。
だけど、念のためにおじいさんにも伝えておいた方がいいと思った。本当に、念のために。
「森の中に人がいます。」
悪魔よりもずっと後方の森の中に、9人の人間が息を潜め、こちらの様子を窺っていた。
「…ほう。知り合いかの?」
彼らは巧みに隠れてて、目で捉えることができない。
ただ、『声』を聞く分には私の「関係者」ではあることは間違いなかった。
「多分、昨日、リッツを襲った盗賊なんだと思います。」
「それは、お前さんが撃退したんか?」
「…はい。」
さすがに悪魔と竜は相手にしたくないようで、今はただただ息を殺してこっちを見守っている。
「そうかい、そうかい。まったく、悪党っちゅうのはそこら辺の一般人よりも義理堅いようで。ワシらも見習わねばのう。ホッホッホ。」
「……」
隠れて見えない目や唇の代わりにヒクヒクと動く眉や髭を見ていると、それはまるで、敵わないと知らずに向かってくる虫けらを嘲っているようにも見えた。
私が森の中の人間に気を取られている内に、橋の上の悪魔たちはズンズンとこちらに迫ってきていた。
一人100㎏はある巨漢がノシリ、ノシリと歩くたびに橋は大きく揺れ、ギシギシと悲鳴を上げる。
壊れるようで壊れない。橋はギリギリの均衡を保ち続けていた。
「…何かいい方法はありますか?」
体重の軽い私は、崖から吹き上げる風と揺れる橋のせいで、橋のロープに掴まって立っているだけで手一杯になっていた。
「さて、どうしたもんかのう。」
「……」
『魔女の力』は取り戻したのだから、自分の面倒は自分で見ろ。
おじいさんはそう『言っていた』。
そして私は気付いてる。
「私はどうにか橋を引き返そうと思います。おじいさんはどうしますか?」
「ホッホッホ、ワシのことは気にせんで良いよ。適当にやるさ。」
「そうですか。」
「怪我だけはせんようにな。」
おじいさんはもう、本調子だってこと。
「…気を付けます。」
私たちは合図もなしにそれぞれで動き出した。
私は背後の悪魔に向かって真っ直ぐに駆け出した。
「……」
悪魔は大鎌を振りかぶり、直進する私に狙いを定める。
「…え!?」
確かに踏みしめてたはずの橋の板が急に消えて失くなり、私は体勢を崩して倒れ込んだ。
その拍子に、渡された短剣も谷底に落としてしまう。
仕掛けた悪魔はタイミング良く、狙い違わず鎌を振り下ろす。
私は無我夢中で、利くはずもない命令を悪魔に向けて飛ばしていた。
『止まれっ!』
――――リリー!
「……え?」
本当に、僅か数ミリ。少女の頭を捉え損ねた鎌が橋に深くめり込んでいた。
そして、少女が空を見上げるとそこには
―――一匹の獣がいた。
蒼い鬣を力強くたなびかせ、鼻に鋭い皺を刻み、赤い瞳は今にも悪魔を血達磨に変えんばかりにドクドクと脈打たせていた。
触れれば焼けてしまうような真っ赤な歯茎を剥き出しにし、聞けば鼓動が握り潰されてしまうような底冷えのする唸り声を響いかせていた。
倍以上の体格差をものともせず悪魔の大鎌を踏みつけるソレは、悪魔よりも獰猛で悪魔よりも凶悪な狂気で溢れかえらせていた。
本来あるはずの捕食関係を完全に覆し、これから繰り広げられる全ての虐殺を、「狂気」が肯定していた。
…今やこの場で最も「魔物」の称号に近い存在であるにも拘らず、少女はその獣を目にして込み上げてくる「温もり」に溺れ、頬を濡らした。
また、その名を口にできる喜びを心から感謝していた。
「パンディット……。」
―――主人を危険に晒され怒りに狂った化け物が、そこにいた。