――――フォーレス、ラムール刑務所
地下へ続く階段を下りた。
一段、一段を踏みしめる度に鳴り響く木材の軋む音は、絞首台を取り囲む町の人たちの罵る声に聞こえた。
一段、一段を踏みしめる度、肺を満たす空気が氷水のように冷えていく。
一段、一段……、一段、一段……、
これは14年間、私が犯してきた罪の音だ。
償う素振りも見せず我が物顔で犯し続けてきた、14年前に続く私の足跡。
足跡の数だけ、人々は有罪を叫ぶ。
足跡の始まりに立つ彼女は、望んで『運命』を手にした訳ではないというのに。
それは、持て余した神が、小さな命に擦り付けた一方的な『運命』だった。
全ての人が目を背ければそれは『呪い』でなくなるのに、ヒトの血を引く生き物たちは醜い彼女の『呪い』を囃し立てずにはいられないのだ。
軋む音は一段、一段、下っていくほどに強く、強く、耳を背ける少女の鼓膜にも届くように厭らしく、愉快に鳴り響いた。
両手を縛られていなかったなら、少女はその耳を引き千切っていたかもしれない。
代わりに少女は、頬から流れる赤い涙を唇で受け、たっぷりと濡れ渡った憎しみで奥歯を鳴らした。
彼らの耳に消せない罵声を刻むように。
彼らの血に消えない呪いを染み込ませるように。
「少女」に抗う術などない。
それが世界の仕組みだと軋む声が嘲る。
けれども少女はそれに反論する。
逆らえないんじゃない。
逆らっちゃいけないんだ。
どうして?
私がホルンの子だから。
私が、醜い…、醜い化け物だからっ!!
唇から溢れる涙が、少女の声にならない悲鳴を含んで牢獄の床を濡らしていく。
「おい、お前たち。」
署長が事務作業に勤しむ看守らに声を掛けると、彼らはすでに聞き及んでいるという体ですぐに、作業を中断し、上階へと消えていった。
「入れ。」
「……」
そこはただの箱だった。
寝具もなければ、便器もない。虫を閉じ込めるためだけの虫籠。
漂う異臭は毒素のように少女の鼻を刺し、その足を躊躇させる。
「早くしろ!」
後頭部を殴られ、少女は倒れ込むように籠の中へと押し込まれた。
両手は縛られたまま受け身もとれず、石畳は破け曝け出した少女の肌を余すことなく痛めつけた。
少女は土の中で冬眠していた幼虫のように体を丸め、僅かに痙攣した後、死んだように動かなくなった。
白い肌は石畳の愛撫で、溢れ出す血溜まりで濡れていく。
少女はその様子をただただ黙って見詰めた。
……熱い。
でも、何も、感じない。
少女の耳は今までになく研ぎ澄まされていた。
今の心境とは裏腹に、命の危機から逃れるために獣のように欹てていた。
その耳が、上階で囁く憲兵たちの一言一句を余さず拾った。
しかし―――、
何を言ってるのかわからない。
……わからない。
今の少女に、ヒトの言葉を受け留めるだけの気力は残っていなかった。
血と唾が固まり、唇は縫い付けられていた。
石畳に突っ伏したまま、明かり一つない部屋の床を見詰めていた。
今はもう、頬から流れる血だけが少女の生を辛うじて囁いているに過ぎない。
「…まさか本当にここへ戻ってくるとはな。」
看守用の椅子に腰かけると、署長は返事も求めず一方的に話し始めた。
「キサマはもっと残忍で狡猾な化け物だと思っていたよ。…まさかこんなにも人間に毒されているとはな。あの方に任された仕事だけに期待をし過ぎたようだ。」
ピクリとも動かない少女を、男はしばらくの間、ただ黙って眺めていた。
「…愚かだな。」
それでも少女は死体のように床を舐め続けている。
「すぐにアルディアから迎えがくる。」
やがて、少女の未来を読み解いたとでもいうようにスクリと立ち上がると、男は少女にも見える形で、その一部を示してみせた。
「鍵はここに置いておく。あとは好きにするといい。」
それは彼の任務に背く行動だった。
しかし、それもまた必要な行為だと知っていた。
彼にとっても、彼の主人にとっても。
「……」
少女は動かない。
だが、私は誤魔化されない。いずれまた、その「凶悪な力」でもって私たちを脅かす日が来る、必ず。
そのために私は私がすべきことをしたまでだ。
…いいや、世界が求めるエンターテイメントに一役買ったと言うべきか。
自己満足、達成感、優越感。
今、私はその全てを手に入れた。
この少女のように、『力』に振り回されることもなく。
自分を見失うこともなく……。
男は父親のような優しさで少女に道を指し示すと、踵を返し階段に足を掛けた。
「……」
男はチラリと階段横の排水溝に目を遣った後、上の階にいくと、看守らを持ち場に戻すこともせず、作業に追われる部下に小さな仕事を言い渡した。
「地下の排水溝からネズミが入っていた。あとで穴を完全に塞いでおけ。」
その奇妙な命令に、部下たちは訝しげに顔を見合わせた。
「……」
男の人が、何か言っていた。
私を詰ってた?私に期待してた?
なんだっていい。
もう、私には関係ないんだもの。
床に溜まった血が固まる様を見詰めながら、少女は未だに自分のために流れる時間を疎ましく思った。
「白い家」から逃げる時、勇者の目は私を「人間」だとは言わなかった。
もしも私がオカシな素振りを見せてたら、彼はその剣で私を斬っていたかもしれない。
…そうすれば、良かったんだ。
もしも「白い家」に乗り込むのを断らなかったら――――、
もしもあの夜、空港で黒服たちから逃げ出さなかったら――――、
少女の時は淀み、重ねた罪を一つひとつ噛み締める時間が、無慈悲に、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。
…どうすればいいの?
化け物は、どうしたら死ねるの?
舌を噛み切ればいいの?
それとも、自分で自分に『命令』すればいいの?
…ダメだ。
私にはもうその『力』もないんだ。
……お願い、誰か早く私を終わらせて。
―――反省も過ぎれば大事なものすら失くしてしまうぞい?
幻聴だと思った。
お迎えが来たと喜びさえもした。
それなのに…、
「省みるは猿でもできる不幸じゃが、先を識るは人のみに許された幸福の徴じゃ。それを無駄にすればするほど、お前さんは猿として死んでいく。…それはあんまりだと思わんか?」
……誰?
見詰める壁の向こう側から、妖しいお爺さんの声がする。
「若人よ、若人。お前の未来に儂の鍬が届くことはない。しかし、耕せばそれはそれは儂の見たこともないような見事な麦を実らせるだろう。儂は、それが羨ましくて堪らない。儂は、それを心から望んで止まない。」
まるで私の顔が見えているかのような語り口調が気になった。
壁に穴でも開いているのかしら?
体を起こそうかと思ったけれど、床を濡らす血が頬に張り付いて私を放さない。
「……と、まあ老いぼれの役に立つかも分からん薀蓄はこの辺にしておくとして。お前さん、ワシの声は聞こえとるかのう?ああ、声は声でも耳で聞く方ではないがな。」
「!?」
…お爺さん、どうして?
どうして「魔女」のことを知ってるの?
「まあ、聞こえんどもかまわん。ワシはそろそろここをお暇しようと思っておるんじゃが。」
途端に、お爺さんの声から私の望まないものの臭いが漂ってきた。
愚かな獣が手を伸ばすのを待ち構えている気がした。
「お前さんはどうするかね?」
「……放って…おいてください。」
喉に溜まった血も吐き出さず、私は壁の向こう側の人に願った。
それなのに、壁は私を無視して話しかけ続ける。
「ふむ、勿体ない。お前さんの麦は良い香りがするし、誰もがそれを好むだろうに。」
「……」
「…畑は己の力で耕してこそ、か。いやいや、要らぬお節介じゃったかな。すまんすまん。」
よっこらしょ、という老人らしい掛け声がやけに嘘くさく聞こえた。
そうして、行動を起こそうと老夫が腰を上げると同時に、「ゴソリ」という石の擦れ合う音が牢屋に響き渡った。
「…ふむ。」
老夫は音のする方を見遣り、そこに現れたものを見つけるとすぐに変化する成り行きを覚った。
「……」
排水溝の蓋が押し上げられ、そこからネズミの頭がヒョッコリと姿を見せる。
ネズミはグルリと周囲の様子を窺うと、排水溝から這い出て目当ての牢へと真っ直ぐに駆け寄った。
そこに少女の姿を見つけると、ネズミはその小さな体に見合った小さな声で呼び掛ける。
「お姉ちゃん…。」
「……」
「ごめんね。お姉ちゃんのこと、お兄ちゃんに言ったらお兄ちゃんが血相変えて憲兵の人に言っちゃったんだ。」
「……」
「僕のせいだよね…。」
ネズミは動かない少女を見詰め、湧き上がる後悔を噛み締めた。
「…待ってて。ここから出してあげるから。」
ネズミは少女の牢から離れ、部屋の中を嗅ぎ回り始めた。
「坊や、鍵はホレ、机の上じゃぞい。」
格子の隙間から枯れ枝が伸びる様を見てビクリと肩を竦めたネズミは、よくよく檻の中を見てさらに驚いてみせた。
その小汚い風体の老人に見覚えがあったのだ。
「おじいちゃんも捕まってたの!?」
「まあ、これだけ無駄に生きておれば予期せぬ事態の一つや二つに巡り合うもんじゃ。」
「…もしかして、おじいちゃんも僕のせいで捕まったの?」
「ホッホッホ、安心せい。ワシは昔っからアヤツらとは馬が合わんでのう。やってやられてを繰り返しておるだけじゃ。お前さんのせいという訳ではないよ。」
「……」
ネズミは言われた鍵を素早く取ると、二人を閉じ込める扉を開け放った。
牢屋の中と外は格子で隔てられていて光を遮るものは何もないのに、鍵の開く音は私の瞼をこじ開けようとする光と一緒にやって来た。
「…リッツ、なの?」
見知った気配が私の隣に駆け寄り、私の体を無理やり床から引き剥がした。
そこで初めて自分が傷だらけだと気付く。
すると、傷はジワジワと私の体に爪を立て始めた。
「うん、そうだよ。早く行こう、お姉ちゃん!」
リッツに支えられてさえ、体は自分のものじゃないみたいに重くて、引き剥がされた血の跡は愛おしそうに私を見詰めている気がした。
私もまた、そこが私の求めている唯一の場所のように思えた。
……放っておいてくれれば良かったのに。
「…どうして、来たの?」
こんなに意味のないことを。大切な、自分の命を危険に晒してまで。
「だって、僕のせいで捕まっちゃったんでしょ?」
「だからって…、」
声を出す度に喉に残っていた最後の水分がなくなって、弱々しく、掠れていく。
「勇気ある行動は、人を変えるもんじゃ。」
「…!」
それは、彼の隣で情けなく泣き腫らしていた私を叩いた人の言葉。
―――それを、信じても良いんですか?
―――言ったでしょ?悩みなさい。アタシの言葉も、アナタの心も。
「人は人に惹かれ、姿形を変えられる。恐ろしくも二つとない、美しい生き物じゃ。お前さんだってよく知っておるじゃろ?」
一足先に牢を出たおじいさんは部屋の中から手ごろな杖を物色していた。
「…おじいさん、もしかして……。」
それが有名な格言なら二人が同じ言葉を口にしていたって何の不思議もない。
だけど、二人の言葉が同じたった一人の人物を指しているように聞こえるのは気のせい?
「そんなことよりも、ホラ!早くしないと憲兵の人たちが来ちゃうよ!」
リッツは私の体を支えたまま上階の気配を感じ、気が気でない様子で催促してくる。
「どうする?彼を裏切るか。それとも、彼を助けるか。選ぶのはお前さんじゃよ。」
それを余所に、おじいさんは私にゆっくりと決断を迫ってくる。
「……」
リッツの肩を借りて、私は最後の力を振り絞るようにノロノロと立ち上がった。
…自分の命が惜しいから立ち上がるんじゃない。
これ以上、リッツを巻き込んじゃいけないから。
この子を、魔女から引き離すまで。一緒に、私ができることをするだけ。
……それだけ。
「こっちだよ。ちょっと汚いけど我慢してね。」
人ひとりは優に入れる幅の排水溝を指すと、ネズミはスルスルと中に身を滑らせた。
「坊やは頼もしいのう。」
小動物よろしく、老夫の言葉にクルリと首を捻る少年は勇ましい眼差しで老夫を睨んだ。
「それとね、おじいちゃん。僕は坊やじゃないよ、リッツだよ!」
「…ホッホッホ、これはこれはすまなんだ。それではリッツ。外までの案内、よろしく頼んだぞい。」
老夫の、のらりくらりとした返事に不満を覚えながらも、小さな勇者は薄暗い下水道に潜り、ロウソク片手に二人を無事に外まで導いた。