「…ハァ、ッハァ……ハァ…ハァ……」
リーザは町はずれの森の中を駆けずり回っていた。
人の目には彼女が奉公先から逃げ出した村娘に映るだろう。
だが、もしも彼女がその『血』で触れたなら、誰もがその醜悪な『力』を前に恐慌状態に陥り、人間扱いしたことを後悔するだろう。
「魔女」
それは人間さえも「家畜」に変える人間の姿を模った人間以外のなにか。
そして、今、その『何か』を形作っていた『力』を奪われ、彼女は『彼女』ではなくなり、理解の追い付かないままパニックに陥っていていた。
『力』を奪われた直後はその場から動くことさえ恐ろしくてできなかった。
今まで強大な『力』で隠れていた「少女」が突如として世界に晒され、あらゆる「死」が彼女の前に忽然と姿を現した。
「死」は彼女の脳を通して瞬く間にその身体を満たし、侵した。
「一歩踏み出せば、死ぬかもしれない」
「もう一度岩に触れたら、死ぬかもしれない」
「声を出せば、死ぬかもしれない」
「抗えば、死ぬかもしれない」
何をしても…、死ぬ…かも……
動けなかった。
「死」が彼女の血を名乗り、生き抜こうとする彼女の全身の活動を奪い去ってしまった。
だが、立ち竦む彼女の下に訪れた一陣の風が、森に潜む獣の臭いを彼女に吹きかけたことが、物語をここで終わらせなかった。
「……ダメだ、このままじゃ、死んじゃう!!」
それは彼女に、通りの真ん中に立ち尽くす今の自分がいかに無防備なのかを気付かせた。
一つの、確実な「死」が彼女の手足を突き動かした。
やがて、夜がやって来る。
追いやられていた影が街道を、森を満たし、追いやられていた獣たちの凶暴性が目を覚ます。
今の少女ならば一噛みで殺すことのできる闇が、容赦なく少女の全身を包む。
獣だけじゃない。
今や、町に広まっているかもしれない「魔女」の噂が人間たちに剣や杭を持たせているかもしれない。
彼らは松明を持って闇を照らす。
魔女の姿を隠すと言われる闇を焼き払うための「炎」で、少女を焙り出そうと人の道を練り歩く。
どこに行けばいいの?
身を隠せる場所は?
あの子たちはどこ?
誰か……、
……私は、どうすればいいの?
現実が、彼女の問い一つひとつに丁寧な答えを返す。
しかし彼女の耳は、そうして並べられた中からたった一つの言葉しか拾わない。
「いやだ…、いやだ…、こんなところで、死にたくないっ!!」
少女の目は乾いていた。
周囲を警戒する余裕もなく、ただただがむしゃらに町明かりを探して陽の沈む森の中を走っていた。
木の根に足を取られ、何度手足を擦り剥いたか。
突き出た枝に引っ掻かれ、服はあちこちが解れてしまう。
「助けて…、エルクっ!!」
乾いた喉で喘ぐように悲鳴を上げ、泥だらけになるのも構わず、傷だらけになるのも構わず、少女は気を失うまで走り続けた。
―――数分後
「……ここは?」
目覚めたリーザは未だ森の中にいた。
苔で足を滑らせ、岩に頭を打ちつけて気絶していたらしかった。
「…痛い。」
額に触れれば、シットリと赤い血がその手を濡らした。
「……どうしよう。」
これが彼女にとって不幸中の幸いと言えるのかわからない。
だが、気を失ったことでリーザは幾分かの冷静さを取り戻していた。
「道は…、どこだろ。」
けれども、現状が彼女にとって極めて良くないことに変わりはない。
むしろ、デタラメに走り回ったことで道を見失い、現在地もろくに把握できない森の奥深くに入り込んでしまっていた。
ビリビリ…(服の裾を裂く音)
これから一時間も経たない内に辺りは前後不確かになるほどの闇に包まれる。
加えて血を流してしまったことで獣や化け物たちの鼻を刺激させてしまうかもしれない。
リーザは裂いた服で患部を覆い、次に自分にできることを探した。
この状況で唯一の救いは、彼女が山育ちだったことくらいだろう。
平静を保てるくらいに回復したリーザは嗅ぎ慣れた臭いを頼りに食べられる野草、木の実を探し当て、いくらか口に含んだ。
川の音を聞き分け、より安全な場所で水を飲んだ。
「あとはこの川に沿って進めば…。」
川はどこかしらの人里に続いているはず。
フォーレスの森はどこもそんなに深くはない。
もしも道が間違っていなければ、一時間もしない内に町明かりを見つけられるだろう。
少女は立ち止まらなかった。
初めて、「少女」に備わった五感だけで、先の見えない道を進み続けた。
不安は今もある。
だけど、不思議と私の理性を丸呑みにしたあの「恐怖」はない。
今だって、一歩間違えれば死ぬかもしれないのは変わらないのに。
どうしてだか死ぬ気がしない。
慣れ親しんだ土地だから?
頭を打って感覚がマヒしてるのかもしれない。
この「少女」でも私は少しだけ、戦える気がしていた。
だけど……、
この孤独感だけはどうしようもなく私の足を鈍らせた。
あの子たちがそこにいないだけで、私が私じゃないような気分にさせられた。
いつも感じてるはずの私の一部のような「気配」がないだけで、私をどうしようもなく居心地悪くさせた。
目に見えないだけで、本当はそこにパンディットがいる気がした。
……でも、あの子はいない。
その繰り返しが余計に私を出口のない部屋に押し込もうとする。
でも、ここで音を上げられない。
まだ彼がこの世界に生きているんだから。
「…ラムールだ。」
居心地の悪さと戦っている内に私はどうにか町に戻ることができた。
私はやり遂げた。
今まで頼り続けてきた化け物の『力』なしで、独りで夜の森を抜けられた。
そこに喜びなんか湧いてこない。湧いてこないけれど、妙な達成感はあった。
「……」
町の入り口には数人の憲兵が立っているだけで、魔女を警戒するようなお触れが出ているようには見えない。
だからってこんな時間に女がたった一人で町に入ろうとすれば、怪しまれるのは目に見えてる。
でも、これ以上外にいるわけにはいかない。
すぐにでも体を温めないと体調を崩してしまう。
それに、人目を引かないように野営をするなんて今の私には到底できない。
…どこかからコッソリ入らないと。
私は黒服の人たちに連れ去られるまで村の外に出たことなんかないし、村の外のルールなんか全然分からない。
一人で宿に泊まるのだってやっとだった。
そんな田舎者だけど、こんなに大きな町がこんな見通しの悪い夜の町全体を見張れてるなんて思えない。
町はぐるりと壁で囲まれていたけれど、入り口以外にそれらしい見張りは立っていなかった。
壁は高く、反り返っている。
苦戦するかもしれないけど、登ってしまえば比較的簡単に町に入れそうな気がした。
彼女の予想通り、壁を越えて侵入する彼女を咎める者はいなかった。
ここまで警備体制の弛い町も近年稀なことだった。
「時代」に対するフォーレスの意識の低さが、図らずも彼女の拙い「戦い」の追い風になっていた。
――――宿屋「喜劇の表側」
「…風呂は使うかい?」
これもまた運が良いことに、町の宿はまだ戸を閉めてはいなかった。
いくら山育ちで体力に自信のあるリーザでも、ろくな休憩も取らず一日中森の中を駆けずり回り、あまつさえ崖登りのような真似をさせられてはさすがに疲労も頂点に達していた。
「余りものしかないけど、後で部屋に温かいものを持っていくよ。」
彼女のボロボロの身形を見た主人は勘違いしたらしく、いやに親切だった。
「色々あるかもしれないけどまだ若いんだ。頑張るんだよ。」
温かい食事と温かい寝床。今の彼女にとって、これ以上にない最上のサービスだった。
「…ありがとうございます。」
どうにかこうにかリーザは掠れた声で礼を言葉にし、主人の好意を全て受け入れることにした。
混乱と不安はまだ彼女の心を好き勝手に切り刻んでいた。
涙は涸れているだけで、嗚咽は常に胸から零れ続けていた。
それでも前に進むことを考えていられるのは、想い人が今も生きているという事実が彼女を支えているからだった。
それだけが今の「少女」を支えていた。
「……」
全身の汚れを落とし、傷口を洗い、温かいものを口にしてベッドに入る。
少女はそれ以上何も考えることなく深い眠りに落ちていった。
「もしも怒られるようなことがないのなら、これを着ていきなさい。」
翌朝、宿屋の主人は宿を発とうとするリーザに、一着の洋服を用意していた。
「そんな。ここまでしてもらっていいんですか?」
「なに、ワシも若い頃は親方によく怒られてたからな。同情と言えば君は怒るかもしれないが…。そうだな、これはただの年寄りの気紛れと思ってくれないか。」
フォーレスのような小さな国では、親の収入だけでは生活が成り立たず、子どもが出稼ぎに駆り出されることは日常的なことだった。
その中には厳しい親もあり、ノルマを達成できない子に手を上げることも珍しくはなかった。
宿代こそ値引きはされなかったが、逆に上乗せさせられてもおかしくない程に、宿屋の主人は彼女を手厚く持て成してくれた。
温かすぎる親切心にのぼせ、リーザは橋を塞いでいた巨石のことが頭を過ったが、図々しすぎる自分に気付き、丁寧に礼をして彼女は宿を後にした。
…でも、結局、私一人じゃ解決できない。
チョピンさんたちと連絡を取る方法だってない。
この町で、誰か協力してくれる人を探さないと…。
「そこの女、止まれ!」
……それは、完全な不意打ちだった。
親切にされて、少し浮かれてた私がしでかしたミス。
そして、結果的に見出されたたった一つの救いだった。
「……」
自分のことを言われてることは百も承知だった。
もしもここで私が逃げだしたら、憲兵たちは次にあの宿屋の主人を責めるに違いない。
…そんなこと、今の私にできるはずもない。
野次馬が集まり始める中、金髪の少女は憲兵らによって「魔女」と宣言され、連行されていく。
「あんな普通の娘が魔女なのかい?」
「全く油断も隙もない」
「どうして私たちと同じ姿で生まれてくるんだろうね」
「ああ、見ているだけで気分が悪くなっちまうよ」
「どうしてこの平和な時代にあんな悪魔が生まれてくるのかわからないな」
「俺の親友はアイツの化け物に殺されたんだ」
「ああ、ギーア様は早くあんな奴らを根絶やしにすべきなんだよ」
「今、ここで首を刎ねてしまえばいいのに」
「あの時、ホルンの村ごと焼き払うべきだったんだよ」
「害虫が!」
……魔女……悪魔……化け物……虫……
取り巻く野次馬たちは思い思いの誹謗中傷を、少女の耳に届くか届かないかの声で囁き合っている。
無数の聞き取れない悪意は、不意に少女の胸を温めてくれたヒトの親切を瞬く間に貪り尽くす。
それでも囁きは少女の耳を舐り続ける。
喰い足りない闇が、彼女の中にある闇に溶けていく。
「私、昨日、あの子と話したんだけど、私、大丈夫なのかしら?」
憲兵の声で群がる彼らが道を開ける中、俯く少女はそんな声を聞きとった。
声のする方を見るとなるほど確かに見覚えのある顔だった。
「フォーリア、ありがとう…。」
「ヒッ!」
「……」
そうして返された花売りの小さな悲鳴は、傷だらけの魔女の胸に太いふとい杭を突き立てた。
フォーリア、「祈りを捧げます」。
…誰に、この祈りを届ければいいんだろう。
もしもここで私が祈りを口にしたら誰が聞き届けてくれるんだろう。
もう、「魔女」でもない私の『声』なんかが誰の心に響くんだろう。
「黙って付いてこい!」
「アッ!」
皮手袋を着けた男の人の拳は私の弱々しい膝を簡単に折った。
両手を縛られ、受け身もとれない私は芋虫のように地面に転がった。
「……」
石畳が、頂いたばかりの服をボロボロにした。
頬から流れる穢れた血が頂いた親切を紅く汚した。
…魔女であってもなくても私の目が映すものは変わらない。
見上げる私の瞳が、取り巻く彼らを映した。醜い、無数のヒトの目を。
特別な耳がなくたって、みんなが何を言ってるのか嫌と言うほどわかる。
聞こえてくる。
みんなが私の名前を呼んでる。
―――お前…、私を騙していたのか……
……違う。私、勘違いしてる。
みんなが醜いんじゃない。醜いものを見てるから、そんな目をしてるんだ。
あの日、塀の向こうから麻袋を被ったみんなを見る私も、きっと、こんな目をしてたんだ。
それが、私
それが、魔女
……
……
……
だんだんと誰の声も聞こえてこなくなって、そこにある顔の区別もつかなくなっていく。
「立てっ!」
…今の私は誰も呪えない。
もう、呪いたいとも思わない。
だって、終わりなんだもの。
気付かなかった私が悪いの。
これが、みんなを助ける唯一の方法だったのに。
気付かなかった私が悪いの。
あの人の言葉に甘えて、目を背けてた私が悪いの。
でも……、もういい。
私が悪いんだ。
――――私は、醜い化け物だから