―――シャンテが無人の館に到着する約2時間前、武闘大会闘技場
正装したオールバックの男がリング端から現れると、会場に充満していた熱気が俄かに火を帯び始めた。
リングの中央に立つと男は自慢のマイクを口元に運び、1000人の観客を魅了する声を会場に響き渡らせた。
「皆々様、大変長らくお待たせしました!遂に、遂に、この時がやって参りました!世界最強の男の決まる世紀の瞬間の幕開けであります!」
切り出しこそ凡庸なれど、この男が「司会」というただの黒子に甘んじることなどない。
「一億という人類の頂点。皆様はそれを想像したことがありますでしょうか?想像できたことがおありでしょうか?」
彼は、誰よりも近くでこの祭典の恐怖と感動を体感する。
それら全ての興奮を、見守る観衆と共有すること。それこそ彼の務めであり、彼の喜びなのだ。
「例え、この会場の全てが彼の敵になろうとも、彼が憐れに地を這うことなどないでしょう。…そう、彼は権力ではなくその拳で、その剣一つで人類を統べる力を手に入れた、この世にたった一人の“王”なのです!」
ゆえに彼の声は1000人を惹きつけ、1000人を代弁する術を手に入れることができた。
「彼が望めばその拳は人類を蹂躙し、滅ぼす可能性を秘めた悪魔の槍になることでしょう。ですがそれは一方で、私たち人類の敵となる全てを駆逐する聖なる剣にもなりうるのです。」
彼の話はしばしば現実を誇張しがちだ。
だが、それでも会場に集まった群衆が彼の話に唾を吐きかけることはない。
それどころか、まるで紙芝居を聞く子どものように彼の紡ぐ物語の一言一句に唾を飲み、耳を傾けている。
「しかし、どうでしょう。かたや祖国を愛し、独立へと導いた英雄。かたや世界の秩序のために己を捨てた暗殺者。」
彼は1000人のための言葉を語るのに1000の心を必要としない。
「この頑なな正義に準じる二人が私たちを混沌に突き落とす悪の王になりえるでしょうか?」
彼は”人間”という生き物の欲望の形を知ってしまったから。
「いいえ、断じてありえません!!彼らはこの大会においてでさえそれぞれの正義のために、何かを護るために戦っているのです!」
自分の命を誰よりも重んじる彼らにとって、「恐怖」や「暴力」が彼らの理性を奪う最強の麻薬であることを。
それに「正義」というラベルを貼ってしまえば彼らは進んでそれらを服用してくれることを。
「讃えましょう!語り継ぎましょう!この頂きを!最強の戦士に出会えたこの幸運を!」
1000人は非日常的な興奮に酔いしれ、彼の声に群がり、会場を満たす。
1000人の音色は「死」さえも祀り上げる。
ここにいる1000人は「正当だ」と。
そうして見事1000人を狂わせた男は、二人の戦士をリングに召喚する。
これが…、最後だ。
これで、最後にしなければ。
…あと、ほんの少しの間でいい。
私に太陽の加護を――――
ヒマワリのように色鮮やかな黄色のジャケットに身を包んだ男が観衆に薬物を撒き散らす中、黒い肌の男は彼の信じる神に誓いを立てていた。
彼の最後の敵が、ヒマワリの向こうに立っている。
白無垢に身を包んだ暗殺者は日陰、日向問わず陽炎のように朧げで、その輪郭を正確に捉えることができない。
名も無き暗殺集団の精鋭、「白き幻」のガルバーン。
彼の人を殺す身体能力、精神力は、集団の中でも群を抜いていた。
彼の標的は社会の表も裏も問わない。
そして、彼の仕事が完了すると標的の組織は例外なく崩壊し、組織に苦しめられていた人々を解放した。
実際に現場で彼の姿を見たという報告は一度もない。
あるのは彼の所属する組織から依頼者に向けた事後報告だけ。
であるにも拘わらず、「救済」を受けた人々は口裏を合わせたかのように彼の名を挙げる。
それだけ、救われた人々、救いを待つ人々の彼への期待と感謝は大きい。
対して黒い肌の男、「ブラキアの英雄」グルガは祖国からの信望こそ厚いものの、ブラキアという科学技術水準の低い途上国に生きる「原始的民族」、悪魔の色である「黒い肌をもつ民族」という偏見が彼の功績を不当に下げている。
さらに、彼が救ったのは血を分けた同胞だけ。そういう点でも彼を評価しない者は多い。
彼は救いに応じて大地を敵の血で満たしてきた。
いいや。
彼を目の前にして「悪魔」と悲鳴を上げ、絶命した人間の方が多いのかもしれない。
そういう事実を誇張し、偏見の目で見る者はこの闘技場でも大半を占めていた。
利害を求めた「期待」こそあれ、彼の勝利を心の底から願う者は数えるほどしかいなかった。
――――これまでは
先の準決勝で、彼は白人たちに根付いていた「ブラキアの英雄」への悪印象を一変させた。
「武器を持たず、野蛮な戦い方をする黒いアレはやはり悪魔の類なのかもしれない」
けれども、ジェスターの放った魔法に焼かれても、ものともしない彼を見て彼らの胸に衝撃が走った。
勝利した彼の神々しいまでの佇まいに彼らは認識を改めずにはいられなかった。
「人が悪魔に魂を売るようにアレもまた、その穢れた存在を懺悔し、神より洗礼を受けた聖なる悪魔なのかもしれない」
そう思わせてしまうほど、彼の見せた簡潔かつ劇的な勝利は人々を魅了した。
彼が自ら負った血の化粧を白人たちが「聖痕」ではないかと疑わせるほどに。
「それではクレニア国際大会、運命の最終決戦、開始でございます!」
たかがヒマワリの口から、有無を言わせない二人の決闘が告げられる。
寡黙な二人の戦士は、耳の潰れるような歓声の中でも静かにお互いを睨み合った。
一人は獣の血をユックリと全身に行き渡らせながら。
一人はこの世に存在しない白い影に全身を浸しながら。
やがて、質の異なる二つの静寂は互いの間合いを計りながら動き出す。
1000本の、ヒマワリ畑の上で。
……彼の攻撃の型がつかめない。
黒い獣は初めて対面する新しい生き物の動きを警戒していた。
一回戦、二回戦で彼の動きを見ていなかったわけではない。
しかし、そこでもやはり彼の姿は朧げで、肝心の一歩。注意すべき一手の瞬間を捉えることができなかった。
時に深海の潮流のようにゆったりと揺らめき、時に森に吹く風のように木々の間を素早く駆け抜ける彼の動きは似ているようでいて全く異なっていた。
繰り出す一撃は常に一瞬で、その一瞬がいつ繰り出されるのか。その予備動作が異なる動きによって絶妙に隠されていた。
ともすれば、彼が分身しているように周囲に錯覚させることもあった。
一撃々々が大ぶりな獣にとって、動きの読めない獲物を仕留めることはひどく難しいように思えた。
さらに彼の武器は神出鬼没で、相手に認識されるよりも早くその手足から出現させた。
現に、必殺の力を込めて放った拳や蹴りは一撃たりとも白い幻影を捉えられていない。
躱される瞬間に合わせて研ぎ澄まされた得物が獣の黒い肌を裂く。
成す術もなく、獣の足元にヌルヌルと赤い影が広がっていく。
それでも獣の闘志は鈍らない。
赤い影が確実に体力を奪っているはずなのに、その一撃々々には確信した勝利しか宿っていなかった。
「……なぜだ…」
今まで、白い影は目標を一撃ないしは一瞬で沈めてきた。
確かに例外も何度かあった。
だが、目の前の獣ほど彼に向かい続ける者がいた例は一度たりとない。
影は、見たことのない拳の姿に生まれて初めての困惑を覚え始めていた。
「キサマを殺すことは私の依頼にはない。」
困惑は混乱に変わり、知らぬ間に獣に呼び掛けていた。
ターゲットを説得したことなど今までに一度もなかった。その必要さえも感じなかった彼が初めて沈黙を破った。
「ただ敗北を受け入れればいい。それで…っ!?」
「……」
彼の二回りも大きい獣の、止まない猛攻に彼は言葉を詰まらせる。
獣の拳にはより一層強い覇気が宿り、捕食者の気配はますます強くなる。
「なぜだ。なぜ、お前はそうまでしてあの子を救おうとする。」
「……」
分かっていた。
この男が黒づくめと繋がっていることは。
私が連中の貴重な実験材料である以上、大会に参加する意欲を失くすことは都合が悪い。
今後の取り引きのためにも、私が優勝することもできれば避けたい。
法外な「ボーナス」と、表舞台に現れた暗殺者はそのための仕掛けなんだと。
だが、私はここで勝利する。
…この戦いで全てを終わらせるのだ。
全てを―――
あの子の瞼の裏ではまだあの戦争が続いている。
銃声が鳴り響き、炎と血が飛び交っている。
そして、あの子が最後に目にしたものも―――
……その全てを、全てを終わらせなければならない。
あの子のためにも…………そう、あの子のためにも。
気付けば、幻影は獣の首を落とす勢いで反撃していた。
そうしなければいけない気がした。
彼は初めて、任務ではなく本能に従って戦っていた。
彼の一撃々々は黒い獣を逃さない。
しかし、その全ては急所に届いていない。
彼の必殺の一撃は重厚な鎧をも貫く。
しかし今、その一撃は獣の薄皮一枚を裂くことしかできていない。
彼にはその理由が分かっていた。けれども、どうしてそんなことが可能なのか理解できなかった。
困惑の続く中、壊れた機械のように続く彼の拳を見ている内に、暗殺者は黒い獣への認識に誤りがあることに気付く。
多くの人間がそうであるように暗殺者もまた、彼の精神は祖国に命を捧げる「救世主」、「守護神」の類が主軸なのだと思っていた。
いや、実際に彼の取った行動はその通りだった。
だからこそ、その誤認に違和感を覚える者もいなかったのだ。
だが、違う。
本当の彼は戦いを怖れている。
いいや、戦いで生まれる犠牲者から目を背ける臆病者と言った方が正確なのかもしれない。
しかし、族長の息子として生まれてしまったがために、その特別な力を宿してしまったがために、彼は戦場を支配する獣でい続けなければならなかった。
太陽という神の育む大地に生きる命を護るために―――。
彼の周囲の人間も、彼が矛や盾をものともしない獣であることを心から望んだがために―――。
彼の立つ戦場はいつだって死体で溢れている。
彼はいつも、その頂点に立っている。
振り返ればそこには彼が屠った敵の死体で満たされている。
皆が、彼を見詰め、天を仰いでいる。
その光景が、堪らなく「嫌」なのだ。
戦場に立つ人間で、こう考える人間は少なくない。
そこで彼のようにそこに立つのを拒む者もいれば、護るもののためにと最期まで戦士であろうと割り切る者もいる。
彼は、言い渡された役目を終えたとみるや、早々に逃げた。
殺した者たちへの懺悔のつもりなのか。敵国の少女を連れて。
彼は人を殺して人を護る戦争よりも、誰も殺さない家族ごっこを選んだ。
「獣」の彼にはそれが限界だった。
だからこそ、彼はこんなにも一人の少女に執着しているのだ。
その家族がいつか自分を傷つけるかもしれないと気付いていても。
誰かを傷つけるより、自分を傷つけた方が何倍も気が楽だから。
これら全てはガルバーンという男の妄想にすぎない。
しかし、形は違えど彼もまた何かを護るために人を殺し続ける人生を歩む者の一人。
だからこそ行き着くことのできた同情だった。
だからこそ彼は獣に現実を突き付けずにはいられなかった。
たとえ、掛ける言葉が間違っていたとしても。
彼に本当の安息を与えずにはいられなかった。
「……その娘はもう、この世にはいない。」
彼の美しいまでに強い意志が、見ていられないほどに憐れに思えてしまったから。
そして男の狙い通り、その一言は岩よりも固い拳を持つ黒い獣に寒気と怒り、あらゆる天変地異を与えた。
「せめて、天でも同じ大地が踏めるよう、この場でお前を殺してやろう。」
白い影は黒い獣の動きが鈍った瞬間に、持ちうる限りの力で反撃にかかった。
空気中の結晶化させた水分で獣の全身を覆い、放電する吐息を放って五感を奪った。
神経麻痺を引き起こす薬液を吹きかけて全身の自由を奪い、鉄をも切り裂く鎌鼬で包み込んだ。
…これで、彼は痛みを覚えるよりも早く逝くだろう。
男は胸の内で彼への祈りを捧げた。
しかし、それは影の想いとは裏腹に、黒い獣を望まぬ方向へと成長させることしかできなかった。
渦巻くギロチンの中で、黒い獣は奮えた。
彼の中で渦巻いた天変地異が太陽さえも怖れる力となって吼えた。
空気が震え、闘技場に居合わせた生き物全てに強烈な眩暈を覚えさせた。
人も獣も虫もそして、影も。
次の瞬間、白い影を纏った男の視界に映ったのは隕石だった。
視界を埋め尽くす黒い、黒い拳。それがマグマのような熱を放ちながら彼の顔面に深く、深く沈んだ。
何度も、何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も……。
戦闘の天才であるがゆえに、男は咄嗟に隕石の衝撃を逃がす魔法を自分に掛けた。
しかし、この局面でそれは完全な悪手でしかなかった。
彼の拳をまともに受けて生き長らえる苦痛に比べたなら……。
やがて、天変地異は過ぎ去り、前日と同じ彼のための静寂が会場に降り立つ。
彼の前には、辛うじて息のある白装束の人間が倒れている。
顔は歪み、手足は吹き飛んでいた。
それでも「魔法」は彼を生かしていた。
たとえ意識を取り戻したところで、ソレが「人間」として回復する保証は限りなく低い。
それでも、「魔法」は彼を生かしていた。
正義が正義を殺戮する光景。
その「大会」の域を超えたシチュエーションに、さしものヒマワリも言葉を取り戻すのに多くの時間を要してしまった。
黒い獣は、自分の内で起こった混乱から回復することができずに立ち尽くしている。
会場の誰一人として、”人類の頂点”を祝福することができないでいた。
「……申し訳ありません。大会運営者としてあるまじき体たらくですが。私はこの状況をどう説明したら良いものか。未だに全てを把握できていません。ですが…、」
ヒマワリは頭を振り、自分の撒いた物語を取り戻そうと必死に藻掻いた。
「ですが、今、我々の目に映っているものこそ確かな答えです!その雄々しい両足で立ち、敗者を見下す彼こそが、グルガ・ヴェイド・ブラキールこそが今大会の、我々一億人の頂点に立つ男であります!!」
それでも、彼の現実離れした物語を求めてやってきたはずの観衆たちは、ヒマワリの歌にいまいち反応することができないでいた。
パラパラとしか鳴らない拍手に、キャッチ―・マママンは職人としての最後の意地を見せる。
「私たちは今、間違いなく今世紀最大の奇跡に立ち会っていることでしょう。私自身、これほどまでに苛烈な戦いは初めて目にしました。ですが…、皆さまも感じたはずです。グルガ選手に美しい黒き光が宿った瞬間を!…彼にはまたいつの日か戦場に立つ日が訪れることでしょう。私たちの世界を脅かす悪を退けるために。世界を護る聖戦のために!」
マママンの改宗を求めるような演説に会場の空気は少しずつ変化していく。
「だからこそ、今の我々にできることをすべきではないでしょうか。この奇跡に、我々の”王”の誕生に祝福を捧げるべきではないでしょうか!?」
「……グルガ、」
「グルガ…グルガ……」
すると、パラパラ、パラパラと実感のない拍手の中に、かの獣を呼ぶ風が舞い始める。
死を冒涜するものはそのチャンスを逃さなかった。
「我々の未来を光り輝かせるグルガ・ヴェイド・ブラキールの拳に聖なる声を!!」
「オオォォ…、オォオオオォ……、」
「黒き王の未来に栄光を!!」
「…オオォォォオオオォオォォォ!!」
たちまち、人々の中にあった彼への畏怖は溢れ出る興奮に埋もれ、会場は鳴り止まないスコールで吹き荒れた。
この狂おしい喝采の中でも、それでも獣は沈黙のまま、佇んでいた。
「……」
愛する者の名も忘れ、ただ一匹で立ち尽くしていた。
―――シャンテが無人の館に到着する約30分前、闘技場前
立ち尽くすグルガの姿を認めたマママンは、今の彼に真面な授与式は難しいと踏み、「激しい戦闘の疲れ」を言い訳に大会の進行を大幅に削った。
グルガは簡単な手続きを済ませた後、早々に解放された。
すると、
「グルガさん!!」
闘技場を出ると、息を切らせた一人の若者が彼に駆け寄ってきた。
「グルガさん、大変なんです!!」
若者は彼の泊まっている宿の下働きだった。
彼の置かれた状況、若者の現れたタイミング。
それだけで彼にはその意味が十分に伝わった。若者の言葉を聞く必要もなく。
そして彼は、そこに僅かな希望を見出してしまった。
彼は若者を押し退け、あの子の待つ宿へと駆け出す。なりふり構わず。
娘の待つ場所へ。
――――シャンテが無人の館に到着する約20分前、カジキ亭
「……エレナは…、エレナはどこに!?」
宿に入るなり、彼は荒らされた現状の説明を求めるよりも先に少女の名前を叫んだ。
「……グルガ、すまない。」
憤りと焦燥で綯い交ぜになった彼の耳に、ようやく入ってきたのはカジキ亭の主人の声だった。
「…教えてくれ。エレナは、娘はどこにいる!?」
グルガは負傷している主人の肩を思い切り揺さぶり、問い詰めた。
その剣幕に同情したガーレッジは、彼を責めることができなくなってしまった。
息を詰まらせながら、求められるままに答えることしか。
「…無人の館だ。黒づくめの男たちが――おいっ!?」
何も聞きたくない。
聞いたところで後悔しか浮かばない。
どうして私はあの子を一人残してしまったんだ。
ここは連中の庭だぞ?
どうしてだ?どうしてだ?
あの子の幸せを心の底から願うはずが、どうして私はいつもあの子を不幸にすることしかしないんだ。
どうして私にはその力がないんだ。
彼は駆け抜けた。
彼の目に森や岩場に潜む化け物たちの姿は映らなかった。
自分を罵り、少女の名を叫び、生温い血を浴びながらただただ走り続けた。
そして――――、
―――シャンテが無人の館に到着したおおよそ10分後、無人の館前
そこに、夜の闇よりも黒い一匹の悪魔が立っていた。
周囲の空気は彼の熱で揺らぎ、吐き出す息は煙のように立ち昇っているようにさえ見える。
ともすれば地面が揺れていると錯覚させるほどに、彼から溢れ出る殺気は全てを震え上がらせた。
「エレナは…、どこだ……」
「残念だが、グルガ殿。我々の出した条件を破り、この女はここまで来てしまった。それがどういう意味か、貴方なら分かるだろう?」
リーダーが指示を出すまでもなく、黒服たちは彼の出現と同時にその象徴的なスーツを脱ぎ捨て、醜い裸体を曝していく。
「エレナは…、どこだ……」
「……あの戦争で生活が困難になった子どもが何人いるか…。グルガ殿、私の言いたいことが分かるか?この世にあの子の代わりなど吐いて捨てるほど―――っ!?」
次の瞬間、誰の目にも彼の姿は映らなかった。
彼の動きが素早かった訳じゃない。太陽のように強い熱が見る者の目を潰したのだ。
そして彼の姿を認めた時、彼らのリーダーの顔は吹き飛んでいた。
「オオォォォォォォォオオッ!!!」
悪魔は嵐のように迫り、たった一振りの拳で彼の頭を削り落としてしまっていた。
「オオォオオォォォオオッ!!!」
悪魔は迸る慟哭で空気を震わせ、敵の血を夕立のごとく全身に浴びていた。
黒服たちは不意を突かれながらも一斉に本性を現し、臆することなく悪魔に飛びかかった。
それはまるで炎に焼べられる薪のように。
悪魔の拳を紅く、さらに紅く染め上げていく。
その体は間違いなく、人の肉でできているはずなのに。
悪魔の体は敵の刃物を通さなかった。
小枝で岩を殴るかのように敵の剣を弾き、化け物たちを肉達磨に変えた。
悪魔は敵の魔法受け付けなかった。
迸る覇気がその悉くを打ち消し、その余波が魔法使いの精神を瞬く間に犯した。
その体は、一切の防御を必要としない。
ただただ一方的に拳を振るうだけで、次々に敵を沈黙させることができた。
ただただ哭き叫ぶだけで、全ての敵を地獄へと落とすことができた。
それは、誰の目から見ても「虐殺」の図に映るに違いない。
ライオンが馬を狩るものとも違う。
ゾウがアリを踏みつぶすものとも違う。
それは、武器を手にした人間にだけ現れる絶対的「力」での蹂躙に他ならなかった。
アタシの目でさえ、ついぞ彼を完全な「正義」と認めることができないほどに、それは凄惨な光景だった。
その悪夢のような絵面は1分と続かなかった。
それでもアタシの心には拭えない恐怖を植え付けた。
30人近くいた化け物たちは全員、血の海に顔を埋め、溺れ死んでいた。
「オオォォォオオォォオオォォォ……」
殺し尽くした悪魔は膝から崩れ落ち、顔を覆って呻いていた。
その非現実的な光景にアタシは彼に声を掛けることも忘れ、呆然と立ち尽くしてしまっていた。