――――クレニア闘技場、係員控室
そこには十数人の黒づくめの男たちがいた。
彼らは各々に任された作戦の成果を報告し合っていた。
「予定よりも随分と遅れたようだが、何かあったのか?」
「アルディアの支部が潰された。その後始末をしていたのだ。」
一人の報告が半数の男たちをザワつかせた。
「アークか?」
「そうだ。あとエルクもだ。」
「”エルク”というと、ボスのお気に入りのことか。」
「ああ。」
「その実験体は?今度こそ捕えたんだろうな?」
「いいや、今一歩のところでアークに持っていかれてしまった。」
アルディアから飛んできたという半数を代表する男が淡々と答え続ける様子に、クレニアに駐留していた半数の内の一人が堪らずに異論を唱えた。
「解せん。アークならいざ知らず、実験体ごときに遅れをとるボスではないはず。あの方はわざと”家”を潰したんじゃないのか?」
しかし彼も、彼を含む全ての黒づくめたちも、それがどれだけ無意味なことなのか。よくよく理解していた。
それでも、彼らの中にはまだまだ不完全な者が多く、彼らの中に残る「人間の部分」が反発を覚えずにはいられないのだ。
それを、アルディア側の男は言い方を変え、問いただした。
「疑っているのか?あの方を。」
「……いいや、なんでもない。少し取り乱しただけだ。」
男はどうにか踏みとどまることができた。手遅れになる前に。
ボルサリーノを目深に被り、愚かな自分を律することに努めた。
ところがアルディアの男は、一度ボロを出してしまった彼を執拗に試してくる。
「あの方は常に最善を尽くしている。ご自身の快楽を満たすためにな。」
「分かっている!だからこそ俺たちはこんな余計な任務を負わされているんだ!」
愚かな男は持て余す『力』で頑丈な石壁を殴り、いくつかの石材を引き剥がした。
「疑念はない。だが、どうやら不満はあるらしい。」
「…当然だ。だが、俺たちにそれは許されてない。分かっている。分かっているからこそ、作戦は継続している。どうだ、これで満足か?」
「私はどうもしないさ。お前の好きにすればいい。お前の行動の一つひとつもまた、あの方を悦ばせるシナリオの一部というだけのことだ。」
それも分かっていた。
彼らのボスがあらゆる状況の変化に対応する天才であり、迫る苦境を娯楽へ、与えられる苦痛を快楽へと変えてしまう狂人であるということも。
「そして、私もそれを楽しんでいる。たとえ、この命が明日にでも切られるクズカードだったとしてもな。」
失敗も裏切りも、延々と切り続けるポーカーの1ゲームにすぎない。
「……クソッ!」
彼らは、たった一人のギャンブラーが手にした幾万の人形の一枚でしかない。
それ以上でも、それ以下でもない。
「その辺にしておけ。」
愚かな男を退がらせ、別のクレニア側の一人が作戦の対象だったアタッシュケースをアルディア側に渡した。
「これが今回の”船賃”だ。」
「…私は初めて手にするが、なるほど。たった一杯の血液でさえ、これほどの寒気を覚えさせられるものなのだな。」
中には二本の試験管が入っていた。
アルディアの男は何者かの血液で満たされたそれを目の前にかざすと、ソレから感じる異質な『力』に闘争本能を掻き立てられていた。
「それ一本でレベル3のキメラがおおよそ百体は造れる。…ヴィルマーがいればの話だがな。」
「問題ない。今はアレの代わりもいる。」
アルディアの男は試験管をケースにしまうと、現在、”家”全体が上げている成果と次に必要な材料を明記した書類をクレニア側に渡した。
「…フン、5年も経てば”天才”も”凡人”か。恐ろしい技術の進歩だな。」
「もはや我々は人間ではないからな。人間らの歩幅に合わせてやる必要もないというだけのことだ。」
「……確かに、任務は受理した。」
クレニアの男は受け取った書類を他の男たちに渡し、目を通すように指示する。
「それで、もう一つの任務は予定通り進んでいるのか?」
アルディアの男は疼く闘争心を鎮めるために懐から紙タバコを取り出し、火を点ける。
「手段は三年前と変わらない。だが今度こそ、”本体”をそちらに送ることができるはずだ。」
「そうか。」
煙を燻らせ、気持ちを落ち着けると、アルディアの男は静かに言葉を付け足した。
「『期待している』、あの方の言葉だ。」
それは彼らにとって、もっとも分かりやすい「最後通告」の形だった。
「……分かった。」
「あと、我々はもうしばらくここに滞在する。」
「…それも命令か?」
「当然だ。だが、気にする必要はない。お前たちを”監視する”という意味ではない。単に別の用事を済ませるだけだ。」
ここ、クレニア島で彼らが受け持つ任務以外の用。それは彼でなくてもすぐに予測することができた。
「”A”か?」
言い当てたクレニアの男に対し、アルディアの男は口の中に溜めた煙を飲み、不敵な笑みを浮かべて答えた。
「ああ、そうだ。動くなら今だろうというのがあの方の考えだ。」
笑う男の肌が、薄く灰色に変色していた。
「…くれぐれもこちらの邪魔はしてくれるなよ。」
「そうだな。気を付けよう。」
笑みを浮かべたまま部屋を後にするアルディアたちの背中を、クレニアの男は憎らしげに見つめ続けていた。
――――クレニア闘技場、リング
スーツに蝶ネクタイ、髪の毛をポマードでガッチリ撫で付けた男は、リングの中央に立つとマイクを片手に深々と頭を下げた。
「皆様、大変長らくお待たせしました。第3回クレニア国際武闘大会、準決勝、まもなく開始いたします。」
男が宣言すると、割れるような歓声がそれに続いた。
「司会進行は引き続き、”マイクとハンドルをこよなく愛する男”ことキャッチャー・マママンがお送りいたします。」
…なんて独特なネーミングセンスなの。
私は知らなかったのだけれど、このMC、その筋では知らない人間がいないほどの有名人らしい。
裏表問わず、大きな格闘大会には必ずこの男が現れ、会場を沸かせるのだとか。
そして、死人の出る大会であっても一般の観客に不快な思いさせないその実況力から、血飛沫を花吹雪に変える”魔術師”とも、理性の”売人”とも呼ばれている。
「昨日の決闘をご覧になった皆様はすでにお気付きのことでしょう。今大会、かの剣闘士のメッカ、ニーデル武闘大会の歴史を見ても前例のない、怖ろしいほどの強者たちがここに集結しております。」
マママンの声は会場の隅々にまで行き渡り、どんな雑音もはねのけて観客席にまで届いていた。
「惜しくも一回戦で敗退した選手もしかり。見事勝ち残った選手4名は間違いなくこの世界の一端を担っていると言っても過言ではありません。」
「話し方」以上に「声」の出し方をよく知っている。
「聞こえる」というよりも、「聞き入ってしまう」声は何を言っても不思議と聞き手からの好感を集められる。
それをよくよく理解している風だった。
多分、歌手として活動してもそれなりに売れたんじゃないかとも思える。
そんな名司会者はこの大会を世界一の祭典にすべく、自慢の口上を次々に並べ立てていく。
「ある者は、”殺人鬼”と称されながらもその罪状を上回る悪を潰し、法の裁きをはねのける異例の賞金稼ぎ!ある者は各地の武闘大会において幾人の猛者をも捻じ伏せ、”はだかる巨人”の異名を欲しいままにする鋼鉄の戦士!またある者は、銃弾飛び交う戦場において一切の火器を持たず、それでも数百の敵兵を死体に変えた英雄という名の怪物!!そしてある者はこの国の、いえ、世界の悪を根絶せんとその身を白き闇に染めた正義の暗殺者!!」
それは一本の映画のように完璧なシナリオで語られていた。
弱い人間を唆す悪魔のように甘い果実で歌われていた。
最高の大会をつくるために……。
「これだけ名のある猛者を集め、彼らの力が衝突する様を見届けられる場所は世界広しと言えど、このクレニア闘技場をおいて他にあるでしょうか?」
いや、ない。
マママンも言っていた、問題を起こして運営を停止させられたニーデルの闘技場を除いて、世界中から実力者を掻き集められるだけの力を持っているのは、国際闘技場であることを認められたこのクレニア闘技場しかない。
そもそも「国際」と名の付く富と権力が土台にあるんだから、他と比べるのがそもそも間違ってるんだ。
「もしかすると彼らは人の皮を被った魔物なのかもしれません。だとするなら、ソレを討つのは誰なのか?それはもちろん、この大会を統べる者に他ありません!」
けれども、それらに酔わされた観客たちは些細な疑問に立ち止まるよりも、祭りの熱に当てられ、バカでいる方を選んでいた。
「なぜならここは本物の正義の集う場所。最後にリングに立つ者こそ絶対の勇者であり、彼が悪を見逃すことはないからです。我々はそれを知っている。その輝かしい光景を幾度となくこの目に焼き付けてきました。」
一息置くと、MCは膨らんだ風船に針を刺すように、最後のフレーズを歌いきる。
「今日もまた、”我々”という”正当な証人”が、それを、世界に一つしかない光景を見届けようじゃありませんか。そのためにこのクレニア闘技場はあるのです!そのために我々はいるのです!」
マママンの後に続く数百人の歓声はもはや天変地異に近かった。
たった一人の男の唇が、「人殺しは悪」というあって当然の倫理を遥か彼方へと吹き飛ばしてしまった。
それほどに人間は脆く、それほどに人間は恐ろしい生き物なんだ。
「それでは早速、このリングを彩る主役たちを召喚いたしましょう!」
悪魔のような男は白手袋を着けた手を高々と掲げ、死地へ登ってくる二人の男たちへのエールを誘った。
「北ゲートから入場してきましたのは、かのブラキア独立戦争で英雄となった戦いの申し子、グルガ・ヴェイド・ブラキール!」
それはまるで、大きな大きな、生きた黒曜石を見ているような気分だった。
衣類を剥ぎ取った彼の体はまるで丹念に焼いた炭のようにムラのない黒一色で塗り固められている。
そして、その体の上から下までを走る筋肉の波は、人の肉なのに刃物も通さない硬質的な張りを感じさせた。
鍛えて得られるものじゃない。
生まれながらに勝ち得た自然的なもののように感じた。
それこそ、神様に愛された人形であるかのような。
「対して、南ゲートから現れたのは世界の法を退け、己の法を執行する異端の賞金稼ぎジェナルド・エナ・バル・ブロンシア!」
通りで見かけた男がノシリ、ノシリと威圧的に現れた。
要所々々だけを紅い鎧で守った、ほとんど裸に近い出で立ちは自信の表れなんだろう。遠目からでも彼を殺そうという目付きが見て取れる。
……だけど、ハッキリ言ってアイツじゃ彼には勝てない。
あの男が普通の人間じゃないことくらい私にも分かる。
だけど彼みたいな本物には通用しない。チワワが熊に挑んでいるようなものだ。
筋力や技術面での強さじゃない。本質的な、生れながらに位置付けられた『力』の差が、二人の間にはある。
それだけ、彼の『力』が異質なんだ。
リングの中央に二人が揃うのを確認するとママンはまた、白手を高々と掲げ、最後の口上を吐く。
「英雄が殺し屋の首を奪るのか。賞金稼ぎがブラキア人を裁くのか。天はどちらの命を許すのでしょうか。我々はどちらの正義を見届けられるのでしょうか!」
……ブラキア人、白人の黒人への差別意識は未だに根強い。
クレニア島に、この闘技場には今、白人しかいない。
マママンの一言は、彼らの白人であることへの優越感を増長し、マママンの発言に寄せられる共感を強めていた。
…確かに、彼は有能であるようだ。
「さて、お喋りしか能のない男の出番はここまでのようです。後はリングが語ってくれるでしょう。彼らの拳や剣の一撃々々が我々の言葉になることでしょう。」
白い拳が天をさし――――、
「それではクレニア国際武闘大会、準決勝第一戦、グルガvsジェスター、開始です!!」
銅鑼を叩くかのように大きく振り下ろされた。
けれど……、
実力差がハッキリしているとはいえ、これは一般人のケンカじゃない。凄惨な光景が描かれるのは避けられない。
そういう期待を抱いた観客からの熱気を余所に、二人は睨み合ったまま動かない。
動けないんじゃない。
多分、二人の間ではまだ始まってないんだ。
二人の佇むリングに熱い視線と潮風だけが駆け抜けていく。
準決勝に相応しい、華々しい喝采に淀みを感じたマママンはすかさず合いの手を入れ、会場に新しい薪を焼べた。
「戦いは始まったというのに両者に動きはありません。ですが、それもそのはず。二人の実力はもはや達人の域さえも凌駕しているのです。例えるのなら、揺れるいくつもの巨大な鎌を避けて前へと進まなければならない。一歩タイミングを見誤った時点で彼らの勝敗は決してしまう。そういう状況なのです!」
観衆の間に広がっていた闘犬のような野蛮な戦いへの興奮が一変して、早撃ちのような息を飲む緊張感にすり替わっていた。
そんな外野の騒ぎなどお構いなく、リングに立つ二人は淡々と言葉を交わしていた。
「英雄グルガ。俺ぁ、この時をずっと待ってたぜ。」
「……」
「…最高だ。…この気分、どうやったらテメエにも伝わるんだろうな?」
「……」
「分かってるさ。俺だってバカじゃねえ。テメエに勝てねえことくらい百も承知だ。けどな…、テメエなら知ってるだろ?”殺し合い”に強さなんか関係ねえ。足腰の立たねえガキが伝説の勇者を殺す可能性だってあるんだ。……そういうのが好きなのさ、俺はな。」
紅い賞金稼ぎの顔には下卑た笑みが浮かんでいた。
唇からは涎が溢れ、目の焦点は次第に目の前にいる敵から、奥の方、奥の方へとズレていく。
「殺し合い」を強調するように大剣を握る腕が膨れ上がり、柄がギリギリと悲鳴を上げている。
「…それがお前の『力』を大きくしているのだろうが、過度の服用は身を滅ぼすぞ。」
「ヤメロ。今さら常識人ぶるなよ。ルールを守った人間がどれだけツマらねえもんか。テメエだって散々思い知っただろうが。え、ブラキア人よ?」
「……」
「黒人が奴隷扱いされる世の中に嫌気がさした。だから戦争で黙らせたんだろ?俺も同じさ。ルールを絶対だと過信してるクソみてえなヤツらを見てると吐き気がする。そんな時は仕事にかこつけて殺すのさ。」
さらに腕を太くした賞金稼ぎの『力』はとうとう刃を侵し、刃自身が小刻みに震え始めた。
「するとどうだ?気分爽快ってなもんよ。」
そうして、覗く白い歯は言葉を知らない赤ん坊のように本能的で、衝動的な何かを語っていた。
「俺は”俺”、テメエは”テメエ”。”平和”なんて頭の悪いルールは俺たちの人生に合わねえのさ。」
徐々に、兜の下の笑みに「一撃必殺」の殺意が混ざり始める。
「狂っているな。」
「ダハハ。さすがは底辺の人種と言われるだけあるな。いまいち俺の言葉が理解できてねえらしい。」
白人の上擦った殺意と笑みを含んだ言葉が、黒人の心臓を厭らしく舐め回す。
そして、戦いが始まって初めて、紅い男は黒い巨人に向かって一歩、踏み出した。
「狂ってる?もしもそれが俺の言葉に対するテメエの答えなら、テメエだって狂ってんだよ。あんなクソの臭いしかしねえ国のために命を投げ出そうってんだからな。」
「……何?」
「経済力もねえ。お宝が眠ってる訳でもねえ。見渡す限り抱く価値のねえブスばっかりだ。」
一歩、また一歩……。
「ほらな?ブラキアなんて国も、そこで生きてる連中も、俺たちが流したクソが溜まり溜まってできたようなもんだ。テメエは肥溜めのために死のうとしてるヤツを見てイカれてるとは思わねえのか?」
一歩、また一歩……。
「俺の言葉が気に喰わねえか?だろうな。だから戦争ってやつはなくならねえ。だから人殺しってのはいなくならねえ。だから俺たちは殺し合ってんのさ。」
何人もの人間を殺してきたチワワは熊を笑い、熊の「本性」を炙り出していた。
「皆、皆、狂ってんだよっ!」
――――奴の言う「ルール」は確かに感じていた。
だが、私はそれを覆すために戦ってきたんじゃない。
この拳は家族を護るためのもの。それ以上でも、それ以下でもない。
私が護るべき唯一のもの。
「……一つ、忠告しておこう。」
それを奴は今…、汚した。
「キサマのその鎧が私の拳を鈍らせるなど努々思わないことだ。」
「アッハハハッ!知ってるさ!裸一貫で戦車をぶっ壊しちまうブラキアの”化け物”は今や、世界的常識なんだぜ?知らなかったのか?」
この『力』は彼らの命を照らすためのもの。
私はそれ知っている。
血が彼らを悲しませないために。死が彼らを凍えさせないために。
「キサマにブラキアの光を見せてやろう。」
私が必ずキサマらを捻じ伏せてみせる。
「ククク、お手柔らかにな。」
黒い獣は腰を落とし、プロレスのような構えでジリジリとチワワに近寄った。
けれども先に仕掛けたのはチワワだった。
間合いの外とい意表を突いて、ジェスターはまさに音速とも光速とも思える速さでその剣を振り下ろした。
魔法で強化された剣はリングを深く抉り、周囲にダイナマイトのような爆風を巻き起こした。
獣は地面を蹴って飛んでくる剣線を躱すけれど、爆風に殴られ、吹き飛ばされていた。
「裁きだ、グルガ・ヴェイド・ブラキール!テメエのその排泄物みてえな血に神の雷をくれてやる!!」
ジェスターの掲げた右手に太陽にも劣らない光が生まれ、無数の矢が放たれる。
「グッ!」
矢は彼の周囲に降り注ぎ、逃げ場のない彼を貫いた。
矢は肉を焼き、臓を焦がす。
人の肉や臓では耐えられるはずもない。
そうして悶える黒い化け物の首を、高速の剣が刎ね飛ばす。
……はずだった。
「……どうなってやがんだ、テメエの体はよぉ!!」
対峙する男は理解できないでいた。理解できないことを楽しみ、笑いながら剣を振り下ろした。
けれど、次の瞬間にその剣がその『力』を発揮することは、なかった。
光の矢を受けた直後、高速で振り下ろす男の腕を、彼の黒く太い腕が掴んでいた。
魔法で『矢』を防いだわけじゃない。鎧の一枚ですら纏ってない。
だというのに……、
光の矢に射抜かれたはずの獣は立っていた。
血の一滴すら流すことなく、堂々と男の眼前に立ち、黒く鋭い両の目で敵を睨んでいた。
「この黒い肌には”太陽”が宿っている。俺たちを見守り、血を温める。」
「ゴオッ!?」
黒い獣は頭突きをくりだし、紅い兜を粉砕する。
額から流れる血は、黒い獣に化粧する。
「この血と肌は俺たちの誇りだ。」
かの戦場で「英雄」となった、あの化け物の姿に染めていく。
「アハ…、アッハハハッ!それでこそだ!それでこそだっ!!グルガ・ヴェイドブラキール!!」
頭のダメージで足腰が不安定になっていながらも、紅い賞金稼ぎはその大剣で獣の胸目掛けて鋭い突きを放つ。
けれども黒い獣は、速度の落ちたそれを片腕で易々と弾いてしまう。
その動きは賞金稼ぎのそれに遠く及ばない。
けれどもその拳は”人の裁き”を打ち砕き、男の全ての鎧を貫いた。
「グハッ!!」
二度目の重い一撃に悶えながらも、腐っても異名を持つ賞金稼ぎは「敵から距離をとって魔法を撃つ」という戦況を冷静に見る目を鈍らせなかった。
しかし、黒い猛獣はその「冷静さ」さえも逃がさない。
全身をバネにして繰り出した両の足は矢の如く、”審問官”の魔法が完成するよりも早く彼を射抜いた。
「グゥルガァァァ!!」
その瞬間を、”審問官”は瞬きすることなく見届けた。
「オゴォアァッ!!」
10メートル以上吹き飛ばされた”審問官”はリングの壁に激突し、そのまま動かなくなった。
彼はただ、人を殴り、蹴り飛ばしただけ。
洗練された戦い方をしたわけでもない。
それなのに、その数分の間で繰り広げた一匹の獣の猛攻は、見守るヒトの目に一つの神話を見せていた。
「黒い人」というハンデを背負いながら、光を味方につけ、光を操る殺人鬼を瞬く間に捻じ伏せてしまった。
「黒人が裁かれないはずがない」
彼に期待を寄せる人間でさえ、その思いはどこかにあった。
それなのに、現実は彼らを裏切った。
常識を打ち破る瞬間は彼らに覚えたことのない衝撃を与え、理解を追い付かせなかった。
そんな衝撃的な光景の中で、その男だけは自分の仕事へと立ち返ることができた。
「……勝者、グルガ!…最強の拳闘士グルガ!」
彼の言葉がなければ、黒い獣を讃える沈黙が永遠に続いたかもしれない。
「殺人鬼の偽りの裁きを退け、準決勝を見事勝利したのはブラキアの守護神、グルガ・ヴェイド・ブラキールであります!!」
たちまち響き渡る彼への称賛は、純粋に彼の勝利を祝福していた。
大金を賭けた者も、命を賭けた者も、そうでない者も。
彼の闘いは人を選ばず、見る者の心に眩いばかりの陽の光を降り注がせた。