――――自分の能力は把握している。
自分には何ができて何ができないか。それが「殺す」側に立つ人間の鉄則だからだ。
そして、俺は他人よりも多くのことができる。
周囲の変化に敏感な五感と、あらゆる状況で体勢を変えることのできる瞬発的筋力と柔軟性は自分でも異常だと思える。
自分の頭ですら追い付かず、理解できないできないこともある。
だが、できるのだ。
……それでも俺は正真正銘の人間だ。
赤い血を流し、人間と同じものを食べて生きている。
魔法を介さずに炎を操ることもなければ、他人の心を書き換えることもできない。
…だが、この力はどこから来るのだろうか。頭を悩ませる日もある。
――――影
答えの出せない俺は化け物染みた「力」をそう呼ぶことにした。
今もまた、自分自身の手で「影」を描こうとしている。
俺がその力を発揮する時は常に一瞬だ。
「人を殺すこと」だけを考えて、体は動き出す。
足が地を蹴ったかと思えば要塞のように感じていた紅い霧を苦もなく掻き分け、その勢いのまま法師を押し倒し、首を鷲掴みにする。
首を掴んだ腕に少し力を加えれば男は失神し、今まさに俺を殺すために襲い掛かってきた霧は散っていく。
描き終わるのに一秒と掛からない。
気絶した法師が意識を取り戻すのに待った時間の100分の1以下の時間。
俺は、この男が目を覚ますまで男の胸にナイフを突き付けながら、あの男の下で動いていた自分と、エルクを護ろうとしている自分の違いを存分に思い耽ることができた。
目を覚ました法師は口から血を吹きながら逸らすことのできない俺の視線に晒され、逃れられない敗北を受け入れていた。
「……暗殺、というほど…上品な殺し方…をしない、のだな。」
おそらく法師の目では俺の動きを捉えることすらできなかっただろう。抗えない力に蹂躙される感覚を人間の感情で忠実に再現することはできない。
コイツは今、平静を装いながら混乱しているのだ。
知識にない「化け物」が目の前にいるという事実を受け入れられずに。
「……キサマ、本当に人間か…?」
そんな奴らが時間をかけて現実と向き合った時に出る文句はいつだって決まっていた。
もはや聞き飽きたセリフだ。
俺はあの頃から今まで、同じ人間を殺し続けているんじゃないかと疑ってしまうくらいに。
今さらそれに対して言い返すつもりもなかった。だが、それは今の俺の機嫌をひどく損ねた。
「この状況でキサマがそれを知ってどうなる。」
数センチ、刃先を捻じりながら男の胸にナイフを沈める。
「……ク、ククッ、ククク…、なるほど確かにその通りかもしれん。だが、私に次の機会がないという保証もないではないか。その時…、キサマのことを肌で感じたことのある私は、今よりも上手くキサマを追い詰めることができるだろう。」
男は食い込む牙に顔を歪ませたかと思えば、不敵な笑みを浮かべ、さらに理性を欠いたセリフを並べ始めた。
正気を失いかけているのかもしれない。
俺は残った牙を全て男の胸の中に沈めた。即死させるつもりで。一気に。
「グゥッ!!」
成果はあった。痛みで我に返った男の目は真っ直ぐに俺の目へと向けられ、その顔からは不快な笑みが消えた。
「…どこで俺の情報を手に入れた。」
急所は外している。男の苦悶の表情は演技ではないが、1、2分なら会話を交わすことができるだろう。
俺は苛立ちを抑え、聞くべきことを聞いた。
「…ハァ、ハァ……、何の話だ。」
「……お前に残された命はもって2分。お前がこの戦場に立っていられるのも2分。……このままくたばるか?選べ。」
ナイフに込めた力を少し緩めれば、そこから男の血が溢れ出す。
それこそが男に植え付けられた悪魔の正体であるかのように。男が浮かべた笑みのように、不快な色を浮かべて俺を見遣る。
「………フ…、フ、フハハハ。…なるほど、『力』と引き換えに”ヒトの身体”を捨ててはみたものの、同じ状況に追い込まれれば心だけは卑しくもヒトに戻ってしまうものなのだな。…それが拭いきれぬ”ヒトの性”ということか。…否、これこそがヒトの本性なのかもしれんな。」
……この男、志願者だったのか。
望んで改造を受け、望んで人間の社会から足を踏み外した元人間。
キメラ化計画に希望を抱いた元、人間。
悪魔たちを根絶するために今も世界を立ち回るアークとは対極の存在。
「不正解だ。」
「グウゥッ!」
おそらくそれは「殉教者計画」とやらに繋がっているのだろう。
だが、今、聞きたいのはそんなことじゃない。俺はまた少し、刺したナイフを捻じる。
その時、男に答えを求める一方で、俺はこの男に妙な親近感を覚えていた。
ヒトを捨て、悪魔に使われてまで『力』を求める人間の姿。
それは、あの頃の自分の姿とひどく似ているように思えた。
これが、「戦場に流れる血」に潜む共通の悪魔の姿なのかもしれない。
もしかすると自覚がないだけで、俺もまた、この男と同じような顔をしているんじゃないのか?
この胸を刺せば、紫色の血がナイフを濡らすんじゃないのか?
「だが…、残念だったな。例え卑しいヒトの心に引き摺られようと、私は望んでこの道を選んだ。そこには選んだものにしかわかり得ない喜びがある。得も言われぬ快感がある。私はそれに従って死んでいく。それが私の戦争。…ククク、キサマはこれ以上に素晴らしいものを私に教えてくれるのか?だとすればキサマは彼ら以上のあく―――、ガハッ!?」
……殺すつもりはなかった。
生かして偽の情報を流させ、敵内部を混乱させるつもりだった。「俺たちは第二の”天敵”として動いている」とでも嘯けば敵の中枢に少しでも付け入る隙をつくることができるかもしれないと考えた。
だが、俺は不運にも人選を誤ってしまったらしい。
どうやら混乱してしまったのは俺の方なのだ。
俺はあの男とは違う。
俺は『影』であることに喜びを感じたことはない。
……だが、安息ならあったかもしれない。
自分に敵対する人間を一人、また一人消していくことで「自分の世界」を護るという使命を果たしていたのかもしれない。
どうあれ、この男は「昔の俺」をチラつかせた。
すると、あの子と向き合うことで目を背けてきた「影」がまた、俺の視界をほんの少し黒く染める。
そこでは俺以外の全ての人間がヒトの形をした化け物で、殺されるべき影なのだ。
目に映る表情も、耳に届く声も俺には目障りで、耳障りな――――。
俺はまたしばらくの間、ここで『影』との睨み合いをするはめになる。
俺は憎しみを込めて男を見下ろすが、男は間違いなく絶命していた。笑いながら。
……俺は、この男に望み通りの死を与えてしまったのだ。
あの子に手を出そうとした後悔を与えることもできずに。
俺は脱力した体を持ち上げ、また、走り始める。
法師から情報は引き出せなかったものの、俺は心のどこかでスメリアの「何でも屋」を疑っていた。
最後にアイツと交わした会話はいかにも人間味に溢れ、俺たちの距離は縮まったかのように感じられたが―――法師の意を汲むつもりではないが―――、人間であるからこそ、それこそが奴の喜びだったのかもしれない。
それら全てを楽しんでいたのかもしれない。
俺たちを死地へと送る手はずを整え、一方では俺たちとの僅かな親睦を深める遣り取りをする。
矛盾するような行為の中に身を置くことで、奴は快感を得ていたのかもしれない。
何も「法師」が例外な訳ではない。所詮、人間も他の生き物から見れば十分な化け物なのだ。
どんなことに人生を費やしていたとしても不思議じゃない。
……だが、そもそもペペを紹介したのはチョピンだ。
もしもこの作戦で俺たちがロマリア側に捕まるようなことになれば、まず間違いなく俺たちはキメラの実験材料になだろう。
ロマリアと敵対関係にあるアーク一味の一人がわざわざ敵に塩を贈るような真似をするのか?
……それともこれは老夫の手で一攫千金をふいにされたぺぺの細やかな意趣返しなのか?
もしくは、あのチョピンという男。アーク一味の中に潜伏するスパイという可能性は?
そこまで疑い始めると「国際的犯罪者」、「ロマリアの敵対勢力」を謳う「アーク一味」という看板すら世間の目を欺くための張りぼてのようにも思えてくる。
……やめよう。
今、手元にある少ない情報だけで考えても無駄に混乱するだけだ。
ペペ、アーク、チョピン、ゴーゲン……、奴らのことは警戒しておくべきだろうが、今は取り敢えず信用するしかない。
敵陣の中、閑散とした通路を直走る俺に降りかかる「妄想」と「不安」は、払っても払いきれない大きな火の粉は、平静を装うとする俺の胸をジリジリと焦がし続けた。
……静かだ。争った形跡はない。
引き返してきた貨物室の様子は、俺がチーズを求めて箱から飛び出した時のままだ。
彼女はまだ見つかってないのか?
それにどういう訳か。法師が倒されてもついぞ姿を見せず俺を監視し続けていた「視線」が忽然と姿を消した。
…そこにどんな意図がある。
俺に新たな疑惑を植え付けるつもりか?それとも単に監視する必要がなくなったのか?
振り返り、敵の気配、罠の有無を入念に探る。
……だが、そんなものはない。法師らを倒して以降、「視線」以外の敵意はなかった。脅威になるほどの罠もない。
俺たちは今、ほぼ敵から放棄されていると言ってもいい。
…なぜだ?
「……いやに早いね。…もしかして、ヤッちまったんじゃないだろうね?」
合図を送ると、別れた時と同じ姿の彼女が箱から顔を覗かせた。
「ああ。ここまで2人殺した。それに、ついさっきまで“監視”が付いていた。」
「……まったく、何のためにアタシが外れてやったと思ってんだ。しょうもないミスしやがって。」
だが、その「視線」は今、消えている。こんなにも無防備な彼女を残して……。
「必要な情報はおおかた手に入れた。予定外だが、ここからは自力でロマリアに向かうしかない。」
俺は彼女に、格納庫から戦闘機を奪う旨を伝えるとグルリと巻いていたマントを脱ぎ捨て、スクリと立ち上がる。
「いけそうか?」
固まった手足を解し、全身をグルリと見回すと彼女は笑いながら答えた。
「ああ、問題ないよ。いい加減、ここの臭いと寒さにはウンザリしてたんだ。」
その笑みはまるで、何も知らない彼女の方が奴らの手の内をよくよく理解しているようにも見えた。
……今さら彼女が俺を裏切るなどということは万が一にもありえない。
彼女は今でも心の奥底では俺たちを憎んでいる。不幸になれば良いとさえ思っているかもしれない。
だが、それでも彼女が今…、たった今、俺を裏切る可能性はゼロに等しい。
理由も根拠もないが、俺はそう信じていた。
二人で貨物室を抜け出した後も、「視線」は姿を見せず俺たちを野放しにし続けた。
だが、そのお陰で俺たちは敵や罠に捕まることもなく、すんなりと目的地にたどり着けた。
中からは複数の気配が感じて取れた。
「先に中の連中を始末する。」
シャンテを通路の隙間に隠し、俺は一人、通風孔から中に侵入する。
気配から察するに人間だ。……今はまだ。
「!?」
ダクトから中に侵入し、油断している警備員を背後から一人ひとり始末していく。
計8人。全員が純粋な人間だった。
そして、彼らの様子からは「侵入者」の存在すら知らされていないような印象を受けた。
庫内の殲滅を確認し、内側から扉を開けると、すでに彼女は扉の前で待っていた。
「さすがに人間相手だと仕事の手際も段違いだね。」
俺はその皮肉からほんの少し、「殺してやる」と喚き散らしていた頃の彼女の臭いを感じ取る。
様々な手段で殺した数人の遺体が目の前に横たわっているが、それについて触れることはなく、彼女は奥へ奥へと進んでいく。
「それで?どいつを拝借するんだい?」
どれとは言うが、格納庫に置かれた機体は一種類しかない。
「射出機に一番近いものをもらう。」
俺はロマリア兵から銃を奪りつつ指差し、簡潔に答えた。
「……皆殺しにしちまったみたいだけど、アンタ動かせるんだろうね?」
「問題ない。」
ロマリア製の機械の取り扱いは一通り把握している。
「俺はいつでも飛べるようにしておく。シャンテは他の機体にこれを仕掛けておいてくれ。」
そう言って手持ちの爆薬を全て彼女に渡した。
「…これっぽっちで残り全部を壊そうってのかい?」
「完全に破壊する必要はない。使い物にならなくなればそれで十分だ。」
それだけ言うと彼女はザッと庫内を見渡し、設置箇所を見繕うと、早速作業に取り掛かり始めた。
俺は奪う機体をカタパルトまで動かし、シャトルに前輪を固定する。
「そこまでだっ!!」
作業を始めて数分後、化け物ではなく銃を装備した人間の兵士たちが部屋になだれ込んできた。
「!?」
だが、あらかじめ気配を感じ取っていた俺は庫内に煙幕を張り巡らせ、敵の突入と同時に入り口に向かって威嚇射撃をする。
それらを無視し、自分の仕事を済ませたらしいシャンテは物陰を伝って俺の所まで戻ってきた。
「この次はどうすんだい、専門家さん?」
「機体の準備は終わっている。あとはハッチを開けるだけだ。」
仕掛けてもらった爆薬のスイッチを入れ、敵の混乱を継続させる。彼女には先に搭乗してもらい、俺は一気にハッチの開閉レバーまで駆け出す。
「お、おのれ!」
ようやくリーダーらしき男が理性を取り戻した時にはすでに、俺はレバーを動かし、機体に飛び乗っていた。
……おかしい。
法師の言動から、敵は俺たちの素性を特定しているはずだ。
ならば、人間の兵士じゃ役不足だということくらい初めから分かっているだろうに。なぜ同じ数の化け物を用意しない。なぜ兵士に俺たちの情報を伝えない。
……俺たちをわざと逃がそうとしているのか?
なぜだ?
俺はまだ敵内部の事情を把握していない。
勝手に、悪魔たちは一致団結して世界を牛耳ろうとしているものだと思っていた。
だがもしかすると、そうではないのかもしれない。
ここにいる兵がどの悪魔のものなのかまでは分からないが、コイツらのボスは「俺たち」という火種をロマリアに招き入れようとしているんじゃないか?
おそらくは、「ガルアーノ」という主力の一角を崩させるために。
悪魔たちの中で静かに繰り広げられる勢力争いを制するために。
俺が把握している中で、ロマリアを操る主犯格はガルアーノを含めて4人しかいない。
スメリアの最高権力を握るアンデル・ヴィト・スキア。
公に姿を見せないガイデル王に代わるロマリアの顔、ザルバド・グルニカ・トンガスタ。
そして、彼らを統べるロマリア王、ガイデル・キリア・ク・ロマーリア8世。
その内のどれかが……。
いいや、ガルアーノやアンデルがロマリアの外で動いている以上、世界中の権力者を疑うべきだ。
……ならば、ミルマーナ国の元帥がその筆頭に立つだろう。
もともとは温厚な農耕民で知られていた彼らが今では近隣諸国への侵攻と虐殺を繰り返し、軍事面への強化に余念がない。
その中心にいるのがヤグン・デル・カ・トルという男。
国家元首を退け、ミルマーナの実権を握る男がロマリア出身であるというのなら、それはもはや悪魔連中の一匹として断定してしまってもいいだろう。
奇しくも、ロマリアに在籍していると言われる将軍も4人だ。
ガルアーノ、アンデル、ザルバド、ヤグン……。
もちろん他にもいる可能性はおおいにある。そう思えるほどに、世界は悪魔たちの臭いで蔓延している。
だが、おおよそこの4人がこの境界のない戦争の首謀者に違いない。
「!?」
操縦桿を握り敵の背景を推察していた刹那、予想だにしない事が起こった。
離陸までもう10秒と掛からない。外との気圧差で艦内は風が荒れ狂い、敵の足元を掬っている。
脱出はもはや確実と踏み、俺は油断してしまったんだ。
ソイツは的確にそこを突いてきた。
「シャンテ!!」
「あ、ああ……」
あの時、俺を襲わず姿を消した「視線」たちが突如、格納庫の天井裏から姿を現し、コックピットに張り付くと、鋭い爪を突き立ててきた。
爪はコックピットの窓を突き破り、シャンテの左半身を抉る。
武装した人間はヤツらの気配を消すための囮だったんだ。
俺の警戒心を鈍らせ、彼女の耳を誤魔化すための。
「チィッ!」
即座に応戦しようとする俺の体を、シートベルトが邪魔をする。
致死レベルの一撃を受けた彼女はすでに失神していた。さらに、彼女のベルトまでも切断されてしまう。
自分のベルトを引き千切り、一匹を撃退するが、今度は風が「視線」の味方をし、俺たちをコックピットから引き剥がしにかかる。
加えて、次の瞬間にはシャトルが時速200km以上の速度で機体を押し出してしまう。もう止まらない。
……無理だ。
両足で操縦桿を握り、片手で自分を、片手で彼女を押さえる。
無理だ。
もう止まらない。
……こんなところで死んでしまっていいのか?
一瞬の迷いを、風が笑った。
小指の欠けた左手から、彼女が奪われていく。
「シャンテーーーーっ!!」
失神した彼女は一瞬にして遠ざかり、人形のように真っ青な虚空の中へと吸い込まれていった。
俺はただただ叫び、左手を伸ばすことしかできなかった。