老夫は、その齢に比例するかのようにゆっくりと笑い、丁寧に息を整えて言う。
「……黒いの。お前さん、少し自分を見失っておりゃせんか?」
「何?」
薄く開いた老夫の瞳は輝きのない黒真珠のように濃い黒に覆われ、底が見えない。
「お前さんはおそらくその『炎』のために闘っておるのだろう?」
「……」
「ならば儂らに無駄に関わってどうする。『炎』の死期を早めるだけだと思わんか?それとも、お前さんはそこに必殺の一手を潜ませておるのか?」
「……」
「今までさぞ濃い影の中を歩いてきたのだろう。その目を見れば分かる。じゃがな――――、」
老夫は絡まる顎髭を丹念に梳かしながら、その白い瞳でもって俺の心を見透かす。
「儂らを相手にして何かを得ようなぞ努思わぬことじゃ。」
彼らは強い。一年以上、世界という強大な敵を相手にして生き延びていられる程に。
そんな彼らの「救済」を利用すれば、これ以上エルクを巻き込まずに目的を遂げることができるかもしれない。
老夫はそんな俺のしたたかさをを否定した。
「確かに、アンタたちは強い。俺が立ち入れば瞬く間に殺されるだろう。だが――――、」
「影」という人間は、俺と標的以外の誰の目にも映らない世界での命の遣り取りを何百回と繰り返してきた。
そして、奪ってきた命は全て、影よりも弱かった。
だが、今回は違う。
勝ち目のない遣り取りはしない。それが影のやり方で、あの男の教え。
だが今回ばかりは、その鉄則を無視せざる負えない。俺が、あの砂漠で立てた誓いを護り抜きたいのなら……。
「お前はあの子の何も知らない。そんな悪魔の囁きを聞く義理などない。」
俺の言葉を聞き届けると、老夫の瞳は蛇のように長い白眉の下にゆっくりと隠れていく。
そして、瞳の意志を受け継いだ唇が流暢に動き出す。
「お前さんの濃い”影”をもってしても盤上のキングを奪る可能性は万に一つもないぞい。」
「だからお前たちを利用するのさ。俺は何か間違ったことを言ってるか?」
「まあ待て。結論を急ぐでない。…だが、そうじゃな。お前さんの希望通り儂らが悪魔どもの始末をつけよう。その報酬と言ってはなんじゃが、この竜は儂に譲ってもらえんか?」
「なぜだ。」
「……その竜には少しばかりの縁があってのう。誰の手にも渡す訳にはいかんのじゃよ。」
そう答える老夫の、いっそう丁寧に髭を梳く手には優しさのようなものが垣間見えた。
「…そのために全てから手を引けと?」
「そうじゃな。」
「まだアンタたちが信用に足る人物かどうかも分からないのに?」
「まあ、老い先短いジジイの末期の頼みと思ってくれてもかまわん。」
今この局面で俺に許された選択肢はそう多くない。
この老夫の話を聞き入れるか。逆らい、返り討ちに遭うか。砂漠の少年から「影」を隠してきたようにこの老夫を騙すか。
全てを投げ出す選択肢だけは絶対にありえない。舌を引き抜かれようと。全身を串刺しにされようと。
「……友人の命がかかっている。もって7日だ。それまでにガルアーノを消す必要がある。」
「ふむ、7日か。なるほど、ちと早いのう。」
……俺は老夫を誘導しているのか?それとも俺が老夫に誘導されているのか?
会話の着地点が見えるようで見えてこない。何なんだ。この無駄にも思える遣り取りは。
彼らは本当に俺たちを作戦の「障害」だと捉えているのか?
何か、他に企んでいることがあるはずだ。何か。
ロマリアに巣食う悪魔たちに反旗を翻そうとしている連中は少なくない。
言ってみればそういう連中全てが彼らの障害になりうる。
その全てを取り除くだけの暇も人手も彼らにはないはずだ。
しかしこの魔導師はその中から俺たちを選び、俺たちの前に現れた。
なぜだ。
たまたまペペ、もしくはゲニマイに関わったからか?
いいや、ペペのことを俺たちに勧めたのはチョピンだ。そして、ペペに竜退治の依頼をしたのはおそらくこのアーク一味だ。
だからこそ、この不自然な状況に納得がいかない。「俺たち」だからと思わざる負えない。
……いいや、違うな。俺はまだ、”アーク一味”と”レジスタンス”の関係。そして彼らの目的を正しく認識しきれていないだけだ。
ただ妨害するだけというのはあまりに芸がなく、消費するものも少なくない。ならば――――、
「アンタたちの邪魔する気はない。だから俺たちの邪魔もしてくれるな。」
俺の憶測する老夫たちの目論みは、俺たちにとってあまり喜ばしくない、あまりにリスクの高いもう一つの選択だった。
ナイフを抜き、老夫との遣り取りを打ち切るように横たわる黒い竜に歩み寄る。だがやはり、老夫は俺の行く手を遮った。
「お前さんがこの戦乱に飛び込めば、大事な『炎』はどうなる。いいや、『炎』は何をしでかすと思う。」
「……」
これ以上老夫の問答に付き合う訳にはいかない。
俺はただ可能性の高い道を選ぶだけだ。そのために竜の首にナイフを這わせ、筋を探した。
だが――――、
「回りくどい言い方をするじゃないか。結局アンタらはそれらしい会話でアタシらを騙して利用したいんだろ?」
成り行きを見ていた彼女が進んで老夫の罠に掛かろうとしていた。
「まあ、有り体に言ってしまえばそういうことじゃな。」
「……」
「理性」ではすでにこの場の最善の答えを出していた。彼女が俺の間違いを指摘し、道を示す前から。
だが、今の俺はそれを受け入れられない。
上官の命令に背く新兵のような葛藤が、音飛びするレコードのように俺の中で延々と繰り返されていた。
「だったらいいよ。アタシらはここで引き上げる。後はアンタらの好きなようにすればいいさ。」
「待て。勝手に――――」
その瞬間、彼女に反発しようとする俺の体が固まった。
いいや、「固まった」というよりは「掴まれている」と言った方が正しいかもしれない。そこには明確な他人の意思が感じられた。
彼女が差し伸べた「誘い」を見逃すまいとする醜男のような。
「ホッホッホ。”れでぃ”がこう言っとるんじゃ。お前さんも紳士なら紳士らしい聞き分けを持つべきじゃないか?」
その時、俺は『見えない手』を伸ばす老夫からあの紅い悪魔と同じ臭いを感じ取った。
「じゃが、お前さんの身内を護らんとせん強い意志を無下にするのも忍びない。」
彼女の機転に助けらた。そう思わざる負えない。
でなければ俺たちはもっと酷い条件を突き付けられたかもしれない。
「ならばどうじゃ。お互いの長所を活かし合うというのは。これこそ『人間らしい』解決法とは思わんか?」
……だが、これはもはや「運命」だった。
老夫の目に留まったことも。俺たちの「闘い」が長引くことも。
老夫は俺たちを取り込もうとしていた。”レジスタンス”という有象無象の中に。
紅い悪魔を率いる未知の軍勢、その戦の中に。
「…お前たちが、俺たちを利用する気か?」
間違いなく、”アーク一味”は他を寄せ付けない精鋭部隊だ。だが彼らの庇護下で行動している”レジスタンス”、これに所属しているのはおそらくそれ以下の連中、もしくは一般人だ。
だからこそ、人員の補填は彼らにとって常に優先される作戦なんだ。視野に入った人間は大小問わず“救済”という正義の贄にする。
それがアーク一味というテロリスト……この老夫と話しているとそう思えてしまう。
「嫌なら無理にとは言わん。じゃが、7日という期限を守れぬ儂らに竜をとられたお前さんにはもう道がないのじゃないか?」
「……」
操る者と操られる者。立場が違えばそれぞれに目指すゴールへの達成率が変わる。
同じ結果でも、費やすものが変わってくる。
そして、もはやこの立場は揺るがない。
どうにか老夫の『力』を振り解き、向き直りつつ左手を拳銃に伸ばす。
すると――――、
「いいじゃないか。協力してやんなよ。」
辛うじて味方であったはずの彼女が、完全に老夫の側に付いた。
「……この男を信用するつもりか?」
もしも、この場にいたのがあの青年ならその答えも受け入れられたかもしれない。だが、あの悪魔と同じ臭いを漂わせる老夫を、俺はどうしても信じることができなかった。
エルクを苦しませてきた『悪夢』たちを。
「落ち着きなよ。アタシがこんな気味の悪いジジイを信じてるわきゃないだろ?でも、アンタだって分かってるはずさ。アタシらは今、詰んでんだよ。」
老夫は笑っていた。……満足げに。
「首を縦に振らなきゃ、このジジイに何されるか分からない。もしもやり残したことが一つでも残ってるなら、ここは『yes』って言うしかないのさ。」
本人の前であろうと、いいや寧ろ、本人の前だからこそ彼女は手の内を隠そうとはしなかった。
「心配せんでもペペにはお前さんらの世話をするように言い含めておくわい。」
やはりあの男とも繋がっていたか。
だが、それは俺の思っていた関係とは少し違っているようだった。
老夫の口振りは“依頼主”というよりは“雇い主”に近い感じだった。
「さて、そっちの青髪のお嬢ちゃん。」
終わらせよう、終わらせようとする彼女の計らいを笑うかのように、老夫の唇は執拗に動き続ける。
「……なんだい。アタシにも何かお節介焼こうってのかい?」
彼女の『不死』が完全なものだということは俺も十分に理解している。
だが、偶然か否か。ついさっき、この老夫は「不老不死」を口にした。
そんな「魔導師」を前にしてその「理解」が同じように通じるかどうか俺には自信がなかった。
本人もそれを感じているのかもしれない。
彼女の声は必要以上に老夫を警戒していた。
「言っとくけどね、アタシゃ気の短さにだけは定評があるんだ。一言でも余計なこと言いやがったらその干し葡萄みたいな目ん玉を潰してやるよ。」
「ホッホッホ、まるで血の気の多い雄牛じゃな。」
「喧嘩っぱやい女は嫌いかい?」
「いいや、大好物よ。」
杖に預けた顎がパカリと開き、老夫は般若のように笑った。
「…フン、ジイさん。アンタ、そこいらの悪党よりもよっぽど悪党って面してるよ。」
悪態を吐き強がってはいるが、彼女の腕に薄っすらと鳥肌が立っているのが見てとれた。
「ホッホッホ。お嬢ちゃん、悪党はお互い様よ。」
「…アタシが?何を根拠に言ってんだい。」
「鏡を見てみい。この老いぼれと同じ面をしとるぞ。」
「アタシゃまだ23だよ。アンタのそのクソの掃き溜めみたいは皺なんざ一本だってないってのに。いったいどこが似てるって言うのさ。」
「ホッホッホ、鏡を見て外面しか見れんようじゃあ確かにまだまだ小娘じゃのう。」
「何が言いたいのさ。だったらアンタには何が見えてるっていうんだい。」
争えば勝敗は目に見えている。それでも彼女の「負けん気」が邪魔をし、鳥肌を増々目立たせている。老夫に向ける彼女の目には鬼気迫る光が宿り始めていた。
「全てじゃよ。鏡は意思を持たぬこの世で最も純粋な瞳。過去も未来も、表も裏も鏡は包み隠さず映してくれる。お前さんが目を背けたいものも。お前さんが自覚していないものも。何もかもじゃ。」
「目を背けたいもの」その言葉は彼女の逆鱗を分かり易く刺激しようと手を伸ばしていた。
だが俺の予想とは裏腹に、彼女はいたって冷静に厭らしい老夫の問いに答えた。
「そうやってわざと心を掻き乱して何か吹き込もうって腹かい?その手にゃ乗らないよ、くそジジイ。」
歩み寄り、老夫の小さな額に彼女の細くしなやかな指先が触れる。
「だけど、オモシロそうじゃないか。アンタの『悪』とアタシの『悪』、どっちが上か。今ここでハッキリさせてやるよ。」
老夫はされるがまま動かなかった。
もしもここで老夫を死なせたら間違いなく俺たちはアークと敵対関係に陥る。そうなれば、あそこに置いてきたエルクもタダではすまない。
それでも俺は、動かなかった。どうしてだか分からない。
……何も起らない。それが分かっていたからだろうか。
「……ジジイ、テメエ、本当に人間か?」
どうやら彼女の『力』は正常に発動したらしい。
だが俺も、老夫も何の影響も受けていない。竜の命を一瞬で奪うことのできる『力』が、100余年という時の渦に全て飲まれてしまったのだ。
「何も起こらない」という事態を予想していなかったらしい。放心状態の彼女の瞳は「老夫」という未知の「命」に魅入られていた。
100才の枯れ枝は、添えられた女の手を取り、娼婦を愛でるように撫でまわしている。
「どうかのう。自分が何者か。そんなこと、もうとっくの昔に忘れてしもうたわい。」
ひび割れた老夫の肌が彼女の正気を取り戻した。彼女は老夫に掴まれた手を引っ込め、一歩、二歩と後退る。
顔が、青ざめている。
「どんな時も『命』が、『力』が万能であるということはない。これに依存して無闇やたらに死地に飛び込もうとする癖はなくすことじゃな。」
「……」
あの施設でも、同じ経験をしたのかもしれない。老夫を見詰めるシャンテの目は―――俺と同じように―――悪魔を見る目付きへと変わっていった。
「これこれ、そう険しい顔をするもんじゃない。せっかくの美人が台無しじゃぞい。」
「……ツラが良くて得することなんざたかが知れてるんだよ。」
微かに震える女の握り拳を見遣り一つ溜め息を吐くと、老夫は重い腰を持ち上げ、俺に近付く。
そして今度はその賤しい細腕を俺へと伸ばしてくる。
「何を……」
枯れ枝から逃れようとすると、彼女の目が「逆らうな」と囁いた。
……あの彼女が。
ソッと掴む老夫の手の平はいやに冷たく、鋭利な刃物のように俺の腕に深く食い込んだ。非力なはずの老夫の腕に引き寄せられ、俺は老夫に耳を貸すような体勢になる。
そして老夫は俺の耳元で、こう囁いた。
「これは”聖戦”じゃよ。生き残るべきは人か、悪魔かのな。」
俺が”救済”と名付けた彼らの目的を、老夫はそう言い換えた。
「…お前はどっち側の人間だ。」
彼女の言葉を真似るように、俺は老夫の正体を探った。だが――――、
ホッホッホ
老夫はソッと俺の腕を放すと不気味に笑うだけ。
「ホッホッホ。お前さんのその暗く鋭い瞳には儂が何者に見えるのか?」
横たわる竜に手を添え、また笑う。笑い声に呼ばれ、何処からともなく現れた炎が竜を包んでいく。
「……」
「それが答えじゃよ。」
竜を包む炎の色を見た俺はまた、一人残してきた少年の顔を思い出す。
悪魔の顔を持ち、あの子と同じ色の炎を操る男。
できることなら、この場でこの老夫を撃ち殺したかった。あの子を穢すような存在に、俺は込み上げる腹立たしさを覚えた。
「まあ、長い付き合いにはなるまい。それまでの辛抱じゃて。」
老夫の卓越した観察眼が、ポーカーフェイスを保つ俺から自身に向けられた嫌悪を見抜いたらしい。
それ以上の無駄話をすることはなく、幾つかの情報を俺たちに提供すると老夫は煙のように忽然と姿を消してしまった。
これこそが「力」だと見せつけるように。