………微かに漂うすえた臭い……、踊る土煙…、横風に煽られて鳴くススキ…、そして、青い髪の女。
それが、辛うじて見えるもの、臭うもの、聞こえるものの全てだった。
「……生きているのか?」
やがて、五感が雪解け水のようにジワリジワリと世界に染み渡り、今置かれている状況を静かに、静かに囁き始める。
平野…、スメリアの、ラウス。…太陽は…、昼中頃。
……寒い。全身に気怠さが残っている。折れた右中指が脳に鈍い痛みを訴え続けている。……思うように頭が働かない。
……そうだ。竜は…、どこだ?
ようやくここにいる理由を思い出し、凍える手足でどうにか起き上がる。
……あの竜が巻き上げた土煙がまだ残っている。気を失ってから大して時間は経過していないということか。
それにしても……、この臭いは何だ?
それは本当に僅かな異臭だった。だがそれは俺が意識を失う前には間違いなくなかったもの。この異常事態が呼び寄せた何かだった。
臭いは土煙の中に続いていた。
「……これは、どういうことだ?」
臭いに導かれ、フラフラと煙の中へ進むとそこには巨大な白い竜がいた。それは、黒点の落ちた着弾点から10m程離れた所で横たわり、動かなくなっていた。
警戒しつつ竜の体に触れてみると、「微細な霜」にビッシリと覆われていることが分かった。竜は、火傷しそうなほどに冷え切っていた。
初冬とはいえ、まだ陽の高い昼日中。一粒の雪さえ降っていないにも拘わらず、巨大なトカゲは霜に飲まれ、凍死していた。
そして、腐っていた。
……状況が理解できない。
「……!?」
竜に触れたせいか。残っていた気力がまた、急速に乾いていく。「死」が雪崩のように押し寄せてくる。
気怠さが押し流され、静寂揺蕩う水面に浮かぶような「安らぎ」が俺を飲み込んでいく。
「…これも、お前の『力』か……。」
崩れ落ちる俺と入れ替わるように、彼女はヨロヨロと立ち上がった。
彼女に俺の求める問いに応える様子はない。満身創痍の様子で俺の下までやって来ると彼女は一言だけ、俺に命令した。
「…動くな、って言っただろ。」
ユックリと、倒れ込むように俺の頭を押さえ付け、強引に舌を捻じ込んでくる。
今度は抗わなかった。抗えなかった。全身が廃棄処分された鉄クズのように、頑なに俺の命令を拒み続けた。
彼女に魅力を感じていたのは間違いない。人として、女として。
それなのに、なぜだか、今のこの状況が俺には酷く不快でならなかった。
……俺は今、いったい何をされているんだ。
広い平野の直中で、竜に襲われ、死にかけ、女に押し倒されている。
エルクがこの場に居合わせていたとして、俺はアイツにこの状況を正しく説明することができないだろう。
水槽から取り出された魚のように、脳が水を求めて喘いでいた。
彼女の唇から送られてくる「水」だけが、俺の命を繋ぎ止めていた。
他人から強奪することで生き延びていた幼い頃とは対極に、与えられることで生き永らえている無様で無価値な俺が、そこにいた。
だが、その境界を越えると俺の世界は急速に整えられていく。
脱力していた身体が、みるみる回復していく。音も臭いも光も、『影』で培った全てが瑞々しく息を吹き返す。
……それでも、彼女が特殊な方法で治療していると理解してもなお、俺はこの行為に対し腹立たしさしか覚えない。
おおよそ1分間、その異様な治療は続いた。
「……もう、十分だ。どいてくれ。」
押し退ける彼女の体はまだグッタリとしていたが、俺は動き回っても平気なくらいまで回復していた。指の骨折を除けば、全快と言っても過言じゃない。
「アンタ…、斬るだの撃つだのには滅法強いけど、この手となるとからっきしなんだね。……ふふん、イイことを知ったよ。」
その弱々しい声量とは裏腹に、彼女の頭も手足もすでにキレイに『復元』されていた。
「…『力』はコントロールできないんじゃなかったのか?」
俺の耳は彼女の口が確かにそう言っていたのを憶えている。
『不死』が、心臓を巡る血のように常に彼女の『再生』を計り続けていることは理解できる。俺を回復させた『力』がその副産物だというのも納得できなくもない。
だが、瞬く間に竜を殺し、腐らせた『力』は何だ?
町で見せた、俺の五感を『制限』するどころのレベルじゃない。彼女は、満ち溢れる竜の生命力をアッと言う間に枯渇させてみせた。
……俺にもその影響が及んだということは、その『力』自体をコントロールできないのは確かなのだろう。
だがあの局面、あの瞬間、その『力』は竜を殺した。
偶然だと言い切るにはでき過ぎている。
仮に「命の危機」を切っ掛けに発動するのなら、彼女が”白い家”に囚われていた時にこそ、拷問を楽しもうとするガルアーノを苦しめたはず。
理屈に合っていない。
……単に俺が真実を知らないだけなのかもしれない。
だったら尚さら聞き出す必要がある。今の俺に「仲間」と呼べる相手は彼女しかいないのだから。
それでも、彼女は俺の問いに答えようとしない。
「さあね。」
…いいや、平静を装っているが、どこか混乱しているようにも見える。
ほんの少しだが、俺にも彼女の表情が読めるようになってきていた。
「……」
「なんだか、分かっちまったんだよ。天のお告げってやつなのかもしれないね。『ああ、アタシ今からなんかヤバいことをしようとしてる』。……なんか、分かっちまったんだ。」
「その『力』、ガルアーノには使わなかったのか?」
正直、ガルアーノがどれだけの『力』を秘めているのかは俺にも分からない。
だが、たった今対峙した竜は間違いなく千ないし二千の歩兵を軽く捻り潰せるだけの『力』を持っていた。
彼女の『力』はそれを上回っていた。……ならばガルアーノも彼女の『力』を警戒しないはずがない。
こんなにもアッサリと手放す矛盾がやはり俺を悩ませた。
だが、彼女はただただ俺の深読みを鼻で笑う。
「フン、疑り深いね。」
今まで、俺の回復を優先させていたのだろう。グッタリとし続けていた彼女は、話し始めて数分と経たない内に起き上がり、普段通りの気の強さを見せ始めた。
「それができてりゃ今頃アタシは戦争好きのクソどもに代わってアルディアの女王にでもなってただろうよ。」
体についた埃を払いながら、彼女は自分の『再生』の具合を確認する。
……傷一つない。多くの賞金稼ぎを屠った竜の強襲を受けていながら。彼女は自分のしぶとさを笑いつつ、その憎たらしい恩恵の数々に眉をしかめた。
「……ムカつく話さ。本当に殺したいヤツが傍にいる時には何にも起きやしない。逆に、アタシらを物扱いするヤツはアタシを抱いてどんどん元気になりやがる。…クソかよ。弟を殴るような連中を、アタシが生かしてきたんだ。」
身を売ってでも護ってきた。だというのに――――、
「なにさ。憐れんでるのかい?そういう態度もムカつくんだよ。」
「……すまない。」
「連中よりはマシな人間だと思ってるからこそ、こうして一緒に闘ってるんだ。そういうのはヤメにして欲しいもんだね。」
「……すまない。」
「それ以上謝るのもナシだ。それとも何かい?自分はその程度だって認めてるのかい?しょせん、アイツらと同類なんだって、認めちまうのかい?」
「俺は……」
「だとしたら話は変わってくるよね?」
『力』を問い詰めた仕返しか。矢継ぎ早に責め立ててくる。
だが、それが冗談だというのは殺気のない表情ですぐに分かった。
ただ…、何度目になるだろうか。どうやら彼女は俺を試しているらしかった。俺が彼女と一緒に闘う価値のある人間であるか、そうでないかを。
「……俺は、今でも人を殺すことが恐い。」
俺は彼女に打ち明けた。口にしたくもない「彼女の過去」を晒したのが俺ならば、俺は「俺の弱み」を明かすしかない。
今も俺を苦悩させ続け、しかし頼らざる負えないあの男のこと。そして、あの男が俺に刻み込んだ罪の証を。
ソイツは俺を暗殺者として育て、俺を『影』の中に押し込めた―――今も俺の傍にいて離れない―――もう一人の親のようなものだった。
「……」
揚げ足取りの彼女が相槌も疑問も投げかけてこなかった。何も言わず、ただただ話に耳を傾けていた。
促されるままに、俺は煙好きの義父と向き合った。
――――俺を取り囲む灰色の壁。俺を染める沢山の血。耳から離れることのない罵声と悲鳴、そして銃声。
……目を瞑らずとも、口にするだけでありありと蘇える。今の仕事場とさして変わらない環境。
幼い頃の記憶は「治安」や「家庭」とは程遠いもので埋め尽くされていた。
「ある日、俺が家に帰るとナイフを握り締めた男が血だらけの両親を踏みつけていた。だから俺も、男の背中をナイフで刺した。何度も、何度も……。俺の記憶はそこから始まっている。」
母が好きだった真っ白な絨毯に真っ赤な血が溜まり、父の好きだった白百合の絵は鮮やかに彩られていた。それを見て、俺の中で産声を上げる誰かがいたのを憶えている。
「男を殺した後、俺はしばらく、口を利かない両親を見下ろしていた。ただ、ボンヤリと、何時間も。その時、俺は知った。」
殺したところで誰も喜ばない。
だけど、殺されれば全てを奪われる。
思い出も、温もりも、美味い料理も、楽しい会話も。そして、愛していた絨毯も絵も。
「だが同時に、俺は殺して奪うことも覚えた。金とメシと服。殺して奪えば生き残ることができる。全てを失った俺にはそれで十分だった。」
だが、当時10歳になったばかりのガキ一人を、大人たちが自由にさせておくはずもない。
「ひと月と経たずに俺は憲兵に捕えられ、死刑が言い渡された。…それで良かったんだ。俺はすでに両親を奪われた身。ただ他人を殺しては貪るだけの獣だったんだ。」
だからこそ、処刑前日になっても未練など生まれなかった。
ところが――――、
「名も知らない男が俺の処刑を揉み消し、俺の身柄を引き取った。」
男は「少佐」とだけ呼ばれていた。
深緑の上着と燻んだ白のパンツの軍服に真っ黒なサングラス、人を見下すかのような太いカイゼル髭。そして、死肉を焼いたようなキツイ臭いの葉巻。
一般的な軍人の一人であるはずのソイツを一目見て、俺は確信した。「コイツは狂っている」と。
そして、それはその通りなのだと俺は身をもって知ることになる。
来る日も来る日も俺は男の異常な教育に付き合わされた。そうして男の知る限りの「人を殺す術」を身に付けた時、俺は男の”影”として戦争の裏舞台を駆け回っていた。
将校を殺し、政治家を殺し、時には男の趣味のために女子どもも殺した。
だが、それでも構わないと思っていた。
なぜなら、俺という人間は本来、もうこの世に存在していないからだ。
俺は「俺」という自我を放棄していた。
一つだけ、気に掛けていたのは男の提示した最後の課題をクリアしていないことだった。
「俺を殺してみろ。それができればキサマは合格だ。」
俺は隙を窺っては男にナイフを振りかざし、帰投の度に狙撃を試みた。
だが、男はその悉くを躱し、殺せなかった罰として俺を気絶するまで拷問にかけた。
ところがある日、任務から帰った俺は異変に気付いた。
……男が、いない。
何処を探しても、俺の帰るべき場所がなかった。
「殺されたのさ。任務中に擦れ違った浮浪者に刺されて。」
俺は信じられなかった。その程度の不意打ちを喰らうような男でないことは俺が誰よりも知っていた。
だが、何処を探しても、やはり男の姿は見当たらない。
飼い主のいなくなった俺はすぐに捨てられた。”影”だけが取り残され、放浪する毎日が始まった。男の残した技術さえあれば賞金稼ぎとして生きるのに苦労することはなかったが、気付けば、居場所のない不安は少しずつ俺を”少佐”のような男に仕立て始めていた。
仕事の中で、無駄な殺しをすることが多くなった。
そんなある日、俺の世界を転覆させる存在と出会ってしまう。
幽霊、そして白骨の傭兵。
話には聞いていた。知識としても持ち合わせていた。だが、直に触れ合ったそれは俺のやってきたことの全てを否定してしまうようなモノだった。
心臓のないモノが、憎悪や悲哀などの感情だけを持って俺に襲い掛かってくる。
気が付けば俺は持ち合わせていた火薬の全てでもって辺り一面を火の海にしていた。
それでも奴らは動き続けている。俺を殺すことだけを考え、向かってくる。
俺は生れて初めて、戦場から逃げ出した。逃げ延び、誰もいない場所で震えていた。
……「命に終わりはない」。
俺が理性を保ち、人を殺し続けていられたのはそこで一つの「作業」が完結すると信じていたからだ。
だが、真実は違った。
例え、それを宿す臓器が腐っても、肉を支える骨が分解されても、「感情」という方舟に乗ってヤツらは再びこの世に現れる。
俺は知るべきでないこの世のルールを知ってしまった。
俺が殺した人の数はすでに3桁にまで昇っていた。終わらせたと思っていたそれだけの感情が俺にぶつけられる……その光景を思い描いた時、俺は人を殺す罪の重さに気付いてしまった。
――――死をもって償う
これ以上に俺に相応しい言葉はない。死ぬのは怖くなかった。……それまでは。
彼らの存在を知った時、俺は”死”の恐怖を再認識してしまった。
それは、遅れた思春期のように俺を必要以上に脅し続ける。いつまでも、いつまでも――――。どこに居ても”死”らは俺の傍にいる。
あの時、俺が免れたのは「死刑」という生きた人間たちがもたらす刑罰だけ。俺は今もあの処刑台に立たされ、「死刑」よりも重い罰を受け続けているのだ。
俺が殺した全ての「死者」の手によって。
「殺すことでしか生き方を知らない俺は、今度はそれらから逃げる方法を探している。」
その一例として、俺は彼女に携帯用注射器をポーチから取り出してみせた。
「……どうして牧師になろうと思わなかったんだい?そうまでして、今も誰かを殺し続けて、アンタはどこに逃げようとしてるのさ。」
「……」
確かに初めは逃げていた。だが、今は違う。今は――――、
「……時間もない。今はこの辺にしておこう。」
俺は彼女を置き去りにして歩き始めた。今は一刻も早くペペの要求を満たさなければならない。バスコフやリゼッティ、そして……あの少年のためにも。
そのために、ここにいる。
それに、もしも竜が複数いるのだとしたら、ここで油を売っている訳にもいかない。
「今は違うかもしれない。…でも、それより前は、アンタはアタシの大嫌いな人種だったんだ。それは変わらない。変えられない。これからアンタがどれだけエルクに尽くしたって。それだけは…。」
分かっている。
彼女にとってだけじゃない。今まで俺が殺してきた人間、彼らに所縁のある人間にとって『影』は”ガルアーノ”と何も変わらない。人も家族も奪う「悪魔のような人間」でしかない。
救われる日が来るはずもない。
ただ、今はあの子だけを救えればそれで良いと思っている。あの子が心の底から笑う姿を見られたなら、俺は――――。