俺たちが首尾良く動けているからか?
これまでに多くの犠牲者を生んできたはずの「竜退治」は、俺たちに対しその牙を一向に見せようとしない。
黒点は今も太陽の中を静かに、悠々と泳いでる。
俺たちに気付いている様子もない。
「何だか、化かされてる気がするじゃないか。」
「……」
シャンテの言っていた『罠』が仕掛けられているような形跡も、気配もない。
……問題ないはずだ。
先へ進むほどに犠牲者の石像と遺骨が目立ち始めた。その全てが天を見上げ、恐怖に怯えている。
そして、その周囲には争ったであろう痕跡が生々しく刻まれている。
竜の爪は一掻きで人間の半身ほども掘る。その一歩は戦車のごとき轍を残し、羽ばたきは嵐を巻き起こす。
そして、その吐息は石にするものを選ばない。
草も木も、小バエでさえも命と引き換えに冷たい灰色の塊へと身を窶している。
「はてさてアタシたちは今、お伽噺の真実とやらに近づけてるのかね?」
「……」
馬を借りる際、俺たちはどこにでもあるような他愛のない物語を耳にした。
―――精霊様の懐から飛び出した子どもは竜に喰われてしまう
それは、町の外に出て森や山を探検しようとする子どもたちを戒めるため、数千年も昔に作られたものらしい。
「まあ、余所者のアンタらがどうなろうと俺たちの知ったことじゃないけどな。」
年の若い馬屋の主人は吐き捨てるように言った。
話しを聞いている内に、言い伝えの「森」や「山」が厳密には「ラウス地方」を指していることが分かった。
物語は、主人公の勇敢な少年が呪われた竜に食べられて幕を下ろす。
だが、それは子どもたちを躾けるために用意された幕。
子どもたちが大人として認められると、幕の裏ある物語の続き、もう一つの悲劇が明かされる。
――――食べられた少年は竜の心となって生きていた
しかし、少年は竜である孤独に堪えられず、人を襲い、竜の中の住人を増やそうと考える。
だが、彼の孤独が癒えることはない。なぜなら、竜は襲った人間の肉しか喰わないからだ。
呪いが、人の心を竜の中に縛りつけることなどない。初めから。
つまり、「人間」だと思っていた勇敢な彼は、もともと「竜」だったということだ。
少年はそのことに気付いた。気付いてしまった。
すると、少年はなおさら真実を受け入れられなくなり、真実を否定するためだけに今も人に害を成す化け物として生き続けている。
いつしか少年は人々から「夜を纏うもの」と呼ばれるようになり、襲われた人間は「夜」に埋められてしまうと畏れられるようになった。
そう、言い伝えられているという。
スメリアの成人であれば誰もが知る寓話であり、開国以前はスメリア人と密入国者を判別するために用いられていたらしい。
だが、その「開国」の引き金をひいたアンデル大臣が土地の開拓を推し進めるようになってから、その話はスメリア人の間でも禁句になりつつあるという。
「そもそもアイツ自身が余所者なのさ。」
それはあくまで噂に過ぎない。誰もヤツの正体を暴く証拠を持っていないからだ。
だが確かに、アレはスメリアの外の人間。もっと言えば、ロマリアの人間。そういう臭いを感じずにはいられない。
スメリアに住む誰もが彼を「スメリア人」だと認めていない。
しかし、それを口にする者もいない。
アレが非道で残忍な人間であることは国民の誰もが身を持って知っているからだ。
「あの男は国を護るためなんて言っちゃあいるが、誰がどう見たってアレは国を殺しにかかってる。分かり切ったことさ。」
国民へ罰則過多な法を強いる一方で、大臣は町の外へも熱心に手を伸ばしていた。
ヤツが大臣に就任するまでは禁じられていた森や山を切り開き、禁じられていたはずの高層建築物を造りだした。
そして、これを非難するような習慣、伝承の類は反逆罪として取り締まられるようになってしまった。
スメリアに確立した宗教こそ存在しないが、「精霊の存在」は実在すると判明した近代よりも以前から信じられてきた。
これを無下にするヤツの過激な行為は国民の心も体も支配するという図式を作り上げつつあった。
今回の「邪竜ギア討伐」はその一例に過ぎない。
受け継がれてきた「物語」を「精霊の加護」と信じる彼らは今、守り続けてきた戒律を破り、その報いとして膨れ上がる犠牲者の数を目の当たりにしている。
だが例え彼らが、この話が「真実」であることを知ったとしても、大臣と精霊が織り成すスメリアの終焉に怖れ、震え、身を縮こまらせて待つ他ない。
大臣の力があまりにも強大であるが故に。精霊という存在が彼らの世界の基盤であるが故に。
「年寄りほどこの話を強く信じてるよ。」
あの顔馴染みのギルド職員でさえ、堅く口を閉ざす始末だ。
「俺たちは奴に刃向えない。」
若い主人はまるで俺たちが件の男であるかのように睨んだ。
「国王さえ生きていれば話は違ったのかもしれないけどな。」
若い男はギルドの老人と違い、よく喋った。だからこそ、俺はこの国の鍵になるもう一人の男の名前を話題に挙げる気にもなれた。
「アークっ!!アイツもあの男の手先なのさ!皆言ってる。スメリア人の面汚しめ!もしも、アンタらがアイツを殺してくれたなら少しは見直してやってもいいぜ!」
若い主人の姿は、忠実にスメリアの現状を映し出していた。
「どうやらアタシらはまんまとあのクソガキに良いように使われているみたいだね。」
馬の背に乗りながら、彼女はここにいない「何でも屋」への悪態を吐いていた。
あの時、彼女は「国に恩を売る」というペペのやり方を「凡庸」と詰ったが、馬屋の主人が語った昔話が万が一にも真実なのだとしたら、今回の「龍退治」はスメリア史における「大事件」になるかもしれない。
その中心に立っているとなれば、良くも悪くも、スメリア全土がペペという男の存在を放っておくはずがない。
それだけじゃあない。
「龍退治」のもう一つの依頼主であるレジスタンスからの「信用」や竜が護っているであろう「宝」の処遇。
あの男は酒場から動くこともなく、酒瓶を傾けているだけでこれらの計り知れない報酬を得ようとしている。
そして、スメリア史…、いいや。今度は世界史を揺るがすであろう「大事件」に一枚噛もうとしているのだ。
レジスタンスという得体の知れない革命家集団を利用することで。
俺たちは見誤っていた。
ペペという男は、うらぶれた酒場の一角から歴史に一石を投じることができるような男だった。
俺たちは奴の偉大な業績を築くためのいち構成員として働かされているにすぎないのだ。
今さらそうだと気付いたとしても、俺たちもまた、ススキに身を隠しながら前へ前へと進んでいく他ない。俺たちにとって譲れない願いを奴が叶えられると言うからには。
それに、俺にはどうもこの一件がただの「竜退治」ではないように思えてきていた。
「それってのは、さっきのお伽噺のことを気に掛けてるのかい?」
「……ああ。」
物語の中にあった「勇敢な少年」と「呪われた竜」、この文言に俺は引っ掛かっていた。
いいや、突き詰めれば気になるものは他にもあったが、この二つは特別大事なことのように思えた。
冒険物語においてありがちな文句だということは分かっている。だがどうにも、俺にはこの言葉が別の意味を示唆しているように思えてならなかった。
――――あの竜は、この世に残った数少ない味方なのではないかと
ヤゴス島に眠っていたという「ヂークベック」のように。ロマリアに蠢く悪魔を討つための貴重な『戦力』のように思い始めていた。
ただ、それを確認する術を俺は持っていない。今向かっている平野の先にその答えがあるかもしれない。
「仮に、アンタの言ってることが正しかったとしてだよ、あのクソガキとの約束はどうするつもりなんだい?」
……ペペの要求は「竜の討伐」。それを証明するには竜の首が必要になるだろう。
もしもこれを違えたなら、ロマリアへの密入国という取引が白紙になりかねない。
だが、俺の憶測が正しければ、俺たちはまた一つ奴らを討つ切り札を手にすることができる。
これをみすみす逃して良いものだろうか。
「…なあ、アンタはいつからアークのお仲間になっちまったんだい?」
「……」
「アンタはどうか知らないけどね。アタシゃガルアーノさえ潰せればそれでイイんだよ。世界がどうなろうと知ったことじゃない。」
彼女に指摘されるまで、俺は気付くことができなかった。
俺たちの標的はあくまで「ガルアーノ」一匹であって、「ロマリアに巣食う悪魔たち」じゃない。
確かに「竜」は魅力的な戦力かもしれないが、必須ではない。
それなのに俺は、いつの間にか不必要な使命感に駆られていた。
アンデルを倒し、ロマリアの悪魔を殲滅し、世界を救うという勇者紛いの目標を掲げていた。
砂漠の少年のために遠ざけてきたはずの存在を、知らず識らず懐に置いてしまっていた。
誰かのため、という訳ではなく、俺自身の願望であるかのように。
「……すまない。」
「何に謝ってんだか。所詮、アタシとアンタらは他人なんだ。好きにすればいいだろ?」
「……」
……彼女は、本当にそう思っているのだろうか。
彼女の警告は、自分への不利益を避けるため。そんなことは重々承知している。だが、それを諭させようとする彼女の口調に、俺はどことなくミーナと似たものを感じていた。
そうして逸れた目的を修正した俺たちは竜の寝床に辿り着いた。
依然として太陽の中を泳ぐ竜を背に、俺たちは慎重に慎重を重ねて平野の奥へと進んだ。「お伽噺」という未確定の情報に悩ましさを覚えながら。
それでも俺たちは順調に進み続けていた。
だがその十数分後、事態は急変する。
「……!?あの木の下まで走るぞ!!」
「!?」
俺が叫ぶと、頭の回転の速い彼女は振り返りもせず目標に向かって矢のように駆けだした。
距離にして約100m。彼女よりも先に到達した俺は援護のためにライフルを抜き、急速に拡がっていく黒いシミの急所に狙いを付け、左右に振りながら計三発を撃ち込んだ。
だが、黒点は驚くべき反応速度で三発全ての急所への被弾を回避した。弾は黒点の隆起した肉体を裂くこともなく、鱗を僅かに傷付けただけに終わった。
狙い撃ちは時間の無駄だ。
機関銃に持ち替え、有無を言わせない弾丸の網を張る。しかしこれもまた、黒点に有効な痛手を与えることができなかった
黒点は強靭な翼で急所を隠し、機関銃の弾を悉くはじき返した。そのまま、落下の勢いに任せてこちらに突っ込んでくる。
せめてもの壁として選んだ枯木などまるで気に留めていない。
装備一式を捨て、黒点の落下点から逃げるように地面を蹴り、駆け寄ってくるシャンテを突き飛ばした。
――――直後、
轟音が枯れ木もろとも地面を抉るように着弾した。
衝撃波が一帯の砂塵を舞い上げるとともに俺たちの背中を蹴り飛ばす。俺は体を丸めることでなんとか受け身をとることができたが、その心得のない彼女は地面にしがみ付き、紙切れのように飛ばされていた。
まるで、爆撃だ。
一般的な生物ならあのレベルの落下衝撃から生還することなどまず考えられない。
……だが、土煙に浮かび上がる影は、それがさも当然のようにユラリと起き上がった。長い鎌首をもたげ、ゴウゴウという荒い鼻息を立てながら周囲の様子を伺っている。
俺は索敵する竜を無視し、彼女の飛ばされた方へと音を殺して駆けた。
「う…うぅ……」
すぐに発見できたものの、容体はあまり芳しくない。頭部に大きな裂傷があり、左右の手足が一本ずつ折れている。呼吸の様子からして、肺もやられているのだろう。
『死にはしない』だろうが、完全に再生するまでに間違いなく落ちてきた化け物に見つかってしまう。
そうこうしている間にも土煙を背負った大きな影はジリジリとこちらににじり寄って来ていた。
読み誤った。経験が仇になった。
装備は全てさっきの爆撃に飲まれた。手元に残ったのはたった一本のナイフ。
最悪の場合、情報収集さえできれば問題ないと思っていたが、これはそれすら許さない事態だ。
反応速度、強度、破壊力、どれをとってもあの竜は今までに獲ってきた竜と比較にならない怪物だ。今の装備では到底太刀打ちできない。
かといってあの速度で襲われるとなれば彼女を連れての逃走も難しい。
……一瞬、「死なない彼女」を見捨て、体勢を立て直そうと考えている自分がいることに気付いた。
五感を研ぎ澄ませ、彼女を背負い、頭の中を侵そうとする「悪魔」を振り払うように「逃げ道」を探した。
一秒たりとも無駄にはできない。最短かつ可能性の高い道を選ばなければ俺たちはここで死ぬ。
土煙の上がっている今ならヤツの五感も鈍っているはずだ。
「…すまない。」
「っぐう!!」
ナイフを彼女の腕に刺し、血糊の付いたソレを、影を横切るように投げた。
すると狙い通り。巨影は風を切り、血を撒き散らすナイフに気を取られ、俺たちから遠ざかっていく。
今しかない。
だが、全力でこの場を離脱しようとする俺の首を、弱々しく絞める彼女が囁いた。
「…動くな……」
分からなかった。その言葉が現状俺が取るべき行動を言っているのか。俺たちに対する「復讐心」が彼女を狂わせ、ただただ呻いているのか。
彼女の目を見るまでは。
流れる血に塞がれながらも僅かに開いた鈍色の瞳は、俺に訴えかけていた。
鋭く、眩しいまでの眼光は逃げ道を選ばず、ここで決着をつける意志に彩られていた。
俺はまた、彼女に魅了されてしまったんだ。
みすみす逃げられるチャンスを放棄し、俺は彼女をその場に下ろしてしまった。
彼女を隠すように覆い被さり、言われるままに息を殺し、その場を動かなかった。
無謀だ。
死ぬぞ。
経験と理解が行動を否定し続けているにも拘わらず、体はピクリとも反応しない。
「彼女とここで終わってしまっても構わない」
そういう不可解な感情が俺の全身を麻痺させていた。
狂った感情が、俺という人間を完全に侵してしまっていた。
「!?」
そういう、理解の追い付かない状況を利用されてしまった。まんまと意表を突かれてしまった。
彼女は覆い被さる俺の頭を引き寄せ、何の脈絡もなく唇を重ねてきたのだ。
「何を!?」
反射的に、彼女から離れる際、彼女の舌を噛み切ってしまった。
そして、彼女の『真意』は息継ぐ間もなく訪れた。
「……!?」
突如、全身に違和感が走ったかと思うと急激な眠気に襲われる。
抗うために指の一本を折り、歯を食い縛る。
全身が別の何かに縛られ、身動きが取れない。為す術もなくその場に崩れ落ちる。……完全に無防備だ。今襲われたなら、何一つ対処することなく殺られてしまう。
それでも襲い来る「眠気」は止まらない。
しがみ付く「意識」を絡め取り、混濁していく。
視界を埋め尽くす色という色が溶け合い、音という音が重なり合う。頬を撫でる風が爆風のようにも深海を揺蕩う穏やかな潮流のようにも感じられた。
……起きているのか、眠っているのか分からない。
俺は生れて初めて「本物」を肌で感じていた。
これが……、”死”…、か――――